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揺れないブランコ

作者: 揺れないブランコ

僕の通っていた小学校は丘の上にあった。

いつもその坂を登るのが苦痛でならなかった。

通うのが億劫になるほどの斜面だったが、もちろんその坂を登るのこと自体が苦痛だったわけではない。

通学路のその道を子供達が朝の挨拶をしながら楽しそうに登って行くのに僕に声をかける者がいなければ僕も誰にも挨拶はしない。

誰も僕に関心は持たない。

僕も誰にも関心は持たない。

誰とも関わらないその場所に通うのがいつも嫌で仕方なかった。


そんなある日のこと、その坂をいつもの朝のように登りきり教室の扉を開けた。

一瞬、クラスメイト達が自分に目を向けた気がした。

騒がしかった教室が本当にその一瞬静まり返った気がしたから。

少し怪訝に思ったが、いつものように僕は俯いて自分の席に向かう。

そして気が付いた。

野菊の花が僕の机の上に置かれていたから。

どこからか持ち出したのか丁寧に花瓶に活けられて。

まるでその席に座る人間はこの世にもう存在しないとでも言うように。

しばらくその野菊を見つめる。

周りのクラスメイト達の楽しそうなお喋りが耳についた。

チャイムが鳴り、教師が教室に入って来る。

中年の女の教師は眼鏡越しに明らかにその花を一瞥したが結局それについて何も言わなかった。

だからその嫌がらせを誰がしたのかは分からなかった。

今思うとその光景はこれからの僕の人生を暗示しているようだった。


その日帰宅した僕は珍しく母親に話しかけた。

きっと今朝のことを慰めて欲しいと期待したのだろう。

「あの...母さん...」

母は帰った僕を振り向きませずに「うるさいよ」とだけ言った。

いつもいつもいつもいつも。


そう、誰も僕を見ない。

僕は誰かといても2人にはなれない。

誰かと共に歩めることは決してない。

僕は何も持ってはいないから。

だから僕は渇望した。

"無"になることを。

生きているから"在る"と分かっていたから。

だからあの日僕は自宅のマンションの屋上から飛び降りることができたんだと思う。


きっかけは十二月の16の大雪の誕生日。

もちろん誰からも祝われず部屋で窓の外を眺めていた。

雪の中、丘をさらに登った高校に行くのが不意に嫌になった。

今まで意識的無意識にそう考えたことはなかったが(今日このまま死ねば何もかもから解放されるんだ)ということに気づく。


僕を見ないクラスメイト。

僕を庇わない教師。

僕をいいように使う母と姉。

僕に関わることをしない父。


そうだ、屋上から飛び降りよう。

きっと雪の上に血の赤は映えるだろう。

唐突のその思い付きに僕は胸を高らかせた。

なぜそんなことがきっかけになったのだろう?

今までの小さな積み重ねがたまたまその日ダムが決壊するように容量を超えただけなのだろう。

そうだ、死ねばもう思い煩うことはないんだ、と。


マンションは9階建。

9階と屋上への階段は落ちることを危惧しなければなんとか超えることのできる簡易な鉄の扉だった。

それを乗り越え屋上へと登る。

そこからは美しい光景が広がっていた。

雪をまとった山々。

幻想的に降り積もっている銀色の世界。

行き交う人々の傘の鮮やかさ。

僕はしばらくその光景に見入った。

これが、最後に見る風景なんだ。

しかし僕には恐怖はない。

屋上のへりには柵はなかった。

そこに立ち、風景を眺めながら深呼吸をする。

目を閉じてそこから踏み出した。


恐怖はなかった。

戸惑いはなかった。

躊躇はなかった。

地面に打つかるその瞬間まで僕は不思議と今までに感じたことのない安堵感に包まれていた。


気がつくと眩い光に包まれていた。

目を細め周りを見渡す。

どこまでも続いているような広大な空間。

所々に直視できないほどの瞬く光点があり、その空間を照らし出していた。

記憶を手繰り、自分がなにをしたか思い出した。

なんてことだろう。

僕は"無"になりたいが為に飛び降りたのにまだここに"在る"。

ということはここはあの世、なのだろうか。

『その通りだ』不意に声が空間に響き渡った。

振り向くとさっきまで何もなかった空間に人間らしき形状をしたものがあった。

逆光で姿がはっきりとらえることができない。

(これは、神様と言うものだろうか?)と僕が思うと共に『そうだ。私はお前達がそう呼ぶ存在だ』どうやら心の中も覗けるらしい。

『魂とは精神。お前の体は死んだが心はまだ残っている』

神は言葉を繋げた。『お前は私の与えた命を蔑ろにした。私がこれから課せることを成せばお前の願いをひとつ叶えてやる。それが本当の"無"に帰すことだとしても』

「しないとどうなる?」

そんなことを神だと、自分でも信じられるものに問えたのはいやな予感がしたせいだった。

『神である私の与えた命を粗末にした報いはしなければならない。もしそのまま行動に移さないのならお前の魂は未来永劫暗黒の淵に堕ちる。お前の生きていた苦痛が羽虫に喰われた程度に感じる程にな』

