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耳のすぐ横で空気と薄いものが激しくこすれあう音、空気が振動する音、ヘリコプターのプロペラのような音がした。僕は揺り椅子に座っている。膝に赤い毛布をかけている。部屋のフローリングは古くなっている、もう、光を反射する事はない。ああ、蝿だ。蝿は僕を追ってきた。僕の中に居る蝿を知っているからだ。蝿は僕を仲間か、ひょっとすると交尾をする相手だと思っているのかもしれない。僕の体の中にも蝿が居る。部屋の全体をぼんやり見ると視界がぼやける、その中で動きまわる一点はよく目立つ。気になって、思わず叩き潰したくなる。そうするため、蝿を叩き潰すために部屋をぼんやり見ると、光と、それを反射する何か光沢のあるものだけが見える。後の事はよくわからない。その中に一点、動き回る黒い一点を見つけた。僕はそれを見る。蝿は最初落ち着きなく部屋の中を飛び回っていた。どこに行けばいいのかわからないようだった。そして僕の方に飛んでくる、僕が手で払いのけると蝿はまたどこかへ飛んでいく。僕は揺り椅子に座り、背もたれにもたれかかり、膝にかかった赤い毛布の暖かさを感じながら蝿を見ている。蝿は最初、白いプラスチックの電話が上に置いているテーブルに向かった。白いプラスチックの電話機の上に止まり、小さな脚をしきりにこすっているように見えた。そしてまた飛び去った。蝿は飛ぶ、また飛んでいく。蝿はどこに行けばいいのかわからない。蝿は止まれそうな所を探し続ける。次にレコードプレイヤーに止まった。針は何か、多分、パンクロックのレコードを刺している。蝿はそのレコードの上を這っていた。しばらくそこでうろうろとしていた。そして、また飛び去った。また僕の方に向かってきて、僕はそれをまた手で払った。蝿は僕から飛び去り、次にエレキギターに止まった。そのヘッドに止まり、また足をゴシゴシやっている。彼は何から自分を守ろうとしているのだろう。そのエレキギターに一弦の、一番細い弦はない。切れてしまってそのままにしている。僕はソロなんてろくに弾けたものじゃないから、構わなかった。蝿はまた飛び立つ、何かから逃げている、蝿は何かから逃げ続ける。彼にはそれに抵抗できるような、大きな力がないからだ。蝿は怯えている、何か大きなものに追われている、それは大きい腐肉のゼリーだ。その腐敗の臭いは蝿をひきつける、しかし蝿はそこにとまるとゼリーに飲み込まれ二度とそこから出る事は出来ず目と鼻と口に臭い魚の臭いがするゼリーが入り込み窒息し死んでしまう事を知っている、その臭いを忘れるため飛び回り何かに夢中になるふりをし飛び回り足をごしごし拭く。蝿はエレキギターから飛びたつ、そしてまた僕の方に飛んでくる、子供の時から飼っていた子犬のように僕に申し訳なさそうにいじらしそうに縋りついてくる。他にしょうがないから、仕方なく、じゃれついている。僕はそれをまた手で払う。蝿は次に床にばらまかれた薬のシートへと向かう。それは僕が乱雑にばらまいたものだ。抗うつ剤がある、安定剤がある、売ってもらったものがある、抗アレルゲン薬や咳止め錠、前の住民が押入れに置いてった血圧を上げたり下げたりする薬、それが全部ばらまかれている。僕は時々その貯蔵庫へ行き少し失敬し飲んでいる。この一週間ほどはずっとそうだ。蝿は血圧を上げる薬のシートの上に止まった、落ち着きなくシートの表面を這い回っている。抗うつ剤と咳止め錠の間に入っていったと思ったら血圧を上げる薬と床の間から出てきた。そしてまた飛び去った、僕はどこに行くのだろう。僕はゼリーに怯えどこに行けばいいのだろう。ゼリーから逃げる旅はもう終わった、ゼリーを死なない程度に貪らなければ僕は生きていけないのだ。それが生命を持ち脳を持って生まれたものの宿命だ。蝿はまた僕の方に飛んできた、僕はまた、手で払おうとしたが、蝿はその寸前で軌道を変えた。僕が座っている椅子にたてかけてある、散弾銃のおもちゃ、僕が百円ショップで買ってきたものだ。嫌な奴の顔を頭の中で思い浮かべる。僕は散弾銃のおもちゃを構える。嫌な奴の顔は暗闇のなかで顔のすぐ下から蝋燭で照らされたみたいに顔だけがぼうっと浮かんでいる、僕はそれに銃口をつきつける。暗闇に浮いた生首が恐怖で歪んでいく、スローモーションで、ゆっくり、ゆっくりとだ。そうして、その内、もう変わらなくなる、そうしたら、引き金を引く。その、散弾銃のおもちゃの銃口に蝿は止まった。僕は蝿を払わなかった。蝿は僕のすぐ近くに居た、だから光を反射する複眼までしっかりと見えた。
どこへ逃げても蝿は追ってくる。僕にはなんとなくわかっている。前の晩飲んだウォッカのアルコールが気化して脳の中身を一杯にしていて、口から息を吐くと脳に満たされたガスが鼻に入り込み、それはアルコールの臭いがしているので僕の脳がまだ気体化したアルコールに満たされている事もわかっている。
