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作者: 安岡 憙弘


     「古池や  蛙飛びこむ

        水の音」


私のつくったどの作品よりも、私の先達せんだつの作ったどの俳句よりも、私は松尾芭蕉のこの蛙のありきたりな俳句こそこの世にはもう二度と出てはこない世界最高の一句だと考えている。

芭蕉の句の中から数点を選んでじっくり鑑賞して見たことがある。私の家においてあった芭蕉かるたなる特級品の中から気に入ったものだけを選んでチョイスしてみた。〝鐘〟〝唇〟〝万才まんざい〟〝へその緒〟という音に私はかれてそれらのいろはかるたから芭蕉の好きな俳句だけを抜き出して大事にしまっておいた。

すると祖母がそれを見つけてこっぴどく私を叱った。いつでもこのようなバカなことで叱られているので私は腹が立って仕方がなかった。そもそも芭蕉の俳句をより理解しようとする方が良心的であると私は思うが祖母は芭蕉かるたは大切にしても芭蕉の句を地元の俳聖であるにも代かわらず大切には思わない所が私には不思議におもえてしょうがない。

 祖母は俳句や短歌を愛するが他人の句を愛さない所が悲しくてしょうがない。

何故なら他人の句を愛する事こそ短歌や俳句の楽しみであって自分の句など本当はどうでもいいのだから。

 鐘の音を連想させるものにフランツ・リストのラ・カンパネラというピアノ曲がある。超絶技巧を要する曲だが少し子供っぽい感じのするこの曲は、宮沢賢治が銀河鉄道の中でジョバンニの友人としてカンパネルラという名前で使っている程有名であったのだ。私は鐘の音というものに以前から興味があって鐘でも鈴でもベル系のものは何でも注意深く音を楽しんできた。しかしオルゴールなるものにはあまり楽しく思わなかった。

 リストのカンパネラはおいといて、これら芭蕉の句の中のキーワードは皆、なんらかの音を連想させる。すなわち息遣いであったのだった。息遣いとは、牛や馬のハァハァではなくまるで赤子のスヤスヤと言った息遣いがどの言葉にも感じられる。〝万才〟でさえ、まるで赤子のが万歳しているかの様な感じを受ける。私は芭蕉の生家は果たして柘植か上野かという論争を自分なりに考えてみた。私は柘植の生まれ育ちである。私は決定的な証拠を見つけるのは不可能であるが推測なら可能と思った。芭蕉はズバリ柘植の産まれ、上野の育ちであると思った。

なぜなら柘植で産まれてこそ芭蕉はこれら赤ん坊の息遣いをワビ、サビとする様な誰にも二度とマネすることのできない情緒を持つことができた。私のカンではこのような情緒は上野にはない。柘植の人だからこそ、赤ん坊の様なウブさを持っている。そして上野育ちを証明するものは、芭蕉の日に焼けていたであろうことである。これはもう伊賀の人でなければほとんど区別できないが上野の方が平野であるので色の黒い人が比較的多い。それに対して柘植は忍者も好んで隠れた盆地の山里であるので色の白い人が多い。私はこの事実をかんがみて、芭蕉は柘植で出産された後4、5年を経て上野に移り住んだと考える。恐らく上野城主に出仕したのであろう。それを考えると芭蕉忍者説も納得がいくが私はそうは思わない。4、5年で上野に移り住んだのは忍者として特殊養育される為ではなく、何か他の理由があったに違いない。さもないと芭蕉の俳句は片手間で出来るはずは絶対にないから。私は芭蕉生誕の地の人間として彼から何を学んだかと言うと芥川龍之介の言う伊賀焼の様な枯淡さを芭蕉の中に見ていたのであったと思う。伊賀焼の様な枯淡さとは芥川の表現した芭蕉のワビ、サビである。しかし私はここで生活をしていたが為に、ワビ、サビの秘密に到達することができた。つまり、赤ん坊のスヤスヤと寝ているウブな感覚こそが、日本人の侘び寂びの原点になっていたのだと考えた。

 私は芭蕉の鐘の句を想い出して、なぜか松尾芭蕉は夢が枯野を駆け巡るように全国を行脚したのかと考えたがやはり芭蕉は天才であったと考え直した。なぜなら西鶴や一茶、蕪村と言った自然派の人間に対してあくまで松尾芭蕉は芥川の言った様に、陶器の美しさを愛した人間であったから。現代のベートーヴェンの様に芭蕉は自然ではなく人間賛歌の俳句を確立した。それはもう他の人には決して真似することのできないものだった。なぜなら芭蕉は江戸時代の人だったから。江戸時代に人間賛歌を唄ったのは日本では恐らく芭蕉唯一人であろう。西鶴にバカにされながらも松尾芭蕉は故郷の赤ん坊の息吹を求めて全国を行脚したのであった。私は伊達政宗の大ファンである。しかし政宗のいた戦国時代にはまだ赤ん坊の息吹は奥州には届いてはいなかった。なぜなら松尾芭蕉のあのつわものの一句がってこそ初めてワビやサビが誕生したのであるから。私はいつだって決まってワビやサビが本格的に生まれたのは芭蕉以降であると考えていた。しかし少しだけ修正すると、奥州には元々侘び寂びはあった。私はそれを考えると松尾芭蕉はいつだって人に気付かれない人であったと思わずにはいられない。 

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