蒼い森と光の海
『そうか、もうお行きになるか。精霊王様、此度は彼奴と私の失態──本当に、申し訳なかった。故に──お祈り致そう。幸福を──痛みなき、美しい幸福を』
「ありがとう。果物、美味しかったよ……わっ」
見送りに来てくれたペリドットの周囲に漂っていた数多の精霊。ふよふよ浮かぶ色取り取りの光に包まれて揉みくちゃにされるのも、何となく楽しい。
その途端、何もないのに光が一斉に離れ──うわぁ、これは……純粋に凄いね。
「あ、り、が、と、う」
精霊達がふわふわ動いてお礼の文字を紡ぎ出す。空に浮かぶ、ほんの一瞬の光の芸術。
「うん、此方こそ。ありがとう」
魔法が使えたら何かしら手の込んだ事を出来たかもしれないけれど、それは魔法を扱えるようになって──もう一度訪ねて来た時に、取っておこう。
『さらば、我らの愛しき精霊王様──道中、お気を付けて』
頭を垂れる凛々しい大鹿と優しい光に見送られて、僕らはペリドット達の住まう山を出立した。
蒼い。
その一言に尽きた。
今歩いているのはちょっと整備されたかな、という感じの森だ。木々が鬱蒼と茂ってはいるけど、よく見ると等間隔だし、道も僅かに見える。
そしてひたすら蒼い。
木々の間を縫うように水が流れ、遠くから滝の音がする。その水も、木々も、梢に実る葉も、蒼い光を帯びて森全体が蒼く見える。
「……水、あト大地。光も少シいる」
「へぇ……綺麗だね」
この感じだと水と大地、光の精霊の仲は良さそうだ。水と光が綺麗なコントラストを作って、大地もそれを拒んでいない。
空気が美味しいなぁ……。
さっきガーネットが「もう少しですから」と地図を見せてくれたけれど、本当にアキバシの森の近くだった。どうやら、ペリドットの森で移動する内に抜け道を抜けてアキバシの森前の「睡蓮滝」という場所まで出て来たらしい。どうやらこの睡蓮滝、不浄の魔物や人間が通ろうとすると滝に住まう精霊に弾き飛ばされてしまうようで、精霊の聖地、と有名なんだとか。因みに情報源はガーネットだ。
一人黙ると、そもそも根底から煩いタイプがいない僕ら三人は一斉に静かになった。空気も美味しくて、騒がしい方が煙たがられるような雰囲気ではあるけど……何でこんな時だけ同時に黙るんだろう、アクアマリンとガーネット。話題を自分で消したような変な罪悪感を覚える。
「……あ、ねえ、ガーネット」
「……? はい」
静かな雰囲気に会話を失念していたのは誰も同じみたいで、一拍置いてガーネットが顔を上げた。
「アキバシの森もそうだったけど、ここも精霊の秘地みたいな所なんだろう? よく知ってるね」
アクアマリンが知らないアキバシの森の魔物ランクまで知っていたり、地図には「睡蓮滝」としか載っていない場所の滝に住まう精霊の事まで知っていたり。地理に詳しい印象は強い。
ガーネットは視線を上にあげて、だけど木の幹がぼこりと浮いている箇所は器用に避けながら──思い出すように、ふっと笑った。
「変に方向音痴が多いですからね、炎系の精霊は。カバーの意味もあって、昔から地理だけは覚えました。精霊樹の付近で阿呆のように同じ所を徘徊する精霊と同じようにはなりたくなかったので」
阿呆って……。
バシバシ飛び出る暴言に苦笑いしか出ないが、そうか、確認は取っていなかったがガーネットは炎属性の精霊で間違いないらしい。そしてガーネットの周囲は方向音痴だらけのようだ。
「ガーネット、あア見えて面倒見ハ良い……かラ」
「一言余計だ」
無表情で此方もバシバシ皮肉を吐くアクアマリンを「はいはい……」と制する事が出来るようになったのは大きな成長だと思う。ガーネットが物理的な火花をいつの間にか飛ばさなくなっていたのも成長だ。多分。
やいのやいのと軽い口論を飛ばし合う二人に挟まれながら、躓き掛けた太い幹を跳ねるように避けて歩いて行く。
精霊になったせいなのかは解らないけれど、さっきから周りで「楽しい」「嬉しい」と囁かれているような、何というのだろう──抽象的に表現すると、森が嬉しそうな感じがする。枝が茂っていて元気そうに思えるからかもしれない。
それを言い合い中にアクアマリンに伝えてみると、二人とも口を閉ざして、此方を穴が穿てそうなくらいじっとりと見詰めていた。二人とも自然の風景を切り取ったような綺麗な目をしている。だから、自然と苦笑いが張り付いてしまった。
「……確か二ここは、精霊ガ元気、だケド」
「う、うん……?」
「……精霊王様、精霊に転生してから然程月日は経っていない筈、ですよね?」
言い淀むアクアマリンを取り継ぐ様に、ガーネットが夕焼けの目で僕を見てそう言った。紅い瞳が監査している様で、そうでないと解っているのに身が萎縮する。精霊年月の差かな……。
精霊になってから、か。確かに、一月も経っていないと思うけれど、それがどうしたのだろう。……あれ? もしかして僕変な事言ったかい?