部屋の南側にある大きな窓からは太陽の光が差しこんでいる。キラキラとしたプリズム、それそのものがガラスのように実体を持っていて、それを認識する目に突き刺さるように感じる。僕は思わず身をそらす、揺り椅子は大きく揺れる、ここに居る限りプリズムから逃れる事はできない。僕は目を閉じれば逃れられる事に気づく、しかし長く目を閉じると網膜の裏側の点滅が見えてしまう。それは形を持っている。それは僕に話しかけてくる。
それが今の蝿の姿だ。僕の中に居る蝿は僕以外の人には見えない、蝿は僕の体の中に宮殿を造りあげたからだ。蝿の王国だ。僕の脳味噌と神経を食べ、蝿としての肉体が僕の体の中で朽ちた後も体内で生んだ蛆虫達に僕の神経と脳味噌を設計図通りに食わせて僕の頭の中に蝿のイメージを作りあげた。そうして出来た蝿のイメージは今僕と共にある。
蝿は僕の中にいっぱいになっている。蛆虫も居れば蝿も居る。時々彼らが一斉に暴れまわる時というのがある。そういう時は体中の表面に張られている皮膚がゴムのように内側から伸ばされているような感じになる。実際に伸びているわけではない、だが実際に見えている皮膚とは別にもう一枚、目には見えないような皮膚みたいなものがあり、その下で蛆虫は蠢きあちらこちらに移動し、蝿はその薄い皮膚を通して見える光に向かうためあちらこちらへと飛び交っていて、その数はとても多く、どこかに穴を空けて、多分頭蓋骨がいいだろう。その穴から全てを逃がして僕はゆっくりと椅子に腰掛け煙草でもふかしていたい気分になる。
プリズムがどんどん目に入り込んでくる。別にそのプリズムが実体を持ち、僕の体や顔や眼球に刺さるわけではないという事はわかっている。だが実際にそう感じてしまう。
思考は何かに支配されている。黒い靄が山羊の形をしてぐるぐるぐるぐると頭の中を引っ掻き回している。黒豹のようにも見える。黒猫のようにも見える。または、黒い闘犬のようにも見える。または、黒いビニール袋が風に舞っているようにも見える。
太陽の光を浴びよう、そう思った。ガラスを通して見るから怖いのだ、光っているものは怖くはない。暖かいだけだ。光を媒体に使うものが怖いのだ。
僕は家の外に出た。太陽が明るかった。僕は光っているものになりたかった。
例えば貴婦人の宝石と長く伸ばされた爪とナイロンストッキングは光っている。しかしそれは光を反射しているだけで、光っているものではない。そういうものは光がなければ光っているようには見えない。
僕は光になりたかった。人は闇に紛れれば想像もつかないような醜い事を行う。そういうものを見たくはなかった、そういうものとは離れたかった。同じ生き物とは思えなかった。また光を反射するものも恐ろしかった。光がなくなってしまった瞬間、闇に紛れてしまうし、もっとひどい事に、驕り自分が光だと勘違いしたあげく、光そのものを殺してしまう事もある。それは恐ろしい事だ。僕は光になりたかった。それが何事にも頓着しなくて済む唯一の方法だと思った。
ウォッカで揺れる頭を抱え、時計の振り子のようにバランスを取りながら、僕は足の裏で地面を掴まえている。太陽を浴びると少しだけ気分がマシになった、家のすぐ近くには公園がある。僕はそこへ向かう。太陽を浴びながらベンチに腰掛け煙草をふかしたかった。茶色い枯れ葉が地面に落ち醜い色に染まっている。紅葉なんかはまだ良いが、街路樹や名前も知らない木が黄色や茶色になり腐り落ちる姿というのは見ていて胸がむかむかする。小学校にあがる前ぐらいに見える子供たちが五人、公園の中で走り回っていた。僕より小さな体がぐにゃぐにゃし、走り回っている様は昔見た映画の、マタンゴ、キノコ人間、そういう不気味なものに見えた。しばらく噛んで堅くなったガムのような何かが虫みたいに反射的に動いているように見えた。ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアア、サイレンだ。僕は思わず顔を伏せた。パトカーが僕を捕まえに来たのかと思ったからだ。シホが行方不明者捜索願いを出しているかもしれないと思った。あたりを伺うと、サイレンは子供の声だった、彼らは叫んでいた。顔は笑っていた。近くにはその親みたいなものが三人立っていた。その人達は自分の子供がマタンゴみたいでよく噛んだガムみたいでサイレンのような叫び声をあげているのに笑っていた。僕は自分が少しずつおかしくなっている事を自覚している。ふとした時、酒を飲んで意識がボウッとしている時、薬をやって何もかもがどうでもよくなっている時、ライヴで感情的なコーラスを熱狂的にファンと共に叫んでいる時、その全てにおいて僕はもう一人居る。網膜の裏からその時の僕を見つめている。その見つめている僕はこう言っている。
もう、無駄な抵抗はやめろ。
親たちは笑っている。
僕が子供だった頃の話をしよう。