耳に心地よい荘厳な声で神は恐ろしいことを口にした。

すなわち、永遠に地獄で苦しまないといけないということらしい。

逡巡した後「何をすればいい?」と問うた。

『もう一度下界に降り、ある人間の願いを3つ叶えて来るのだ。その為の力は私が授ける』

「いやだ」気がつくと即答していた。「もう人間には関わりたくない。その為に僕は死んだのに」

『その仕事さえするのなら善行を成したと見てお前の願いを1つ叶えよう。』

「本当にこの世から消えることができるのか?」神の声が気持ち優しくなった。

『生きているのもを殺すことは出来ないし、死んだものには命は与えられない。生きている体があって初めて1つの命なのだ。しかしお前はもう死んでいるから魂を消すことはできる』

それだったらあながち、悪条件ばかりではないかもしれない。

『ルールは簡単だ。1つ、願い事は増やせない。2つ、命を奪わない。3つ、命を与えない。お前がこの願いを叶えたい、と願えばそれでいい』

「誰の願いを叶えたらいい?」

『目を閉じろ。その場所までお前を移動させる』

神が不意に僕に向かって手を差し伸べた。

全てに納得できたわけではないが、僕はおずおずと神に手を伸ばした。

わずかに手が触れた瞬間、更に眩い光に包まれ僕の意識は途切れた。


ハッと気付くと見知らぬアパートの扉の前に立ち尽くしていた。

眠りから覚めても夢を反芻出来るように神とのやり取りは頭にあった。

自分の手を見つめる。

さっきなような浮遊感も何もない。

神が仮初めの肉体も与えてくれたようだった。

恐らくは自分のやるべき事が終わるまで。

周りを見渡す。

人影はない。

少し寂れた感じの街並みだった。

夕暮れの時間だったようで太陽が沈みゆく。

雪はちらほら程度に降っていた。

赤い夕焼けに照らされたそのアパートは陰鬱な影を落としていた。

何故か死んだ昆虫を眺めているような嫌な気持ちになる。

多分、目の前の扉の向こうに神が言う人物、がいるのだろう。

しばらくその扉の前で逡巡する。

しかしジッとしていても始まらない。

インターフォンに手を伸ばした。


ピンポーン、と間の抜けたようなチャイムの音が反響する。

しばらく待つが誰も出てこない。

遠慮がちにもう一度鳴らす。

それでも反応はなく、仕方ないので扉をノックした。

すると、扉の向こうからガサガサと音がしてゆっくり扉が開いた。


思わず息を飲んだ。

そこには幼稚園生くらいの少女がいた。

部屋の散らかり具合と少女の痛々しい痩せた体に言葉を無くす。

着ているものもこの寒い季節に大人用の長袖のシャツ一枚だった。

少女はガラス玉みたいな瞳でぼんやり僕を見ていた。

どのくらい無言で向かい合っていただろう。

「誰?」と、少女が最もな問いをした。

反射的に「僕は従兄弟のお兄ちゃんだよ」と、取り繕う。

これくらいの幼い子なら疑問を持たないかもしれない。

少女は納得したのかそれ以上何も言わなかった。

「お名前はなんだっけ?」

従兄弟と言いながらそんな質問をする。

「亜美」

「年はいくつだっけ?」

今まで小さな子供との接触がなく、いくつぐらいなのかがよく分からなかった。

「5歳」

曖昧に頷きながらさり気なく家の中を伺う。

入ってすぐがリビングで奥が寝室のようだった。

人の気配がない。

留守番させられているのだろうか?

「パパとママは?」

「ママは帰ってこない。パパは病院」

亜美、と名乗った少女は淡々と話す。

しかしそれは淋しさの裏返しかもしれない。


神は何故この少女の願いを叶えろと言ったんだろう?

そこに何かの意味はあるのか神の気紛れなのか。

こんな幼い少女の願いとは一体なんだろう?

「亜美ちゃん、何かして欲しいことはある?お兄ちゃんは魔法使いだからなんでも3つ、お願いを聞いてあげるよ」

亜美は答えずぼんやりと僕の顔を見つめるだけだった。

いきなり家に来た知らない男が「自分は魔法使いだ。 」なんて言うのだから警戒させてしまったのだろうか。

「何か、欲しいものか、して欲しいことはある?」ゆっくりともう一度言う。

すると少女の小さな口が動いた。

「ん?」聞きながら玄関にしゃがんで亜美と同じ目線にする。

「ご飯が食べたい...」亜美はそう言うと俯いてしまった。

しばらく食事を摂ってなかったのだろうか。

おそらく、神から貰った力でこの場で食事を具現化することは出来るだろうがこんな幼い少女を混乱させるわけにはいかない。

幸いこの時間ならスーパーぐらい空いているだろう。

「亜美ちゃん、しばらく待ってられる?お兄ちゃん買い物行って何か作ってあげるから」


大通りの方に向かい辺りを見渡すと意外に近い場所にスーパーはあった。

メニューを考えるが亜美の好物が分からない。

定番で行くと甘口カレーかな?

