第3話 板前聖女は異世界の魚が食べたい3
ぴいぴいと鳥のさえずりが聞こえる。カーテンの隙間から差し込む陽光が眩しい……と感じたところで、ミオは目を覚ましてがばっと体を起こした。
(もう朝!?)
どうやらあのまま寝落ちしてしまったらしい。とりあえず寝台から下りてカーテンを開けると、一気に室内が明るくなった。ついでに窓も開けると、さわさわと風が吹きこんできて心地いい。
リオン曰く今の季節は春ということで少し春風を感じてから、ミオは姿見の前に立った。そこには地味な顔立ちのアラサー女子が映っている。その顔に化粧は施されていない。というのも、大人の女性の化粧はマナーというが、店では女性の化粧の匂いを嫌う客もいるため、ミオは仕事の日は化粧をしていなかったのである。
(化粧してなくてよかった……化粧したまま寝落ちしたら、肌が悲惨なことになるわ)
そんなどうでもいいことを――いや、女性にとっては真面目な問題だが――考えつつ、乱れた髪を手櫛で直す。真新しい異世界の服もしわくちゃになってしまっているが、換えの服はないので今は我慢するしかないだろう。せめてもの抵抗として手でしわくちゃの部分を引き伸ばしてはおいたが。
最低限の身だしなみを整えて、ミオは急いで一階の食堂へ向かった。すると、そこにはすでに席に座ったリオンの姿があり、リオンはミオの姿に気付くと片手を上げた。
「おはようございます、ミオさん」
「おはよう。ごめんね、ちょっと寝坊しちゃった」
「お疲れだったんでしょう。それに僕もさっき来たばかりですから。さあ、朝食を食べましょうか」
リオンはちょうど通りかかった従業員に「朝食を二つお願いします」と声をかけ、ほどなくして二人が座るテーブルに朝食が運ばれてきた。メニューはパンにサラダとスクランブルエッグと夕食より少し豪華だ。
「それで、今日は漁港の市場へ行くんでしたか」
「ええ。包丁とまな板を買ってからね」
「僕、思ったんですが、市場の人に貸してもらえばいいんじゃないでしょうか。多分、皆さん用意していると思いますよ」
「あ……それもそうね」
まだ住む所も決まっていないのに、食べ物以外の物を買うのは得策ではない。持ち歩くのは、国からもらったお金だけでも両手が塞がる。
買うのは貸してもらえるかどうか訊いてからでも遅くはないだろう。まあ、まずお金を払えば貸してくれるように思うが。
(異世界の魚かあ……どんな味がするのかしら。ふふ、楽しみ)
ミオは上機嫌で朝食を食べ、その後は個室に戻って少し休んでから、リオンとともに宿屋を出た。向かう先はもちろん、漁港市場である。
街路は主都というだけあって人通りが多い。リオンとはぐれないように注意しながら歩いていると、
「きゃっ!?」
どんっと誰かの肩にぶつかって、ミオはよろめいた。あまりの勢いに尻餅をつきそうになったが、こんな人混みで倒れたら人様の迷惑になるのと、何より踏み潰されてしまいそうでどうにか持ち堪える。
ミオの悲鳴に、リオンは気遣わしげな顔をして振り返った。
「ミオさん、大丈夫ですか!?」
「え、ええ。大丈夫。ちょっと人とぶつかってよろめいただけだから」
「そうですか、よかった……って、あれ? ミオさん、お金はどうしたんですか?」
「え?」
ミオは言われて気付いた。腕に抱えていたはずの、金貨が入った袋がない。よろめいた拍子に落としたのかと地面を見渡したが、どこにもなく。
ミオはさあっと顔を青ざめさせた。
(まさか、誰かに取られた!?)
