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 最初に見たものは、山だった。赤い山、真っ赤な山、それだけが認識できた。何だ僕は眠っているのか? 夢を見ているのか? そうじゃない、はっきり意識がある事はわかる、夢の中の意識というのは鮮明ではない、僕の意識は鮮明としている。じゃあ、こりゃなんだ? 僕はなんとか思い出す、思い出す事が結果だと考える。そうだ、僕は死のうとした、薬と殺虫剤をウォッカで飲んだ。この山は何だ、どうして赤いんだ、そこまで考えた時、それが缶コーヒーの缶に書かれた山を赤くしただけである事に気づいた、恐ろしい吐き気と苦しみが湧き上がってきた、山は消えた、何だかよくわからない紫のうねりになった。なんだ、これは。僕はそう思った。今までドラッグを飲んで幻覚を見る時とよく似ていた、本当にはないものを脳が認識してしまう時だ。しかし意識がここまで鮮明なままでそれを見ている事は異常だった。ドラッグをやりそういうものを見ている時というのは苦しみながら夢の世界を歩いている感じだ。これは違う、苦しみながら現実で夢を見ている。テレビのチャンネルが変わるみたいに場面が切り替わる、ここは僕の家だ、僕の揺り椅子だ、僕がそこで毛布に包まっている、僕はそれを天井の隅から見ていた。空間が賽の目に割れる、そして賽の目に切られた空間は水平に回り出す、その裏側は真っ黒だが、小さな仏像が座っている、青い仏像だ。それが賽の目に切られた空間全てに一体一体座っている。全て違うポーズをしている、胡坐をかいている仏像、両手を挙げ片足もあげている仏像、剣を持ち僕に襲い掛かろうとしている仏像。僕は本当に恐ろしくなった、はじめて真剣に神に祈った、ここはどこなんだ、ここは何なんだ、誰か教えてくれ、誰か俺を戻してくれ、そう祈った。仏像を乗せた空間はくるくる回っていた。どこからかお経が聞こえ出す、そしてまたチャンネルが変わる。次に見たものはまったく、僕の理解の範疇を超えていた。全体的な印象は、幼児が描いたヘタクソな動物のキリンの絵に見える。しかしそのキリンをよく見よう、理解しようとするたび、違う何かが見える。僕の母親だったり、脚を注目して見るとシホだったり、また、全体を見ようとするとトオルだったりした。キリンはぼんやりとしか見えない、そして小刻みに揺れている。またチャンネルが切り替わる、次はまったく理解できない、なんとか理解しようとした、それは灰色の波紋のように見えた。波紋を見ていると何かが見える、ライブの様子、興奮する群集、ギターテックに挨拶をしている僕、シホの白いカーテンみたいな服、僕は真剣に神に祈った。どうか僕を救ってください、僕をどこか、理解の出来る場所へと、連れて行ってください。その間ずっと体験した事のないほどの吐き気と倦怠感は続いた。子供の頃インフルエンザにかかって四十度の熱が出て肌色のウンコを出した時とよく似ていた。それでいて、意識は鮮明だった。僕は考えた。長く、長く考えた。

 それはとても長かった。百年は過ぎたかと思った。どこかのチャンネルでドリフターズのコントみたいに僕が眠っている家が輪切りにされて、その横には道路があって、そこを行く人々と眠る僕が一緒に見えて、太陽が何回も何百回も沈んだり登ったりするチャンネルがあった、僕は起きた時、今は二一五八年ですよ、と言われてもまったく驚かない気がした。僕はもしかすると、もう死んでいるのかもしれないと思った。死は退屈なんかじゃなかった。恐ろしく長く長く続く、煉獄みたいなものだった。キリスト教の、終わりの日が来る事を祈った。終わりの日は来なかった。吐き気と倦怠感は続いていた。