それならあまり手間もかからないしすぐに食べさせてやれるだろう。

あの部屋に米があるか確認してなかったし一応米も買い物かごに入れる。

少し遅めの時間のせいか店内は閑散としていて買い物はすぐ済んだ。


アパートに着き、扉を開ける。

亜美はリビングのテーブルに両手と頭を投げ出していた。

部屋も散らかっているがキッチンも汚れた食器でいっぱいだった。

片付けたかったが先にカレーを作ってやった方がいいだろう。

炊飯器に米をセットした。

「どのくらい1人でいたの?」

「...分かんない」

こんな小さな子だと日にち感覚もないのかもしれない。

「そっか、お腹空いてるんだよね。カレーは好き?」

「お兄ちゃんカレー作ってくれるの?」パッと頭を持ち上げる。

「ずっとママが帰って来なかったから長いことご飯食べてない。ママはたまに帰って来て、パックのカレーあっためてくれるだけだった」

胸がちくり、と痛む。

人に蔑ろにされる気持ちはよく知っている。

自分と重なり、唇を噛んだ。

しかしとりあえずは早く亜美に食事をさせてやらなければ。

僕はあえて何も言わず、野菜を細かく刻んだ。


できたカレーライスとスプーンを亜美の前に置く。

しかし亜美は空腹のはずなのにスプーンを取ろうとしなかった。

「食べないの?」

「...怒らない?」俯きながらそう言う。

普段どんな育て方をされていたんだろう。

食事をするしないで親にきつく当たられたことがあったのだろうか。

「怒ったりしないよ。おかわりもまだあるからたくさん食べてね」

それを聞いた亜美はスプーンを静かに手に取ると咀嚼する間も惜しいとでも言うようにカレーを口に運んだ。

夢中で食べ物を口にする子供を眺めるのがこんなにも気持ち安らぐものだと初めて知った。

しかし左手で食べているのが気になった。

「亜美ちゃん、手が逆だよ。こっち」亜美の右手を指差す。

交互に自分の手を見た後にぎこちなく右手に持ち替えた。


空腹が満たされると亜美はしきりに欠伸を繰り返した。

「もう夜だから寝てていいよ。僕は後片付けしておくから」

亜美はうなづくと形だけの寝室に入っていった。

カレーも作ったので散らかっているキッチンが更に散らかってしまった。

地道に洗い物をする。


ようやく納得がいく程度には片付けが終わった。

亜美はもう寝ただろうかと寝室を覗く。

すると亜美は布団の上に座っていて、現れた僕の顔をじっと見た。

「寝られなかった?」

「だって、寝たらお兄ちゃん帰っちゃうんでしょ?」

子供ゆえの勘の鋭さなのだろうか。

確かに今日、明日程度なら一緒にいられるかもしれない。

だけどずっと人と共にいるなんて、僕にできるわけがないんだ。


「あんたが人のために出来ることがあるなら自殺することぐらいだよ」


死を決意した数日前に母に言われた言葉が頭をよぎる。

そう、いつもいつもそうだった。

誰にも見られず、必要とされない。

でも、この子は...。

「亜美ちゃんは僕と一緒にいたいの?」

その言葉を口にするのには勇気がいた。

「うん...」

亜美は、僕をまっすぐに見てくれる。

だけど自分はもう死んでるわけで...生きていても5歳の他人の子供に何もしてやらないわけで...。

胸が苦しい...。

複雑な顔をしてるだろう僕の顔を亜美は不思議そうに見ている。

「どうしたの?」

「なんでもないよ。起きても側にいるから今日はもう寝よう」

「ほんとにいてくれる?」

「ちゃんと横にいるよ」そう言って自分にしては精一杯の笑顔をする。

「じゃあ、手」亜美が小さい手を僕に差し出す。「...つないでて」

「分かったよ。おやすみ」

手を握る。

温かい。

人の温もりなんて何年もまともに感じたことなかった。

なんとなく、神が自分をここに派遣した意味が解ったような気がした。

この子と自分は似ている。

いつも何か欲しかった。

だけど諦観しているふりをずっとして。

自分には手に入るはずはないから、と。

自分に似ているこの子を守ってやろう。

出来るだけ側にいて助けてやろう。

この子の役に立つことで自分を救えたような擬似感を得たいだけなのは分かってる。

そこからは何も生まれない。

自己満足でも、この子の力にはなれるだろうから。


ものの10分もしない内に亜美は寝息を立て始めた。

食事もろくにとってなかったようだしシャワーも浴びた様子はなかった。

しかし本当に散らかった家だ。

洋服、靴、化粧品に食べ残しなどのゴミ。

服装を見ると亜美の母親はずいぶん若い女のようだった。

それにしてもこの様子を見ていたらもしかしてこれは育児放棄、ではないのだろうか?と思う。

ふと枕元を見るとガラケーの古い携帯があった。

電源は入っていない。

亜美を起こさないように気を付けながらそれを手に取る。

多分、随分前に解約したものなのだろう。

裏を見るとプリクラが貼ってあった。

少し、いかつい感じの長髪の男とまるで水商売の女のように派手な、しかし美しい女性。

亜美の母親だろう。

少し不健康なくらいのきつい美人で亜美とは似ていない。

仮初めの体でも疲れるらしくいつのまにか眠りに落ちていた。


どうして?

