アーヴァローネ
水滴が落ちる音に、緩やかな意識を揺すられた。
断続的に続く音は何処か眠りを促しているようで、目映い光を最後に暗くなってしまった視界はまだ眠っているようだ。意識は覚めてるのに。
ぽたん、とやけに大きく水滴が響いた瞬間。
「……ぇ。あんた! ……起きない訳ぇ?!」
「…………んー……?」
水滴の垂れる音の間を縫うように、誰かの声が聞こえてくる。
笛でも吹きならしているのかと文句を言いたくなるくらい甲高い声の癖に、不思議に耳心地のよい声だ。そして非常に睡眠の邪魔だ。
ついでに言えば、非常に焦っているようにも聞こえる。
睡眠の自由を訴える脳が勝手に口を開くくらいには煩かった。
「んー……あと五分……ちょっと煩い……」
「確実に後者が本音だろ! 寝起き学生かよ! 起きろ遅刻するぞ!」
「へっ!?」
元現役高校生……元で現役って可笑しいな。
……元高校生の僕にとって天敵となる「遅刻」のワードを囁かれたおかげか、意識は一気に覚醒し、惰眠を貪っていた五感は強制的な目覚めを促される。
開けた視界に映ったのは、モデルも腰を抜かすレベルの長身痩躯とくびれを惜しげもなく晒す女性の姿。
目が覚めるような美しい金髪をポニーテールに纏め、勝ち気な青い瞳を釣り上げた女性だ。世間的には「ものすごい美人」の部類に入ると思うけれど、睡眠の自由を侵害された僕には路傍の石に見える。
「お目覚めだね。ようこそアーヴァローネへ、新たなる転生者よ。誰が路傍の石だって?」
心読まれた!?
デジャヴを感じる叫びを呑み込みながら、一応「何も言ってないですよ」と誤魔化しておいた。
未だ眠気に浸食されている意識に感付いたのか何だか知らないが、路傍の石発言以降つり上がったままの瞳が更につり上がる。怖い。
「起きなよ。あたいは説明もしないといけないんだ。……ま、転生に関してはあっちの神から話は聞いてるだろうけど」
「転生については聞いてます…………えーと……おはようございます、初めまして、誰ですか?」
「おはよう。初めまして。あたいはリンドウ。リンで構わないよ」
コンパクトに纏めた挨拶を交わした所で、路傍の……違う、リンドウは唇を柔らかに釣り上げた。
釣り上げた、と言ってしまうと悪人面の笑顔が連想されるのだが、有り体に言ってリンドウの顔面偏差値が高いせいか、一撃必殺スマイルになっている。
「……落ち着いてるもんだね? 普通の転生者はまぁ喧しい、『ここはどこだ』だの『チート寄越せ』だの『テンプレは嫌だあああああ』だの煩いのに」
「……」
最初と次はともかく、最後を言った人は一体何が言いたかったのだろうか。
日本ではあり得ない色彩のリンドウが目の前にいる事、僕の周囲が森である事、僅かな時間過ごした青鏡世界の事を考えて、今僕がいるのは――
「……まぁ、あんたが考えている通りここがアーヴァローネさ。無事に転生の儀式が済んだみたいで安心したよ」
「……こうまでしてTHE異世界だとは思わなかったです」
「そういうものだよ」
変な環境適応力で落ち着いている僕はともかく、リンドウは若干驚いているらしい。別に転生者が皆慌てている訳ではないと思うんだけど。
読心術に長けているらしいリンドウの表情が若干歪み始めた所を見計らって、僕は話題の軌道修正を図ってみた。……いや、話が逸れたのは僕が原因だけどさ。
「……で、説明って?」
「……あ、うん。えーと……あたいはシベストリアの使いだからね。あんたの事は色々聞いてるさ……まずあんたのこの世界での立場だ」
……あ、シベストリアの使いだったんだ。
使いであるリンドウがシベストリアを呼び捨てにしている事に感化され始めている頭に苦笑いしそうになるが、一度それは留めておく。
……にしても、立場か。
優遇されるとは聞いていたけれど、精々没落貴族かちょっと昔活躍した程度の平民かと思っていた。胎児スタートでは無かったのは嬉しいけれど。
「平民な訳ないだろう……良いかい? 心して聞きなよ、転生者」
バッチリ読心術を食らった所で、リンドウの空気が変わる。
パリパリと乾いて張り詰めていく空気、軽く息を吸い込むリンドウの仕草、吹き抜けていく風。
それは何か、必然的に重要な言葉を連想させる。
「良いかい? この世界を構成している存在に、“精霊”ってのがいる。光と闇の帳に、炎の揺らめきに、水のせせらぎに。風の中に、雷の中に。アーヴァローネをゼロから構成している等身大の創造の主と言ったって過言じゃない」
ファンタジーでは定番とすら言える存在だったけれど、やはりその世界に自分がいるとなると言葉が与える意味合いは違ってくる。
等身大の、創造主。
リンドウの言葉は更に続いた。
「当然、数多の精霊達の頂点として王も存在する。“精霊王”と呼ばれる、正真正銘の最強の精霊だ。――しかも精霊達は、このアーヴァローネに置ける魔法を使うために欠かせない存在でもある」
「精霊、王……」
魔法が存在するのか、というのは驚かない。あの女性に、「剣と魔法の世界」と説明されているのに今更驚けもしない。
むしろ、精霊は魔法に欠かせないという部分に気持ちが引かれる。
精霊がいなければ魔法は使えない。ならば、その精霊達の頂点たる精霊王はどうなるか。
――正真正銘、魔法チートって事になる。
リンドウが、ニヤリと笑った。
「そうさ。万物に宿る精霊の王。全ての魔法の主でもあるんだからね」
ごく、と喉が鳴る。
頭の片隅で疼く予感を押さえ付けて、リンドウに伝わるように強く疑問を思い浮かべた。
――なぜ、僕の立場を説明する時に精霊王が出てくる?
僕の疑問は通じたのだろう。ニヤリと笑ったリンドウは、更に笑みを深めて両手を広げ、「やれやれ」と肩を竦めた。
「察しの悪い奴だね……。転生者、この世界でのあんたの立場はね」
リンドウの声が、一度途切れ、再び紡がれる。
「驚愕」としか形容出来ない事実を。
「――精霊王だ」