27
僕は目が覚めた。暗い部屋で布団をかけられ眠っていた。畳の床だ、僕の家じゃない。頭がガンガン痛んだ。襖から光が筋のように差し込んでいる。そこから話し声が聞こえる、ここはどこだ? 僕は布団から起き上がり、朦朧とした頭で襖に近づいた。
そこで男女がセックスしていた、トオルとシホだった。
そういうものならどれだけ良かっただろう。
「だからさ、キュウちゃんはそういうんじゃないんだって、そういう、何かの真似とかじゃない、アイツはアイツだよ、俺はアイツと会った時からずっと思ってたんだ、小学生の頃かな、こいつは絶対他の奴らとは違うって、纏ってる空気が違うって、俺のこの、退屈な何かを変えてくれるってずっと思ってたんだよ、シホちゃん、君、確かに、悪い奴じゃないし、キュウちゃんと気が合うのもわかるよ、だけどさ、キュウちゃんにそういう押し付けみたいな、そういうのやめろよ、ドラッグとかさ」
「あんた、ヒサの才能わかってんでしょ、アイツはカート・コバーンで、シド・ヴィシャスで、ジョン・レノンよ。日本発の、そういう人よ。アイツの顔ちゃんと見た事あるの?どこかガキっぽいのに、変におじん臭くてさ、ゲリラとか、チェ・ゲバラってそういう顔なのよ。その横であたしはコートニー・ラヴで、ナンシー・スパンゲンで、オノ・ヨーコになるのよ。あんたこそ、そういう押し付けやめなさいよ、何か、普通の、枠に入れるみたいな」
僕は襖を開けた。あ、キュウちゃんもう良いのか? お前酷かったよ。トオルはそう言った。酔っているようだった。頭が痛いんだ、僕がそういうとシホが僕を見て、あんた猛烈な勢いで酒飲んで煙草吸ってたもんね、死にたいみたいだったわよ、とケラケラ笑った。迎え酒が良いんじゃない、一杯ぐらい飲みなさいよ、そう言って僕が座っていた黒いふかふかの座椅子へと促す。馬鹿いうなよ、氷水作ってやるよ、その方がいいよ、トオルも僕を黒いふかふかの座椅子へと促す。僕は二人の顔を交互に見る。二人とも僕の方を見ている。二人の瞳は僕を映している。僕は急に恐ろしくなった。黒いふかふかの座椅子には、もう座っている人がいた。僕と同じ姿形をした、水面に浮く、光を反射する虹色の洗剤の膜みたいな、誰かだった。それは、蝿だった。網膜の裏の点滅だった。帰るよ、僕はそう言って歩いたがよろめき倒れた。ほらあんた千鳥足じゃないの眠るか休むかしなさいよ、シホがそういう、キュウちゃん危ないよ、車にでも跳ねられるか、途中でぶっ倒れるぞ、シホちゃんの言う通りだよ、トオルがそう言う。いい、帰るよ、帰りたいんだ、俺は帰りたいんだよ。僕はそう言ってなんとか起き上がる、二歩歩いた所でまた倒れる、駄目だよ、もう少し居ろよ。トオルが言う。もういい、頼むよ、帰してくれ、放っておいてくれ、もういい、帰らせてくれ。シホが座椅子から立ち上がり僕に手を貸そうとする、もういい! 僕はそう叫んだ、二人は驚き静かになった、僕はその間に立ち上がり玄関まで歩いた。
玄関で靴紐を結んでいるとトオルが来て、どうしたんだよ、キュウちゃん、おかしいぞ。送ってこうか? 僕は、知ってるよ、もういいんだ。と言った。僕はなんとか家に帰った。四時間と少し眠り、郊外に借りた家へと行った。誰にも言わなかった。
耳のすぐ横で空気と薄いものが激しくこすれあう音、空気が振動する音、ヘリコプターのプロペラのような音がした。僕は揺り椅子に座っている。膝に赤い毛布をかけている。部屋のフローリングは古くなっている、もう、光を反射する事はない。ああ、蝿だ。蝿は僕を追ってきた。僕の中に居る蝿を知っているからだ。蝿は僕を仲間か、ひょっとすると交尾をする相手だと思っているのかもしれない。僕の体の中にも蝿が居る。部屋の全体をぼんやり見ると視界がぼやける、その中で動きまわる一点はよく目立つ。気になって、思わず叩き潰したくなる。そうするため、蝿を叩き潰すために部屋をぼんやり見ると、光と、それを反射する何か光沢のあるものだけが見える。後の事はよくわからない。その中に一点、動き回る黒い一点を見つけた。僕はそれを見る。蝿は最初落ち着きなく部屋の中を飛び回っていた。どこに行けばいいのかわからないようだった。そして僕の方に飛んでくる、僕が手で払いのけると蝿はまたどこかへ飛んでいく。僕は揺り椅子に座り、背もたれにもたれかかり、膝にかかった赤い毛布の暖かさを感じながら蝿を見ている。蝿は最初、白いプラスチックの電話が上に置いているテーブルに向かった。白いプラスチックの電話機の上に止まり、小さな脚をしきりにこすっているように見えた。そしてまた飛び去った。蝿は飛ぶ、また飛んでいく。蝿はどこに行けばいいのかわからない。蝿は止まれそうな所を探し続ける。