どうして僕を蔑ろにしたの?

どうして僕を見てくれなかったの?

どうして僕を必要としてくれなかったの?

どうして僕と関わってくれなかったの?

どうして?どうして?どうして?どうして?


「大丈夫...?」驚いて目を開ける。

亜美が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。

「え、あ...もう朝か...」

寝顔を見られたのがなんだか無性に恥ずかしい。

なんだか嫌な夢を見ていた気がする。

生きていた頃から夢見が悪くあまり熟睡できなかった。

形ばかりのベランダを見ると快晴だった。

昨日、一応買っておいた塩鯖を焼き、惣菜のほうれん草のおひたしを皿に盛る。

そして味噌汁を作る。

子供が喜ぶメニューではないかもしれないが彼女の痩せぎすな体を見ると栄養をつけさせてやりたかった。

切り身だが少し骨が入っているので鯖を箸でほぐしてやる。

それでも利き手を強制中の亜美はかなり苦戦していた。

それはその為であったろうが、亜美は意図なく味噌汁をひっくり返してしまう。


慌てて味噌汁のかかってしまったシャツを脱がそうとしたが彼女の反応は思っていたのと違った。

熱い味噌汁なんて気にも留めてなかった。

小さな声で、何度も呟く。

「ごめんなさい...ごめんなさい...」

体が小さく震えている。

今までどれだけの苦しみをこの体に受け止めてきたんだろう。

「泣かないから...だから、殴らないで...ごめんなさい、ごめんなさい...」

かなり怯えているようなのに言葉の通り泣く気配を見せなかった。

これじゃ、幼い時の僕と一緒じゃないか。

笑い、泣き、怒る。

人間として当たり前の権利なのだ。

だけど僕にも亜美にもそれはなかった。

「亜美」

亜美がおずおずと顔を上げる。

「僕は君を傷付けたりしないよ。亜美が困ってる時は助けてあげる。魔法使いだって言っただろう?」

「本当になんでも?」

「うん」

残った願いは後2つ。

亜美は何を願うんだろう?

「クレヨンが欲しいの。色がたくさん入ってるやつ」

「クレヨン?」

あまりにも欲のない願い事過ぎしないか?

でも、亜美がそう望んでるならもちろんそれでいい。

「分かった、もうすぐクリスマスだしちょうどいいしね」

クレヨンくらい親も買ってやったらいいのに...。

神に範囲ではない人の願いを叶える仕事を任されてしまったが今はそれもまんざらではなかった。

少なくともその間は亜美と一緒にいられるから。

いつのまにか僕はこんな幼い少女に随分感情移入しているようだ。

神はそれを喜ぶのだろうか。

それとも、嘲笑うだろうか。


ひと段落ついて亜美は残りの朝食を食べていた。

いつまでも味噌汁のついたシャツを着させてるわけにもいかないし風呂にも入れてやりたい。

他人の子供、しかも幼い女の子を風呂に入れていいものだろうか?

