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不透明な蜘蛛の糸

作者: 青色そら


その世界は、その男にとって、退屈なものではあったが、しかしながら、心地よいものでもあった。今日も男は腕に石を叩きつけながら、逃避行を続けていた。もちろん、男は好んで自傷癖を振りかざす奇人ではない。ただ、その大地と海と空が紅いように、男から流れ出る赤黒いソレが、世界と一体となる光悦に身を委ねているのである。



男は本を読んでいた。仕事をして、家に帰って、本を読んで、寝て、仕事をして、その繰り返しに、男の好きな小説家が書いたディストピアを重ねてしまった。次の日、男は仕事を休んでいた。その次の日も仕事を休んでいた。表層まで浮かんできた感情を抑えるために、その次の日は仕事に行った。そして、仕事は正常に進んだ。男はその日、仕事で大活躍をした。男は笑った。空虚な目で。



気がつくと、男はこの灰色に染められた世界に一体となっていた。自分が世界に求められている感覚を、その日初めて知ったのである。しかし、それと同時に、満たされることのない空腹と欲望が溢れ出て、痛みを感じるようになった。男は走った。ただ、走った。自分が何かの役割を有していると、心の底から叫びを上げていた。それは友人だったかもしれない。それは恋人だったかもしれない。それは仕事だったかもしれない。



走って、走って、走って、そうして男は笑った。川があった。鮮血のように赤い川だ。ぐつぐつと音を立てて、その川は、いらっしゃい、と呼んでいた。男の本能はこの川を恐れていた。しかし、太宰が脳裏によぎった。少し笑い、そして、気がつくと、男は赤黒い大地に立っていた。



夕焼けの赤ほど、美しくなく、星が照らす暗闇ほど、恐ろしくもない、しかし、その赤黒い空は、どうしてか男を震え上がらせた。そこには大きな山があった。赤く赤く、そして、幾分か黒い山だ。何座も何座もそびえ立つ、その山に、男は嫌悪感を抱いていた。その嫌悪感が男を突き動かし、そして、一歩、また一歩と鞍部を歩いていた。男はどうしようもない怒りを覚えていた。



しばらく歩くと、山が小さくなった。すると突然、男の背中には、針に刺されたように鋭い痛みが襲った。男は懐かしい感覚を愉しみながら、また、歩き始めた。そうして歩いていると、赤黒い空の隙間に青い空が見えた。男は安堵した。しかし、恐怖を覚えた。どんなに嫌悪感を抱こうと、男にとって、この大地は愛すべき故郷であった。背中の痛みは続いていた。それどころか、段々と腹に、肩に、そして、足に、と広がっていくのを感じていた。どうしようもなく、青い空を見上げていると、一本の細い糸が垂れている。男は歓喜した。芥川がそこにはあったのだ。糸は細く、そして、今にも千切れそうであった。男はしっかりと握り、そして、蟻の一歩と同じくらいの速度で登り始めた。



男は小さな一歩を踏み出している間、カントを思い出していた。義務の不完全履行である。親切な男だった。優しいと噂の男だった。しかし、男は目的の国には住んでいなかった。男は考えることが好きだった。そうして、時間を潰すのが、幸福であった。男には、世界は畏怖すべき対象であった。しかし、男の防衛本能は労働という、つながりを持たせていた。



男が丸3日登り続けると、すぐ下には、嫌悪すべき対象があった。赤と斑の黒色である。男は一言、ざまあみろ、と呟くと、すぐに糸を手繰り寄せた。すぐ斜め上には、青みがかった、しかし、まだ赤色が抜けない空があった。もうすぐである。男の痛みはいつの間にか消えていた。



更に1日登ると、下から、ミシミシと、そして、我も我も、と登ってくる多くの人影が現れた。男は笑った。ここまで、芥川と同じであるとは、と。男は下から馬のように登ってくる人影に何も言わなかった。それが答えであると考えていたのだ。糸は段々と細く、そして、明らかに千切れそうになる。しかし、それでも男は何も言わなかった。男自身も、やはり、ゆっくりと登っていくと、やがて、青色の空が広がっていた。男はやり切ったのである。喜んだ。しかし、糸はまだ続いていた。男の本能は言う、もうすぐだ、と。またゆっくりと、登ろうと糸を手繰り寄せた時、突然、それは千切れたのである。



もう丸2日は落ち続けている。青い世界から、赤い世界へと変わる瞬間、またしても、男の体に鋭い痛みが走った。久しぶりの痛みに、男は歯を食いしばった。男の目には、色がなかった。しばらく落ち続けると、あの嫌悪すべき対象があった。必死に顔を背けようとするが、男の顔は、絶対的な存在がそうさせたかのように、動かすことができなかった。しかたなく、それを見る。赤と黒の山、斑の黒は、人の姿であった。その瞬間、男は、なぜ自分が、それを嫌悪したかを理解した。男は震えていた。




また、人影が空を登っている。男は、しばらく、そちらに目を向けると、すぐに赤を積み上げた。まだ、空は赤い。しかし、少々青みがかっていた。男の体には、痛みはないらしい。


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