黙ったままのアクアマリンを左手で小突きながら、ガーネットが僕に説く。
「精霊王様ともなれば確かに、言葉を発さない下級精霊の囁きを汲み取る事は容易でしょう。ですが……普通、転生直後というのは、魂が器に馴染むまで暫くの時間を要します。異世界からともなれば、それこそ年単位も珍しくありません。有り体に言えば、精霊王様は……その、馴染むのが早過ぎるのです。"完全に器と魂が合致した状態"で無ければ下級精霊の囁きなど聞き取れませんから」
ああ、なるほどね……。
つまり、ガーネットは『転生して一月も経たないのに精霊の囁きが聞こえるのはおかしい。馴染むのが早過ぎる』と言いたいのだ。異世界でも近い姿をしていたから、動きに不都合が無いのは見咎めが無かったみたいだけれど、流石に囁く様な微かな声まで聞き取れるのは、ガーネット達高位の精霊から見ればおかしいのだろう。
どこか遠く離れた場所に意識を飛ばしていたアクアマリンはやっと帰って来たらしく、海の綺麗な瞳を一度だけ瞬かせて、ガーネットが口を挟む間も無くその一言を絞り出した。
「……精霊王様、前世デ、人間のコと……どう、思っテタ?」
「……大嫌いだったよ」
空気を悪くするだろうとは解っていても、その質問には即答でなければ答えられない気がした。きっと時間を置き過ぎれば、去って行った過去の思い出が鎖になって応えられなくなる。その位なら、今ここで、全部吐き出して、後回しにするのは辞めておきたかった。
ガーネットが炎を宿している紅い瞳を一度だけ瞬かせて、尚も何か言おうとするアクアマリンの口を塞いだ。息が出来ていなさそう……なのだけれど、きちんと呼吸音は聞こえるので精霊スペックで呼吸しているらしい。僕の心配は良い意味の杞憂に終わった。
納得行かなさそうなアクアマリンの瞳が、何か、向けられた事のない感情を孕んでいる様に見えて──つい、口が言い訳を求めて突っ走る。
「人間なんて、粗方いなくなれば良いと思ってた。自分が人間だったのが許せなかった。だから──ごめん、忘れて」
どうして僕は人間に生まれたのだろう。例え荒野でいつ死ぬか解らない生を送る事になっていたとしても、獣に産まれていた方が、まだマシだったんだ。だから、転生はこの上なく僥倖、とでも言うべきだろうか。……それを言うには、正直目の前の二人の瞳は悲し過ぎる。だから臆病な僕の理性は、寸前できちんと歯止めを掛けてくれた。うん、こういう所は変に使えるよね。
蒼い木々を抜けて、陽光がちりりと視界を灼く。眩しいけれど、隙間に浮かぶ間抜けな白い雲で少し、落ち着いた。
「……ごメン、変な事聞いテ」
「……え? あ、うん、気にしないでくれ。僕も変な空気にしてごめんね」
考え込む二人の精霊の思いがいまいち読めないまま、僕らは蒼い森を歩む。
囁くような声を響かせて跳ね回る精霊達が、光の海のようにも、涙の海のようにも見えて、不思議だった。