少し引っかかるがそうも言ってられないのでとりあえず風呂場に行き湯を張る。

寝室を少し漁ると目当てのものが出てきた。

亜美の洋服だ。

英語のゴロの入ったトレーナーにハートの刺繍の入ったジーンズ。

脱衣所にそれを置くと亜美を呼んだ。

「風呂沸いたよ。シャツは洗濯しとくから」

「ありがとう」

亜美は嬉しそうにそういうとシャツと下着を脱いだ。

「えーっと、とりあえず頭を洗うか。シャンプーハットはある?」

「そんなの使わなくても大丈夫だよ」

椅子に座った後ろからだったので表情は見えなかったがおかしそうに言った。

念入りに髪を洗う。

子供独特の細い柔らかい髪。

胸元までの長髪でクセもないので手入れさえすればきっと綺麗な髪になるだろう。

何度か洗うと汚れも落ちた。

「背中だけ洗ってあげるから前は自分で洗ってね」泡のたったスポンジを渡す。

さすがに堂々と前は洗う度胸は僕にはないようだった。

泡を落とすと脇の下に手を回して亜美を浴槽に入れる。

すると体に痣や傷跡があるのに気付いた。

「それどうしたの?」

「えっと、転んだだけ」

おそらく殴られた...。母親からだろう。

この現状を見るとそうとしか考えにくい。

転んだと誤魔化すのはそういうことだろう。

虐待を受けている子供は親をかばってしまうものだから。

そうして自分は悪くて親は悪くないと正当化してしまう。

そうしないと、自分が愛されてないことを認めてしまうことになるから。

いい子にしてればちゃんと愛してもらえる、と。

「亜美は新しいママとパパ欲しい?」

亜美がそれを願えば神にもらった力で新しい両親を家族にできるだろう。

だけど亜美は首を横に振った。

「いらない。亜美、ママとパパ大好きだから」

ひたむきな瞳。

そこに宿るのはその年であってはいけない強さ。

この年なら弱くて当たり前なのに。

誰かを頼ってもいいのに。

僕はあえてそのことについて何も言わなかった。


風呂も入って服を着せるとやはり体は痩せすぎだが年相応の子供に見えた。

こうやって見るとかなり〝可愛い〟部類に入る女の子だと今更気付く。

きっと大人になったら美人になるんだろう。

「いつも一人で何してたの?」

「何もしないよ。勝手にお外出ちゃうと怒られちゃうから」

亜美は当然のようにそう言う。

「一緒に少し散歩でも行こうか?」

「でも...」

「僕がついてるから大丈夫。ね、行こう」

亜美は迷っているようだった。

本当は外にだって出たいに違いない。

なのに、怖くて一歩足を踏み出すことができない気持ちはよく分かる。

だから僕は亜美を誘ったのだ。


玄関の扉を開くとちょうど隣から太った人の良さそうな中年の女性が出てきて声をかけてきた。

「あらぁ、亜美ちゃんお出かけ?良かったわねえ」

そう言って細い目をさらに細くさせる。

「こんにちは」

隣人のようなので一応挨拶をする。

「こんにちは。見かけない顔ね」

「亜美のお兄ちゃんなの。昨日はカレー作ってくれたの」

亜美は控えめだが嬉しそうに言った。

「従兄弟かなにかかしら?仲が良さそうでいいわねぇ」

女性が亜美から僕に視線を移した。

「亜美ちゃんのお家にいたのよね?紗里奈さんはどこにいるか知ってる?」

紗里奈というのはおそらく亜美の母親だろう。

「いえ、ちょっと連絡が取れなくて...。心配になって来てみたら亜美がひとりで...」

「はっきり言って虐待よ。こんなに可愛らしい子なのに」

幸い亜美はその会話を聞いている風ではなかった。

「いつもどこかに怪我して...さり気なく紗理奈さんに聞いてみたけどはぐらかされてね。それからはろくに亜美ちゃんを表にも出さなくなって、姿を見るのも何週間ぶりかしら」

そんな長い間、軟禁されていたのか?

頭の中でふつふつと怒りが込み上げる。

なぜ?

目の前の女がテレビで見たワイドショーのように亜美の心境を語るから?

なぜ?

母親がこんなに小さいこの子をそこまで虐げたから?

なぜ?

そんな目に合ってるのに亜美が抗うことをしないから?

なぜ?

自分は何もしてやれないから?

こんな目にあっていたもこの子は僕より母親と父親を取るのだろう。

その報われない想いに幸せはあるのか?

僕のことはどうだっていい。

だけど、亜美には幸せになってほしい。

頭の中がぐるぐる回ってもやもやして気分が悪くなる。

生きていた時と一緒だ。

悪いことを考え出すと歯止めが効かなくなってしまう。

その挙句、僕は命を無心した。

気付かれないように細くため息をつくと「紗理奈叔母さんが帰ったら話し合ってみます」と、言って亜美の手を引きその場を後にした。


しばらく二人でその辺をぶらつく。

空気が冷たいが澄んでいる。

深く息を吸い込むと頭の中もクリアになっていった。

日差しも出ているので寒さもあまり感じない。

亜美が不意に立ち止まる。

その視線を辿ると小さな公園があった。

小さな砂場。

趣のないブランコ。

年季の入ったシーソー。

顔を覗き込んでみると亜美はハッと視線をそらす。

公園に行きたい、そんな一言が言えないみたいだった。

僕の前でくらいもっとわがまま言えばいいのに、と思うが自分もそんな子供だったので気分を察することは出来た。

「ちょっと寄って行こうか?」

亜美の表情が明るくなる。

公園には誰もいないので貸切状態だった。

一通り遊具を見た後で亜美は砂場に興味を示したようだった。

「大きいお山を作ろう!」珍しく亜美は自分から提案までしだす。

山を作りながら亜美が「海の砂浜ってこんなの?」と、聞いてきた。

「もう少しサラサラしていて綺麗だよ。海に行ったことないの?」

「うん、行ったことない」

海はこの近くにあるのに連れて行ってもらったこともなかったのか...。

「暖かくなったら海に行こうか」

「ほんと?」体を前に乗り出した拍子に亜美がうめいた。

「どうした?」「手が...」

亜美の手を取る。

指先に切り傷ができていて血が流れていた。

「大丈夫か?砂にガラス片でも埋まってたのかな」

泣くかな、と思って亜美の顔を伺うが顔をしかめてはいるが泣く気配はなかった。

「大丈夫、痛くないから」

まだたった5歳なのに、そんな我慢なんてしなくていいのに。

弱音を吐いたら嫌われる。置いてかれる。

それが怖いんだよね。

「強いな、亜美は。僕とは全然違うよ」

「お兄ちゃんは弱いの?」不思議そうに僕の顔を見る。

「僕はね、逃げたんだ」

幼い少女にそんなことを言っても仕方ないのは分かってる。

「誰にも必要ともされないでいつも誰にも見てもらえなかった。そんなに多くを望んだわけじゃないよ。ただ人並みに生きたかっただけなんだ。なのにそれすらままならなくて...。疲れてしまったんだ。だから...」飛び降りたんだ、という一言はさすがに飲み込んだ。