次にレコードプレイヤーに止まった。針は何か、多分、パンクロックのレコードを刺している。蝿はそのレコードの上を這っていた。しばらくそこでうろうろとしていた。そして、また飛び去った。また僕の方に向かってきて、僕はそれをまた手で払った。蝿は僕から飛び去り、次にエレキギターに止まった。そのヘッドに止まり、また足をゴシゴシやっている。彼は何から自分を守ろうとしているのだろう。そのエレキギターに一弦の、一番細い弦はない。切れてしまってそのままにしている。僕はソロなんてろくに弾けたものじゃないから、構わなかった。蝿はまた飛び立つ、何かから逃げている、蝿は何かから逃げ続ける。彼にはそれに抵抗できるような、大きな力がないからだ。蝿は怯えている、何か大きなものに追われている、それは大きい腐肉のゼリーだ。その腐敗の臭いは蝿をひきつける、しかし蝿はそこにとまるとゼリーに飲み込まれ二度とそこから出る事は出来ず目と鼻と口に臭い魚の臭いがするゼリーが入り込み窒息し死んでしまう事を知っている、その臭いを忘れるため飛び回り何かに夢中になるふりをし飛び回り足をごしごし拭く。蝿はエレキギターから飛びたつ、そしてまた僕の方に飛んでくる、子供の時から飼っていた子犬のように僕に申し訳なさそうにいじらしそうに縋りついてくる。他にしょうがないから、仕方なく、じゃれついている。僕はそれをまた手で払う。蝿は次に床にばらまかれた薬のシートへと向かう。それは僕が乱雑にばらまいたものだ。抗うつ剤がある、安定剤がある、売ってもらったものがある、抗アレルゲン薬や咳止め錠、前の住民が押入れに置いてった血圧を上げたり下げたりする薬、それが全部ばらまかれている。僕は時々その貯蔵庫へ行き少し失敬し飲んでいる。この一週間ほどはずっとそうだ。蝿は血圧を上げる薬のシートの上に止まった、落ち着きなくシートの表面を這い回っている。抗うつ剤と咳止め錠の間に入っていったと思ったら血圧を上げる薬と床の間から出てきた。そしてまた飛び去った、僕はどこに行くのだろう。僕はゼリーに怯えどこに行けばいいのだろう。ゼリーから逃げる旅はもう終わった、ゼリーを死なない程度に貪らなければ僕は生きていけないのだ。それが生命を持ち脳を持って生まれたものの宿命だ。蝿はまた僕の方に飛んできた、僕はまた、手で払おうとしたが、蝿はその寸前で軌道を変えた。僕が座っている椅子にたてかけてある、散弾銃のおもちゃ、僕が百円ショップで買ってきたものだ。嫌な奴の顔を頭の中で思い浮かべる。僕は散弾銃のおもちゃを構える。嫌な奴の顔は暗闇のなかで顔のすぐ下から蝋燭で照らされたみたいに顔だけがぼうっと浮かんでいる、僕はそれに銃口をつきつける。暗闇に浮いた生首が恐怖で歪んでいく、スローモーションで、ゆっくり、ゆっくりとだ。そうして、その内、もう変わらなくなる、そうしたら、引き金を引く。その、散弾銃のおもちゃの銃口に蝿は止まった。僕は蝿を払わなかった。蝿は僕のすぐ近くに居た、だから光を反射する複眼までしっかりと見えた。
僕はどうすりゃいいんだ? 光は、怖くない、しかし、光そのものを浴びられる場所というのは、そうあるものではない。大抵は偽者だ。光を反射するものは怖い、それは光を反射する、僕の顔が映る、潰れた鼻と腫れぼったい一重瞼と分厚い不恰好な唇が映る、それは恐ろしい。光を通すものも怖い。それはあまりに怜悧で鋭敏で、容赦なく体に突き刺さってくる。僕はどこに逃げりゃいいんだろう。僕は洗面台に向かった、そこで顔を洗いそのまま水を一口掬って飲んだ。喉を潤し鏡を見るとそこには男が映っていた。髭が伸びていた。それはいつも誰かを見て、あああの人だと思い出すきっかけみたいな、そういう薄い絹の生地を引き剥がしたような、ただの、顔だった。そうだ僕は蛹に閉じ込められてしまったんだ。あの時から僕はずっと蛹に閉じ込められそのまま死に腐敗した。甘い僕が溶けた蛹の中の黒い液体を吸いに来る蝿がストローでジュースを吸った時少し唾液がジュースに混ざるような感じ、そういう風に僕に記憶を混ぜていた。僕は様々な事を覚えている、しかしそれはビデオテープに録画した、テープによって劣化した誰かの記憶をその誰かを殺して僕のものだと吹聴しているような、そんな風なものにしか過ぎない。僕が、蛹の中の死んだ黒いどろどろとした液体、そのXが、ヤハギヒサヒトであると証明するためには、蛹を叩き割るしかない。その蛹の中身の黒いどろどろとした、ザクロが木から落ち砕けて地面にまき散らかされたような液体を地面に薄く薄くヘラで延ばしていくしかない。
蝿はどこにでも居る。僕が居る所には、どこにでも。
もう、無駄な抵抗はやめろ。




