一 ぼくの学校
この世界は悪で成り立っている。
心臓が震える。ぼくは、校舎の前に立った。学校に入る時はなぜだかいつもそうだ。冷たい風が砂埃を運んでくる。グラウンドのその砂をぼくはうっかり口に含んでしまい、吐いた。下駄箱が並ぶ。空き箱だらけの玄関をぼくは素通りし、階段を上る。二階がぼくの行くべき教室だ。
ねえ、知らないかい。ぼくは教室に入る時、少し緊張しているんだ。心の中でぼくが語りかけた相手は、しかし、ぼくには気づかないのだろうな。
ガラリと音をたてて開いた戸の中に、いた。髪の長い、彼女。四角に並んだ机の真ん中辺りに座っている。いつもと変わらない様子で本を読んでいる。無表情でぼくのことを振り向きもしない。そんな彼女のいつも通りの様子に、ぼくはほっとしたんだ。だから、振り返ると、ぼくは知らず知らずに予見をしていたのかもしれないな。この少し先に起こる未来のことを。彼女のことを。少し後のことまで感じ取っていたのかもしれない。
教室の中、わざと彼女の前を通って、一つ席を挟んだ隣に座る。彼女は古い本を読んでいた。きっと図書室から持ってきた本だろう。彼女は休み時間になると図書室に行く。でも、すぐに本を借りると教室に戻ってくる。教室にいるよりも図書室の方が心地良いんじゃないかと思うけれど、彼女はそうしない。その訳を聞いたことはない。ぼくはじっと彼女のことを見続けることができるからだ。そう、ぼくも本を読むふりをして。できればたっぷりと彼女の長い髪を眺め続けていたい。部屋に置いたままのカメラにもおさめたい。
本とカメラは、ぼくの趣味だ。本といっても、ぼくは漫画の方が好きだ。カメラは大切に使っているから、本当にいい写真を撮れそうな時だけ、運び出す。記念写真、虹が出た時、野生の珍しい虫と遭遇した時。
彼女が橙色のページをめくる。ぼくはそれを影から見守る。朝礼まで後少しだというのに、同級生はお喋りに忙しい。ぼくはあまりそれに参加しない。友達が少ないことを言い訳しているのではない。彼女を見つけた登校初日が、ぼくにそのルールを守らせている。
予鈴が鳴り、担任教師が入ってくる。担任教師はぼくらの机の前にある机、その裏の椅子にどっぷりと座った。太い首を曲げてどこかを見ている。多分、窓の外だろう。担任教師が上の空で良かった。ぼくは漫画の本を開きながら、彼女の小さな動きを見つめた。
昼休み。髪の長い彼女は図書室へ行く。ぼくは彼女の後をさりげなく離れて歩き図書室に入室する。本棚の間を静かに歩き、ぼくは彼女を探した。すぐに異変に気づく。彼女がいない。本を借りて、カウンターで提出し、廊下へ出るには早すぎる。第一、この図書室に本棚は少ないから、背が高く、すらりとした手足の彼女を見逃すとは考えにくい。
図書室の端まで歩き、戻る。最後の本棚で本の表紙を見ずに、一冊抜き取る。カウンターにくると図書委員の生徒に「今日はぼくが一番乗りですね」と言う。物静かに生徒は頷く。いつもは喋らないぼくが、同じく喋らない図書委員の生徒へ話しかけたのだから、これはごく当然のことだ。それよりも大事なのは、彼女が本を借りていないということ。どこへ行ったのだろう。教室に戻っても、彼女はいない。後は、職員室。ぼくは彼女が教師に何か用事があるのかもしれないと、思った。ただの勘だけれど、あながち間違いではないらしかった。
職員室の重いドアを開けると、数人の教師が座る中、彼女がすっと立っていた。一輪の名もなき美しい花のよう。ぼくは彼女に近づこうとした。近づいて、どうするか。そうだ、ぼくも教師に用があることにすればいい。しかし、彼女はぼくとは反対側の通路を歩いた。その後に担任教師が続く。しまった。ぼくは彼女と担任教師が職員室を退室するのを見届けると、さりげなく歩いて一礼し、退室した。
すっかり彼女を見失った。校内を走った。教室にいなかった。勿論、図書室も。ぼくは教室の戸にある窓を全て見てから、階段の下で立ち止まった。ここから先は。使われていない空間だった。冷や汗が出ていた、特に頭から首にかけて。彼女は、どこへ行ったのだろう。不安が、背中を一瞬走る震えに勝った。
気味の悪い金属音がする。ぼくが階段を一段上る度、カンカンと不気味に響いた。
どの戸にある窓も、埃を被り、窓の下にある取っ手はさびついていた。ぼくは走り、最後のドアを押した。すると、そのドアは重苦しい音を上げて、前へと開き、思い切り体重をかけたぼくは転んだ。
なぜぼくがこうまでに訓練不足の体力と気力を使って動いたのかはわからない。ただ、この時、ぼくのそうした行動に間違いはなかったと感じた。
それは、高らかに予鈴が鳴り響く、屋上での出来事だった。
ぼくが見上げた景色は、ぼくがそれまでの人生で見たどの景色とも違っていた。望んでいるものとも違う。
長い黒髪が、暑い日差しの下、不規則に踊っていた。
何をしているのだろう。ぼくは理解できないが、何かおかしいことになっているのはわかる。
彼女は、やみくもに、踊るように、動いていた。それをかわすのは、担任教師だった。
二人は何か武道の練習をしているのだろうか。そう思うほどにぼくは楽天的ではない。担任教師の手にはナイフが握られていた。
学校で、ちょっと気になる彼女と、いつも嫌々顔を合わせる担任教師が戦っている。一体、何の為に。
担任教師の目がぼくを捉えた。ぼくは、冷や汗の冷たさが心臓まで達したような気がした。ぼくに向けて走ってくる。まるで猛獣のように一直線に。ぼくは目を閉じた。大きな音がして瞼を上げると、目の前に彼女がいて、黒髪がぼくの顔に当たった。
「邪魔だ」
邪魔。
そうはっきりと聞こえて、ぼくの鼓動は高鳴る。思わず開いた口に、彼女の髪が入った。その髪のうち数本は、今や彼女の頭から抜けていた。口を開けるとはらりと髪が落ちていく。彼女は屋上の角へと移動しながら戦っている。ナイフに対して、素手で。彼女の白い学生服は、血まみれだった。
何だ。何だ。何なんだ。
ぼくはただ、闇雲に走って、担任教師の背中をつかむ。次に見たのは白い色の中で鋭く光る眼光。そして、ぼくの持っている意識が、飛んだ。