「誰にも助けて、って言わなかったの?」不意にそんなことを言われた。

「ちゃんと伝えないと、ちゃんと言わないとみんな分からないと思う。だからちゃんと言わないとだめだよ」

亜美は真剣な表情だった。

頭を撫でてやりながら言った。「亜美も人に助けて、って言ったことなんてないんじゃないか?」この子の性格上そうだと思った。

「言わなかったけど...。いつも思ってたよ」

「そっか...」

「そしたらお兄ちゃんが来てくれたから、お兄ちゃんは亜美のヒーローなの」ひたむきな瞳でそんなことを言われ、僕はバツが悪くなった。

僕はそんないいもんじゃないよ、と。


亜美と公園を後にして最寄りのコンビニに向かう。

一応亜美に聞いたが、家に救急箱がなかったようだった。

縫うほどの傷ではないとはいえ砂場での裂傷はきちんと手当すべきだと思った。

コンビニなら一通りの応急処置の薬なら売ってるだろう。


コンビニの駐車場で消毒をし、絆創膏を指に巻く。

我慢強い亜美は何も言わなかったが子供には痛い怪我だろう。

「お昼だし今日はお外でご飯食べようか」気分転換に亜美を食事に誘った。

「いいの?」

亜美の顔が明るくなる。

笑顔、とまではいかないけど嬉しいのは間違いないようだ。

亜美のそんな表情を見ているとこちらまで嬉しくなってしまう。

今まで子供との接点がなかったし初めはどうなることかと思ったがこの子といると僕の方が穏やかな気分になってしまう。

これも神の思惑なのだろうか。


亜美の好みが分からなかったので無難にファリミーレストランに行くことにした。

昼時とあり混んでいたが、待たされることはなく席に座れることができた。

亜美はずっとメニューと睨めっこをしている。

この年頃だとお子様ランチでも注文するのかな、と思ったが「えっと、えっと...カレー」そう言われ僕は内心ずっこけた。

「亜美、カレーは昨日の晩に食べたろう」

「でも一番好きなのはカレーだから...」

「うーん...。じゃあお昼は違うものを食べて、夜またカレーを作ってあげるよ。カレー以外なら何が食べたい?」

またメニューと睨めっこして「これ、食べたい」と、お子様ランチを指差す。

「いいよ。僕は蕎麦にしとくよ」

店員を呼び、注文をした。


亜美は右手で不器用そうにお子様ランチを食べている。

僕は蕎麦をすすりながら何気なくレストランのガラス越しに外を見た。

人混みの中に知ってる顔を見つける。

亜美のうちで見たプリクラに写っていたあの顔。

冷たいその横顔は亜美の母親に違いなかった。

思わず立ち上がる。

亜美は母親に気付いたそぶりはなかった。

しばらく考えあぐねたが「亜美、少し一人でいれる?」僕はそう亜美に言うと店を飛び出した。


亜美の母親が歩いて行った方向に走る。

しかし僕は彼女に何を言おうとしているのだろう?

僕が何かを言って解決する次元の話なのだろうか。

でも本人を前にしてこのまま黙っていることはできなかった。

しばらく道並みに後を追うとその後ろ姿をやっと見つけることができた。

「すみません」声をかけるが自分が声をかけられたと気付かないのか亜美の母親は振り返らなかった。

「亜美ちゃんの母親の紗理奈さんですよね?」そう言うとやっとこちらのほうに向き直った。

「あんた誰?」

一瞬、言葉に詰まる。

もっともな質問だがなんと答えたらいいのだろう?

「あなたがあの子に何をしているか知ってる者です」

あえて高圧的な態度を示す。

女はしばらく僕を一瞥すると「ああ、()()はまだ生きてるの」と、言い放った。

()()

どうしてそんな言い方ができるのだろう。

「あんたがあの子の面倒をみてるわけ?」突き放すような冷たい話し方をする女だった。

「あの子がどんな状態にあるのか知ってれば他人でもほっとけないと思いますよ」対抗するように僕も少し皮肉を込めて言った。

「へー、人の家の娘を世話してくれる変態さんってわけね」「あなたみたいな人にそんなことを言われたくない!」思わず語尾を荒げる。

女は鬱陶しそうに髪をかきあげた。

「こんなとこで大声出さないでよ。...分かったわ。30分だけなら付き合ってあげるわよ」そう言うと斜め向かいにある喫茶店を顎で示した。


「それで、何が言いたいわけ?それとも脅迫?」と、めんどくさそうに言った。

言いたいことはありすぎて言葉が出ない。

「どうして、母親なのにあの子にあんな仕打ちができるんだ?」

女は僕の方を見ずに長いため息を吐く。

「子供を産んだら誰にでも絵に描いたような母性本能が芽生えるなんて思ってるの?見た目もそうだけどあなたずいぶん子供なのね。わたしはあの子を可愛いなんて思ったこともないから」