 その内僕は、これが走馬灯というものじゃないのか、と思った。つまり僕の体は生きたいのだ。生きるために今までの経験をもうすぐ家主が帰ってくると知った泥棒みたいに、あちこちの並べられた箪笥やプラスチックケースを手取り次第開け、生き残る方法を探しているのだ。もういい、無駄だ、諦めてくれ、早く楽にしてくれ、僕は自分の体にそう言った。神に祈る事はもうやめた。百年祈っても神は何もしてくれなかったからだ。チャンネルが切り替わる、真っ暗闇、僕はそこで揺られている、恐ろしく激しい揺れだ、これは海だ、荒れ狂う海だ、僕はロマン派の題材でよくある難破する船、そこで眠る盲の老人だ。そう思った時またチャンネルが変わった。灰色の空と灰色の水面をした海だった。僕はそこで波に揺られている、遠くから僕を呼ぶ声がする。ヒサ! ああそうだ僕の名前はヒサと言うんだ、それさえ忘れかけていた、途中何度も何度も確認した、僕はヤハギヒサヒトだ、僕はヤハギヒサトだ。そう繰り返した。しかし誰も居ないし僕以外の誰にも認識できないであろう世界で僕のヤハギヒサヒトに何の意味があるんだろう、そう思って確認をやめてから僕は自分が何なのかわからなくなり自分が未だ肉体を持っているという事が嘘ではないかという気分にさえなっていた。波が揺れるたび僕の体も揺れる、僕は不安になる、僕を呼ぶ声や陸から離れるのは嬉しい、それは蝿からも生からも離れられるからだ。一人になれるからだ、しかし、それがこんなものだとは思っていなかった。波に飲み込まれる、何も出来ないで、波に揺られているだけというものが、こんな気分だったなんて思わなかった。一際大きな声が聞こえる、ヒサ! この声は聞いた事がある、多分何度も何度も聞いた事がある、僕を呼ぶ声の中で一番良く聞いた事のある声だ。


 ヒサ! 


 一番大きい声は僕と同じように海の中に居るらしい。陸ではない。波を切り裂き僕の元に近づいてくる、時々波を飲むのか僕を呼ぶ声が途切れ、かき消される事がある、それでも僕の元に近づいてくる、助けてくれ、僕を助けてくれ。僕はその声の主に祈った、誰だかわからないその声の主に祈った。

 それは僕の母親だった。黒いワンピースの水着、それに青い花柄が描かれている。その女がクロールで僕に近づく、そのクロールは不恰好だ、必死だ。それが僕に近づいてくる、気づくと僕は赤ん坊になっている。

 母親が僕の前に姿を現す。そうだ、こんな顔だったんだ、ヒサ、そう言って、顔を歪めている。泣いている、僕は海に浮かんだまま抱きしめられる、胸に頭を押し付けられる、心臓の音がする。そうだ、この音だ。僕はこの音を聴きたかった。深く、低く、響く音。鐘の音、ベルの音、この心臓の音。


 本当にそうか? 


 違う、考えるんだ、俺は何故この音を聴きたかったんだ? 母親は俺を助けようとした、違う、それはなぜだ? 母性愛なんかじゃない、そうかもしれない、それは言葉だけなら曖昧で美しいものだ、そこで思考を止めれば、俺はこのまま死んでしまう。この海に閉じ込められてしまう。俺は今どうやら死と生の崖っぷち、丁度境目に立っているらしい。俺は音を知った。その音で思い出す感情を知った、それは喜びだ、歓喜だ。何故喜ぶんだ? 俺は今は何故生きたいんだ? 死が、本当に生のすぐ隣にあることに気づいたからだ。生と死は離れていない。死ねば救われるなんて大嘘だ、俺みたいな、母親みたいな敗北者がみじめに逃げ去っていく所が死であり自殺だ。それをこんな事になるまでわかっていなかった。だから死のうとしたんだ、生と死があまりに遠いもので現実感がなかったから、何もかもをわかったような気分になっていたから。俺は音を聞いた、俺は生きたいと思っている。母性愛とは子孫を残したいという生物の本能だ。それに嘘はない。確かに、DNAに、脳味噌に刻まれたものだ。だから俺はこの記憶を思い出すんだ、嘘が嫌だったから、嘘に疲れ果てたから、嘘は蝿だったから。それで、蝿も、嘘だったから。嘘のない行為、それは本能と、自分自身の欲求より来るものでしか、ありえない。嘘ではない真実が、確かに存在するからだ。


 僕は生きている。


 僕は母親に抱きしめられている。心臓の音が鳴っている、それはほとんど振動に近い。それはバスドラムに似ている。それは耳に押し当てられている。その、心臓以外の何もかもの時間が止まってしまったようだ。僕はこれがもう一つどこかにある事を思い出す。吐き気と倦怠感、その中で意識は明晰だ。どこにあるんだ、考えろ、自分に何度も言った。どこかにあるはずだ、それを聴ければ、俺は生き残る、この海から出られるんだ、俺は生き残るんだぞ。


 振動を感じた。すぐ近くからだった。母親の心臓ではない、深く、響く音。それは今までのどの、頭の中に染みこむような、深く、響く音よりも、どの音よりも、染み込んで、深く、響いて、大切に感じられた。はじめは海の小波かと思った、違っていた、時間は止まっている、僕のすぐ近くにその音はあった。僕の中にその音はあった。僕の心臓も動いていた。


 そうだ、俺は生きてるんだ、そう思った。


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