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おいヒサ、ノーザンライトのベースの子と付き合うのやめろよ、トオルはそう言った。
僕がなんで?と聞くと、お互いに良くないよ、ファンは喜ばない。とトオルはグラスにジンを注ぎ、僕の方を見る。
男と女の仲じゃないよ、と僕は言ったが、半分は本当で、半分は嘘だった。
ファンはそう思わないよ、ネットで噂になってるぜ、とトオルは言う。勝手に言わせておけよ、と、僕はグラスに注がれたジンを一息に流し込んだ。
その時、僕の携帯電話が鳴った。ディスプレイにはシホと表示されていた。僕はごめん、と言って電話に出た。
あ、ヒサ? 今ヒマ? 電話口から圧縮された、シホの声が聞こえてくる。ごめん、今トオルの家なんだ、後から掛けてくれ、そう言った。女の家じゃないの? 別に良いけど、何してるの? と電話は言う。
酒飲んでるだけだよ、女とかじゃない、本当の事だよ。僕はそう言う、トオルは僕を白けた目で見つめる。あ、それじゃあ、あたしも行って良い? 一人で居ると、寂しいのよ。シホはそう言った。
2ndアルバムはメジャーのレーベルからリリースされる事になった。ようこそアルトラくん、君たちみたいなのを受け入れる事が出来て嬉しいよ……新しい飯の種……僕達はそのメジャーレーベルの事務所の近くの喫茶店、そこに座っている。僕の隣にはトオルが座っている。道路際の席で、四車線の道路を車が行ったり来たりしていて、そのたびに壁一面に広がっている大きなガラスは揺れる。光を通している。僕の向かいに居てぺちゃくちゃ話しているメジャーレーベルの男と僕とトオルの目の前にはカップが置かれていて、中には黒く熱いコーヒーが入っていて湯気をたてている。それは光を反射している。メジャーレーベルの男がコーヒーにミルクを容れ、かき混ぜると、白と黒が混ざりあい、汚い茶色になった。それで、僕達としても、お互いに良い状態に持って行きたいんですよねぇ、メジャーレーベルの男はそう言って笑みを僕に向けてくる。僕はガラスの外、通り抜ける車をひたすら、眺めている。こういう事は全てトオルがやる。アルトラさんの音楽、僕達も実際聞いてみたんですけど、すごく良いんですよ、でもちょっと、ニルヴァーナからの影響が強すぎるし、サバスっぽくもあるかなぁ。いまいち、その、殻を破りきれてない感じがするんですよぉ。僕は、殻に篭っているのはお前達だろう、と思った。トオルは、ええ、そうかもしれないですね。と、同じように微笑みながら言っている。大きなトラックが通った。アレに轢かれれば、僕も死んでしまうんだろうなぁ、と思った。それでですね、当社、って、固い言い方になっちゃうかな、はは。まあ、ともかく当社としても、様々なバンドを全面的にバックアップをしてきた経験があるものですから、スタジオワークのノウハウもありますし、当然販売促進は得意ですよねぇ。後、音楽について、悩んでいる時なんかはアドバイス出来ますし、今、掃いて捨てるほど、歌手とか、そういう奴らは居ます。その中、プロになれる、というのは、すごく、良い事なんですよぉ、男はそこまで話すと、カップを手に取りコーヒーを口に注いだ。作り物の、決められた動作みたいだった。ええ、ええ、というトオルの声がまた耳に入る。トオル、もういいよ、机をひっくり返そう、コーヒーを男の顔にぶっかけよう、お前みたいな語尾の延びた話し方をする男は嫌いなんだよ、そうはっきり、言ってやろう。僕はそう思った。あ、それで具体的な契約内容の方ですけど、書類にまとめて来ましたので、一度目を通して、それからじっくり考えてみてくださぁい。男が脇に置いたブリーフケースをごそごそやり、大きな茶封筒を僕達の方に向け、差し出す。トオルは良いですか? と、メジャーレーベルの男に確認し、それを開け、中に入っていた書類を取り出す。トオルが書類を見ている、家族の乗ったライトヴァンが通った。僕は、ああいう風には、なりたくないなぁ、と思った。あれは、エジプトの、石版と同じだ。トオルはコーヒーにミルクを混ぜ、それを時々口に運びながら、書類の隅から隅まで目を通した。読み終わる頃に、コーヒーカップは空になっていた。ありがとうございます、と言って封筒をメジャーレーベルの男へ返した。しばらく考えさせてください、と言った。僕もコーヒーにミルクを混ぜ、それが汚い茶色い液体になった後、一気に飲み干した。そして僕達も家族とライトヴァンに乗る羽目になった。
2ndの録音には半年がかかった。その間に、僕は二十四歳になっていた。トオルと出会って十一年、シホと出会って、一年少しが過ぎようとしていた。2ndの製作は中々に、難航した。そもそも1stで、ほとんどのものは出し切っていた。後は少しずつ、その1stで出したものの解釈を変えたり、培ったテクニックでうまく別の曲にして聴かせるような事しか出来なかった。
家を借りたんだ。僕がシホに言う。今日も、僕達は、シホの家で、毛布に包まっている。今日は僕の趣味で、アメリカン・ニューシネマを見ている。家? シホがテレビの画面を見つめながら言う。お金に余裕が出来たんだよ、1st、とてつもなく売れた、そうでもないか、いや、とにかく、創作意欲が欲しいんだよ、一人になれる所がいい、それであんまり田舎ってのもなんだろ? 郊外に一軒家を借りたんだ。ふぅん、とシホはどうでもよさそうにテレビを見つめている。緊迫したシーン、男女二人の犯罪者が異変に気づくシーン。どんな家? シホはその緊張を和らげたいかのように僕に聞く。一階が元々喫茶店だったみたいなんだ、三階建てで、二階に機材運び込んでさ、家と家の間も広いし、適当に曲作りでもやろうと思って。犯罪者夫婦は車から出る。どうでもいいけど、とシホが言った。二人は銃弾に撃ちぬかれる、何発も、何百発も撃たれる。血は一滴も出ない。あたしにも場所教えなさいよ。
1stの解釈を変えたもの?