「だからって...」「わたしは子供なんて欲しくなかった。旦那がどうしても産んでくれって言ったから産んだだけ。あんたあんな泣きも笑いもしない子供の面倒なんてよく見れるわね。わたしはもうごめんだわ。あんなお荷物さえなければもっと自由に生きれたのに」

なんて身勝手な考えなんだろう。

「あなたがなんと思おうがあの子はあなたを必要としてるんだ。もうあの子に手を挙げたり放置したりはやめてほしい」

「もう勘弁してくれない?そんなにあの子が気に入ったならあんたが面倒見ればいいじゃない」

話が通じない。

「父親は何も言わないのか?」

「もういないわよ」

「亜美は父親は病院だと言ってたけど、もしかして...」「脳死ってやつよ。車の事故でね。もう二度と目を覚まさない。あの人が亜美を産めって言うから産んだのに何の意味もなかったわ」僕の言葉を遮るように女は言った。

じゃあ亜美は母親には見放され、父親には死なれたと同然のことなのか。

「あの人がそうなってわたしはやっと自由を手に入れたの。これ以上縛られるのはごめんよ。あの子のことは任せるわ」女はそう言うと伝票を手にして立ち上がった。「もう30分経ったわ。ここはわたしが払っておくから」そう言って冷たく笑う。

一人喫茶店で取り残される。

暖かかったコーヒーはもう冷めていた。


少し遅くなってしまったが亜美は大人しく席についていた。

「ごめんね、一人で待たせて全部食べたんだね」「美味しかった。どこに行ってたの?」

「うん、知り合いがいたんだ」まるっきりの嘘ではない。

「じゃあ帰ろうか」

亜美は頷いた。


二人で手を繋いで帰路につく。

目線を下げると亜美と目が合った。

微笑んで頭を撫でる。

少し亜美の表情が和らぐ。

これからもこうしていたいな、と思い自分でそれに驚いた。

いつまで僕は亜美のそばに居られるんだろう。


それから数日が過ぎた。

優しい時間。

今まで経験したことがなかった安らかな時。

僕をいつも否定しない温もりがいつもそこにある。

僕を頼り、なにかしてやると喜んでくれる。

だけど僕には分かっていた。

そんな日々は続かないのだ。

僕はもう、死んでるんだから...。

近い内にもうこの温もりに触れることはできなくなる。

そう考えると胸が苦しくなる。

生きている時すらそんなに胸が痛くなることはなかった。

でも生き返ることはもうできないのだ。

それは神にも出来ることではないから。

だから僕の願いは叶わない。

そんなことを思う内についにクリスマスがやって来た。


雪が降りしきる中、近所の文房具屋でクレヨンとおまけでスケッチブックを購入した。

願い事はあと1つ。

亜美は何を願うだろうか。

少しでも幸せになってほしい。

亜美がちゃんと毎日笑っていられるように。

亜美が幸せになってくれるなら僕は何も厭わない。


アパートの前に赤い車が止まっていた。

中を伺うが誰も乗っていない。

亜美の部屋の扉が開いている。

怪訝に思いながら中に入ると尻餅をついた亜美と亜美の母親がいた。

亜美は左の頬を手で押さえていた。

もしかして殴られたのか?

「あんた、亜美に何をしたんだ!」女は僕を一瞥した。

「荷物を取りに来ただけなのにこの子が行かないで、ってまとわりついてきたから払っただけよ」

女はそう言いながらキャリーバッグに服やら化粧品などを詰めていく。

亜美は何も言わない。

「これで本当にさよならよ。お兄さんに可愛がってもらいなさい。じゃあね、亜美」そんな時だけ微笑んでみせる母親。

手早く荷物をまとめると振り返ることなく部屋を出て行った。

亜美は閉められた扉を呆然と見ている。

その時、表で衝撃音が響いた。

まさか...。

慌てて表に出る。

雪でスリップしたのか亜美の母親が運転していた車が事故を起こしたようだった。

「ママ!」

亜美が裸足で駆け寄る。

僕も慌てて車の下へ走った。

車を覗き込むと、女は頭を強く打ったようで大量に出血していた。

意識もないようだった。

「ママ!ママ!」 亜美は必死に母親に声をかける。

素人目にもその怪我が命に関わるものだということは分かった。

「やだよ、ママ。死なないで...。亜美、なんでもするから。お願いだから死なないで!」あれだけ感情の起伏がなかった亜美が大粒の涙を流した。

僕の胸も痛んだ。

お前は亜美の幸せを願っていたのではないか?

亜美の幸せのためならなんでもするのではなかったか?

お前は何のために何を望んでいたのだ?