思えば、あれだけ多額のお金だ。落とした瞬間に誰かに取られたか、あるいは遠目に見て掠め取ってやろうとわざとぶつかってきたのか。
ともかく。
「ど、泥棒ぉぉぉ!」
と、ミオは咄嗟に大声で叫んだ。誰かに捕まえてほしかったというよりは、そう叫ばずにはいられない、そんな衝動的な反応だった。
けれど、どこの世界にも正義感の強い人はいるものである。少し離れた所で「いてえ!?」と声が上がったかと思うと、ほどなくして犯人らしき男性を連れた男性が、ミオが持っていた袋を片手に現れた。
年はミオより少し年上だろうか。金茶色の髪が印象的で、少し強面だが整った顔立ちをしている。軍服めいた襟高の服を着ており、腰に剣を下げていることから帯剣が許されている身分の男性だと察せられた。
「このお金は君の物でいいか?」
「は、はい。ありがとうございます」
お金が手元に返ってきて、ミオはほっと胸を撫で下ろした。危ない、危ない。有り金すべてを失うところだった。
それにしても親切な人だな、ともう一度お礼を言おうとしたところ、
「レナード! レナードじゃないですか!」
と、リオンは弾んだ声で言った。その声に気付いてリオンを見た金茶色の髪をした男性――レナードは、とても驚いた顔をして青い瞳を見開く。
「これはリオン殿下……! すぐに気付かず、申し訳ありません」
「構いませんよ。今は平民に扮していますし」
「いえ、本当に申し訳ありません。それにしても、どうしてこのような所にいらっしゃるのですか」
「実は昨日、総本山で聖女召喚の儀式が行われたのですが、その巻き添えで彼女……ミオさんまでこの国に来てしまって。それでミオさんの今後の身の振り方が決まるまで、傍にいることにしたんです」
「ほう……」
レナードの少々強面な顔が優しげなものに変わる。感心しているといった雰囲気だ。
「さすが、リオン殿下はお優しい。……君、ミオといったか。儀式に巻き込まれたのは災難だったな。不安だろうが、リオン殿下が傍にいらっしゃるのなら安心していい。リオン殿下はしっかりとした方だ」
柔らかい表情で声をかけてきたレナードに、ミオも微笑み返した。レナードがどういう人なのかは後でリオンに訊こう。
「そうですね。とても心強いです」
「そうだろう。ところで、そのお金だが……少しは隠して街を歩け。奪って下さいと言わんばかりだ。とりあえず、この布をやるから」
レナードはそう言って、懐から風呂敷のような大きめの布を取り出した。それをミオに渡し、「では、私はこれで」とリオンに一礼してから、犯人らしき男性を連れて喧騒の中に消えていく。
ミオは早速、レナードからもらった布で簡易的なバッグを作って中にお金を入れた。これで少しはマシになっただろう。
そうしてミオ達も再び歩き出しながら、ミオはリオンに訊ねた。
「リオン君、さっきのレナードさんってどういう人なの?」
「レナードは王立騎士団の騎士団長です」
「騎士団長!?」
中世ヨーロッパ風の異世界なのだから、騎士という言葉に驚きはない。けれど、騎士団長といったら騎士団で一番偉い人だろう、とミオは目を丸くした。
「まだ若いと思うけど……それとも、若作りしてるの?」
ミオの言葉にリオンはぷっと吹き出した。
「あはは、若作りしてるわけじゃありませんよ。実際に若いです。まだ三十路前後だったはずですから」
「その年で騎士団長になんてなれるの?」
「王立騎士団の騎士団長は若い者がなるのが慣習です。その代わり、副騎士団長がお年を召されていますが。それにレナードの家は地方伯爵家でして、騎士団長に抜擢されたのはその影響もあるでしょうね。まあ、実際に剣の腕も強いんですけど」
「そうなんだ。でも、騎士団長がどうしてこの街にいるのかしら。普通、騎士団の本部にいるものじゃない?」
「レナードは剣の腕を買われて海上貿易船の警護を担当しているんです。騎士服姿でしたから、多分ちょうど仕事から戻って来たところなんでしょう。それに騎士団の本部には副騎士団長がいますから」
そういえば、この地方は海上貿易でも栄えている所だという話だったことをミオは思い出す。海上貿易船の警護担当ということは、あちこち飛び回っているのだろうと察せられた。
「へえ、そういうものなの。ちょっと強も……あ、いえ、優しい人だったわね」
ちょっと強面だけど、とつい前置きしそうになって、ミオは慌てて言い直した。けれど、リオンはミオが何を言おうとしたか察したようだ。可笑しそうに笑って言う。
「あはは、今、強面だと言おうとしましたね?」
「う……ごめんなさい。レナードさんに失礼なことを言いかけたわ」
「本人には言わない方がいいでしょうけど、そう思うのは無理もありませんよ。僕も強面だなあと思っていますから。でもそうなんです、優しい人なんです。だから、怖がらずに普通に接してあげて下さい。まあ、今後関わることがあれば、ですが」
「大丈夫よ、強面な客……いえ、強面な人には慣れているから。あの程度の強面なんて可愛いものだわ」
リオンの言う通り、今後関わることがあれば、の話だけれども。
そうですか、と穏やかに相槌を打つリオンとともに、ミオは漁港市場へ行く歩を進めた。