嘘をつけよ。
何にも出来なかった、
酒を飲む、ドラッグをやる、風呂に入る、シャワーを浴びる、体を動かす。ノートを書く、油絵をやってみる。
わざわざ買って来たウルトラマンの学習机の椅子に座って何度も弾いた。
全てやった。何にも出なかった。リフを弾いてみる、知った、"あの"曲や"この"曲のフレーズばかりが出る。
それの順番を変えたり、
いいですねぇ、1stと比べて、洗練された感じがありますよぉ。世間ではこれを、洗練、というらしい。おはようございます、スタジオに入るとメジャーレーベルの男やそのメジャーレーベルの男とは違う男が居る。皆におはようございますという。ミキシングをしてくれる人、機材を整備してくれる人、実際に録音を取り仕切る人にもおはようございますという。その日最初に会う人にはおはようと言わなければいけない、そのギョーカイでは夜も仕事をしている人が居てそういう夜起きる人にこんばんわというのは礼儀がなっていないからだ、だからそう言う、おはようおはようおはようおはよう……おはようございます、おはようございます。もしおはようございますといわないと、言われなかった人は嫌そうな顔をするし、こんばんわ、と言うと、なんだこいつは、という、笑いを浮かべられる。おはようございます、というのが、記号だからだ。パスカードだからだ。身分証名書だからだ。何も書くことがなかった。曲自体も書くことがなかったが、切ったり貼ったり、やり方を変えたり、それで、なんとか乗り越えた。書くことも言いたいこともなにもないのだ。それで、日常のくだらない事を、詩、風味に書くと、それがトオルには受け、メジャーレーベルの男にも受け、世間にも受けた。熟れた林檎は腐り地に落ち地面へと伸びていく、それは現代のティーンエイジャーのただれ、体と社会性のみから大人になっていくことで、そのティーンが本来持つ青春性、その本能的なものが苦しむ事をさしている……だとさ! トオルはその記事をしゃちこばって読み、笑った。僕も笑った。二人で大爆笑した。
そうだ、切ったり貼ったり、やり方を変えたり、それで、なんとか乗り越えた。
僕はどうすりゃいいんだ? 光は、怖くない、しかし、光そのものを浴びられる場所というのは、そうあるものではない。大抵は偽者だ。光を反射するものは怖い、それは光を反射する、僕の顔が映る、潰れた鼻と腫れぼったい一重瞼と熱いたらこ唇が映る、それは恐ろしい。光を通すものも怖い。それはあまりに怜悧で鋭敏で、容赦なく体に突き刺さってくる。僕はどこに逃げりゃいいんだろう。
ツアーは退屈だった、五つの大きな都市を周った。僕達はライトヴァンに詰め込まれた。僕のギター、トオル、僕、トオルのベース、ギターテック、マネージャー、PA、その時ドラムをやってくれていた、ヤマネくん。どこに行っても同じような群れ、同じような人、同じような感じ、群集に感情が存在するとは思えなかった。僕も知らない内に石版に刻み込まれちまったらしい、同じところで盛り上がり同じ所で揺れる、僕も同じ所で飛び跳ねる、皆僕を見ているのではない、僕が着ているキラキラした服を見ている、それは彼らの姿を映すからだ、彼らには人格がない、だから光を反射するものを見て、やっと自分が存在していると安心する。僕はそれに便乗して金を儲けただけで、タイムカードを切り靴を舐めていた頃と何一つ変わっちゃいなかった。おはようございます。おはようございます。おはよう、おはよう、おはよう。ギターテックにもそう挨拶する、当然僕はマネージャーにも挨拶する、トオルはもっと偉そうにしてろよ、キマらないぞ、そう言う、しかし僕は怖い、嵐が怖くて、気づいた時には自分からもう跪いて舌を突き出してしまっている、人が眉を潜めるその挙動その初動それが僕には動く前から感じられる、それは僕の中では海に揺られていた時の記憶が蘇る。群集はまるで網膜の点滅、蝿の姿、それをしていた。彼らは蝿だった、いや、彼らが蝿だった。蝿はもう、僕の中からは飛び出していた。僕はそれをドラッグのやりすぎか、僕が繊細だからそう見えるんだと思った。蝿ですら僕が僕を確認するためのアイデンティティ、その確立の方法でしかないんだと思うようにして、そう見えても気にしない事にした。群集がポゴダンスやモッシュをやるたび蝿は本当にあるという考えが鎌首をもたげる、そういう時はそこに向かって飛び込んだ、そうすれば僕と蝿はまた一緒になり僕はそういう細かいことを気にする必要がなくなるからだ。スポットライトが僕に当たる、光は群集をよく見えなくさせる。彼らは皆同じに見え、一塊の生物みたいに見えた。僕はうんざりした。それで、ギター叩き折って、スピーカーの上綱渡りみたいにして渡った後、そのヤマネくんのドラムセットに飛び込んで、最前列の今度MV作るからってビデオ回してる連中のとこまでキチガイみたいに走ってって、カメラに唾を吐いた。それでも皆喜んでいた。群集の揺れとポゴタンスとモッシュは激しくなるだけだった。誰も戸惑い立ち止まる事はしなかった、どれぐらいそうしていたんだっけ?
十八分よ、馬鹿。
そうだった。