「亜美...」亜美は応えなかった。「お兄ちゃんは魔法使いだと言ったのを覚えてるか?」

「うん...」小さな背中が震えている。

「まだ願い事はひとつ残ってる」涙にくれた目で僕を見つめる。

「ママを助けることができるかもしれない」

それは賭けだった。

神は言った。

命は奪わず、与えない。

だけど今なら亜美の母親は生きているかもしれない。

()()()()ことならできるはずだ。

「じゃあ、お兄ちゃんはどうなるの?」

「え?」

「お兄ちゃんもどこかに行っちゃうんでしょ?」

亜美は必死に僕のズボンを掴んだ。

まるで今すぐ僕が消えてしまうとでも言うように。

僕はしゃがむと亜美の顔を覗き込んだ。

「亜美はママが大好きなんだろ?」何度も頷く。

「じゃ、ママを助けてあげよう。我慢できるだろ?」

頭を撫でてやる。

「大丈夫。僕はずっと亜美のこと大好きだよ」「お兄ちゃん...」

亜美の小さい体をそっと抱きしめた。

ありがとう。

僕にこんな気持ちをくれたのは亜美、君が初めてだったよ。

瞬間、辺りに眩しい光が満ちた。


気づくと僕は再び神のもとにいた。

相変わらず逆光で神の顔色は伺えなかった。

しかしもうそれもどうでもいいことだ。

もう亜美のそばにいることはできない。

『私は嘘や惑わし言葉をいわない。お前の願いはなんだ?』

「...あんたにも叶えられないことだよ」

僕はひねくれていた。

『お前の心の中にある一番強い願いを叶えてやろう』

神が手を差し出す。

僕は亜美といたかった。

それが叶うならなんだって構わない。

だけどそれは叶わないんだろう?

それでも一縷の望みを託し、僕は神に手を伸ばした。

また強い光に包まれた。


最初に音が聞こえた。

電子音?

体が重い。

目を開ける。

壁に小さな子供が描いた絵が貼ってある。

周り見渡す。

...病室?

その動作だけで辛くなり力を抜く。

ベッドが軋む。

「...パパ?」

ベッドの傍から声がした。

もう一度頭をもたげるとそこには亜美がいた。

「パパ!」亜美がもう一度そう言う。

パパ?

「どうしたの?亜美ちゃん」

白衣を着た看護婦らしき女が病室に入ってきた。

「パパが、目を覚ました」

看護婦は機敏な動きで僕の顔を覗き込み、驚愕の表情を浮かべ、医者を呼びに行った。

右手に暖かい温もり。

亜美が僕の右手を握っていた。

「パパはどこにも行かないでね」亜美はそう言うと目に涙を溜めながら微笑んだ。

なんだ亜美、君はちゃんと笑えるんじゃないか。

僕も亜美の手を握り返す。


しかしこれはどういうことなんだろう?

『願いは叶ったか』頭の中で神の声が響いた。『生きたものを殺して空いた肉体を作ることも死者を生者にして器を作る訳にはいかない。亜美の父親の体にお前の魂を当てがった。お前の願いを叶えつつ天界の掟に背かない方法はこれしかなかった』

やっと状況が飲み込めてきた。

この体は亜美の父親の身体らしい。

魂のない、しかし身体は生きている脳死の患者なら最適だったということか。

『お前はもう一人ではない。これからはその子の父親として生きていけ。その子もそれを望んでいる』

こうして僕はまた亜美と生きていけることになった。


少しずつ動けるようにリハビリをしていった。

亜美の父親の身体は思ったより怪我がひどく、何度も挫けそうになった。

でももっと毎日、亜美のそばにいてやりたい。

その思いで必死にリハビリに耐えた。

亜美の母親は重体だったが命は取り止めたようだった。

しかし、奔放な彼女らしく退院するとそのまま行方をくらましたようだった。

亜美は祖母の家に預けられたが病院から近いのもありしょっちゅう父親の見舞いに来るようになったらしい。

長いリハビリを終えると、調子の悪い日は杖をつかなければならなかったが散歩もできる程度には回復していった。

だが僕は自分が自分であることを告白できないでいた。

勇気が持てなかったのだ。

父親の身体を僕は奪ったも同然だから。


そしてその頃には暖かくなっていて、亜美が前に行きたそうにしてたので海に誘ってみた。


海の香りを吸い込みながら亜美は歓声を上げた。

「広いね、パパ。ねえ、海の近くまで行こう!」波打ち際まで行くと二人で腰を下ろした。

「パパが起きる前に魔法使いさんと約束したんだよ。海に行こうって」「そうなんだ」

亜美の中に自分がまだいるんだと思ったら嬉しくなった。

亜美は僕の顔を覗き込み「パパ、元気になったらまたカレー作ってほしいな」小さく笑いながら言った。

最近、亜美は笑顔を見せることが多くなった。

「いいよ、また作ってあげるね」そう言った瞬間、亜美は大笑いをし出す。

「それでね、その人は嘘をつかない人だったの」「うん...?」

「パパはカレーも作れなかったのよ。パパはお兄ちゃんね?」

やられた...。

「おかえり、お兄ちゃん」そう言うと亜美は僕に抱きついてきた。

亜美に笑顔が戻って安心していたが自分に欠けていたものもあった。

悲しすぎる毎日に、閉じ込めたもの。

それは涙。

「ただいま、亜美」

僕はそう言うとそっと涙を拭った。

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