トマト売りの女
「トマトを買いませんか?」
駅の喫煙所でぼーっとタバコをふかしていると、ふとそんな声が聞こえた。お?、と声のした方を向くと、大きな紙袋を提げたスーツ姿の若い女が、喫煙している男に声をかけているようだった。
年は二十代前半、いや、もっと若いかもしれない。大学生ぐらいだろうか。薄桃色の唇にトーンの高い声。束ねてはいるが、ロングで艶やかな髪。整った目鼻立ちと透き通るような白い肌。前を開けたボタンシャツからは隠しきれない谷間が覗いている。少し離れていても、自然と人を惹きつけるような、そんな魅力を感じた。
それにしても、人通りが多いとはいえ、こんな喫煙所に飛び込みで野菜を売りに来ているなんて、正気じゃない。誠実さを表すスーツ姿が、逆に絵もしれぬ怪しさを醸し出している。
「完熟トマトなんですぅ。今日取れたばっかりでぇ」
甘ったれた猫撫で声でのセールストーク。身長の低さを利用した上目遣いと完熟トマト。この女、メスとしての武器をフルに利用して営業していくタイプのようだ。
「え、どうしよっかなあ。イヒヒヒヒ」
声をかけられた男は、鼻の下が伸びていた。今にも地面に着きそうなぐらいだ。
「あ、じゃあじゃあ普通だと一個1500円なんですけど、お兄さんが買ってくれるなら二個で1500円にしときますぅ。完熟トマト二個、柔らかくてとろっとしてて、甘いですよぉ」
男はアホ丸出しのニヤケ面で女の胸部に視線を落とす。
「柔らかい完熟トマトが二個? 買う、買いますっ。完熟トマトっ」
落ちたようだ。完熟トマト二個で何を想像したのかは謎だが、まんまとボッタくられている。全く、男とは単純な生き物だ。
まあ、それはさておき、トマトが二個で1500円と言うのはいくらなんでも高すぎないだろうか。一個あたり750円だぞ。野菜の甘さは糖度で表すと聞いたが、おそらくこのトマトはかじりついた瞬間に虫歯になってしまうに違いない。
「それじゃあ、ここにサインしてください」
女は紙袋からバインダーとペンを取り出し、男に渡した。
「え? サイン?」
思いもよらぬ言動に動揺を隠せないようだ。それは私も同じだった。トマトを売るためのトークフローの中に、サインをねだる項目があるとは誰も思うまい。
「こ、これって、なんのサインですか? トマトを買うだけで、な、なんで......」
「安心してください。これは領収書みたいなものです。返品はお断りしてますって。だって今の時代、対面で買った野菜を『クーリングオフだ』って言って返品してくるような人もいるんですよぉ。こわぁい」
「な、なるほど。それは確かにそうだね。野菜みたいな生物を返品できるはずがない。そんな人も相手にしてるなんて、君は本当に頑張り屋さんだね」
「ありがとうございますぅ。お兄さんが優しい人で良かった。私、うれしい。あ、ここにお兄さんの住所と電話番号もお願いしまぁす」
「住所と電話番号? ハハ、そ、それは返品とは関係ないような......」
「関係ありますよぉ。もしもお兄さんに売ったトマトが熟しすぎてドロドロになっちゃってたらどうするんですかぁ?」
「え? ドロドロ?」
話の途中だが、トマトは熟し過ぎなくてもドロドロである。
「そう。ド、ロ、ド、ロ。せっかく買ってもらったのに食べられないなんて、お兄さんかわいそう。だから、そんな時はここに書いてある番号に電話してもらえれば、私がお兄さんのお宅に、代わりの完熟トマトを持っていくんですぅ。ダメ?」
男は一心不乱にバインダーの紙へ住所を書き始めた。
なるほど。この女はトマトを売ると言う隠れ蓑を使って、客の個人情報を手に入れようとしているのか。でも、なんでこんな方法を? 個人情報が欲しいだけならもっと他にたくさん集められる方法はいくらでもありそうだが。
「ありがとうございますぅ。じゃ、また買ってくださいね」
「うん。待ってるね」
返品する前提で別れの挨拶をした男は、立ち去っていく女に手を振り続けていた。
わからない。何故あの女はこんな非効率なことをしているんだ。宗教の勧誘目的だろうか。ただ単にあの男が好みだったのか? もしくは、本当にトマトを売るためだけに変わったアフターサービスをつけているのか。
それに、あの男以外にも喫煙している人はいたと言うのに、男にトマトを売った後は誰にも声をかけることなく帰っていった。自分の手の内を晒してしまった後は、場を汚すことなく去るのがルールにでもなっているのか。
考えれば考えるほどに、わからない。
私は二本目の煙草を吸い終わると、深く溜息を吐きながら喫煙所を後にした。
◇
翌日、仕事が休みだった私は自宅でテレビをつけ、ぼおっと眺めていた。
『それでは、「今日の社会問題」のコーナーです』
『今日はどう言った社会問題に焦点を当てていくんですか?』
『はい、今日は先日の一家心中事件で取り上げられた、隣人の無関心問題について掘り下げていこうと思います』
『ほう。あの一家心中事件は悲惨でしたよね。死後三ヶ月も立っていたのに、お隣さんは只々異臭がしていたと発言しただけで、警察などにも相談せず放置していたんでしたっけ?』
『そうです。たまたま通りかかったパトロール中の巡査が異臭に気づいた事で発覚した事件です。この事件からもわかる通り、最近は隣人との繋がりも無くなってきており、むしろ無関心を通す事で自分の身を守ろうとする傾向にあるようなんです』
『悲しいですね。僕が子供の頃なんかは、隣のおばちゃんがよく料理を作り過ぎたからって、おすそ分けを持ってきたもんですよ』
『それが本来あるべき隣人の、いや、人としての姿なのかもしれないですね。そこで、今回は人通りの多い所をピックアップし、怪しいものを売りつけられている人に、近くにいる人たちはどんな反応を示すのかと言う実験を行いました』
『へえー、おもしろいですね』
『今回は仕掛け人に「トマトを売る」と言う名目で個人情報を聞き出す危ないセールスマンと、それを信じきってトマトを買ってしまう人を演じてもらいました』
『さすがにそれは怪しすぎると思いますよ。周りにいる人にも聞こえるだろうし、もしかすると警察を呼ばれてしまうかもしれない』
『そう思うでしょう。でもね、警察はおろか怪しんで声をかけてくる人すらいなかったんです。仕掛け人に、声は大きめで周りの人にも聞こえるようにと指示を出していたので、きっと周りの人には届いていたと思うのですが、残念ながら助けに入る人は一人も現れなかったと言う結果が出ました』
『無関心ですね。人と人の繋がりが薄くなってしまい、他人がどうなろうが知ったことではないという事なんですね』
『そうなんです。非常に残念ですね。それでは次のコーナーに......』
全ての謎は解けた。しかし、私は人としての大事なものをあの喫煙所に置いてきてしまった気がした。