独り善がりな理想郷
全てを犠牲にしてまで、救いたいと望む物があるか。
全てを破壊してまで、望むものはあるか。
自分自身を最高の不幸にまで落としてまで、幸福にしたい人がいるか。
「ねぇ、パパ。この絵本に書いてある楽園って、本当にあるの?」
「ああ、きっとあるさ。私はまだ見たことはないが……きっとある」
「そうだよね……楽園なら、きっと私の病気が治るよね? パパも、今みたいに辛い思いしなくてすむよね?」
「ああ! きっと、全てがお前の思い通りになるとも! だから、今は何も出来ない私を許しておくれ……」
「……パパ、どうして泣いてるの? どこか痛いの?」
「痛いとも、痛いとも。お前が苦しんでいるというのに、何も出来ないのがこの上なく苦しいんだ。こんなでは、私はお母さんに合わせる顔がない」
死の臭いが蔓延る建物。生気が感じられない廊下。気が狂いそうになる白い部屋。
その部屋の中には、ベッドの上で横たわる少女と、その手を強く握りしめ、年甲斐もなく大粒の涙でシーツを濡らす男がいた。
これまたこの場所に相応しいほどに生気がない少女の腕には、管が突き刺さり、その管のおかげで少女は一命をとりとめている。彼女の体は、一人だけモノクロの時代に住んでいるように、それ以外の色を持っていない。
肌も、髪も、眼も、何もかもが白い。影と言う黒が白を色付けている。
部屋の白さも相まって、この部屋では男と窓の外の美しい景色しか色がない。
少女が生まれもった難病は原因もわからず、前例もない。
分かっていることと言えば、人から人へは感染しないであろうことと。このままいけば、少女はどんなに手を尽くしても二十半ばで死んでしまうこと。
「パパ、泣かないで。私は私のせいでパパが泣いちゃうのが、一番辛いの。だから、泣かないで」
絶望するしかない現実の中、少女だけが光を見ていた。
医者も、父親も、人々も、神にすら見捨てられた、彼女だけが笑っていた。
少女は弱々しく、泣いている男の頬に手を当てる。
「私は大丈夫だから。だから、パパは自分のお仕事を頑張って。私、パパはたくさんの人を助けるために頑張っているって、知ってるから」
頬に触れるその腕は、まるで小枝のようで触れたら折れてしまうぐらいに細い。
少し突き出すだけでも手が震え、その手ではまともに物を持つことも出来ない。
男は、私が望んだものはこんな者ではないと嘆き、己の愚かさを涙と共に流してしまいたいと願った。
「違う、違うんだ! 私はお前をこんな目に会わせるために、研究をしていたわけじゃない! 何が人の為だ、何が世界の為だ! 娘一人救えないちっぽけな人間が、どうしてそんな大層なことを口に出来る!」
男は高名な研究者であった。彼の発明が出るたびに、世間は驚き男を称賛した。
だが、彼女の病気の前では男も努力も全て徒労と終わる。
生まれつきで、原因も不明。母親は彼女を生むと同時に死んだ。
遺伝子の異常もどこにもない。ウイルスに掛かっているわけでもない。
間違いなく、現代の医学では対処のしようがない。
男は自らの無力を一番嘆いている。世間では騒がれようと、娘一人救えないと絶望している。
少女は父親の偉業を誰よりも喜んでいた。それ故に、父親が自分に会って悲しむのが何よりも悲しかった。
「パパ、そんなこと言わないで。私は、パパがみんなの役になっているのが嬉しいの。元気になるの。だから、私よりもお仕事を頑張って?」
「ううぅ……、違う、違うんだ……」
ここに来ると、男はいつもこうなる。
娘に謝り、娘に仕事を優先してと言われ、涙を堪えることが出来ない。
この自分よりも男を気遣う姿が、亡き妻に重なってしまう。
男は自らの人生を悔やんで、やり直したいと何度も望んだ。
「パパ、お願い。私は大丈夫。ほら、元気だから」
少女は必死に男を元気づけようとする。
それが火に油を注ぐ行為であることは言うまでもなく、男は更に大声で泣き叫ぶ。
この施設は、男が娘の為に作ったのだ。
娘の為に、どうしても必要な金すらも使い、娘の病気を何とかするために建てたのだ。
病院というよりかは、研究所と言ったほうが適切かもしれない。
この施設には、男に雇われて少女の病気を研究する人々が大勢いるのだ。
「ほら、パパ見てよ。楽園、楽園があるよ」
「……楽園?」
「そう、楽園。楽園に行けば、私の病気は治るんでしょ? だから、パパが泣く必要なんてどこにもないよ」
少女は絵本のとある一ページを指さして男に言った。
そこには住む人皆が笑顔で、苦しみも争いも涙もない、空想の理想郷が描かれていた。
男はそれを見て、泣くのを止めた。そして同時にたまらなく懺悔をしたくなった。
この愚かな自分が、心優しき最愛の娘に負わせてしまった、その小さな弱々しい体にはあまりにも不釣り合いな大きさの罪の塊。
神すら許さぬ、この罪悪を。たまらなく懺悔したくなった。
「……ああ、神よ。感謝します」
男の口から不意に言葉が零れた。
「――私の進むべき、道が見えました」
一体男はいつから狂い出したのだろうか?
この言葉を発した時からだろうか。それとも、彼の妻が死んだ時からだろうか。娘の病気が発覚した時からだろうか。
いいや、おそらくはどれも違う。
――人間は追い詰められた時に本性を現すという。つまりこれが男の本性だったのだ。
「不甲斐ない私を許してくれとは言わない。しかし、私は諦めない。きっとお前を救ってみせる……だから、私を待っていておくれ」
「パパ、お仕事に行くの? 行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくるとも。行って、返ってくるとも。良い子で待っていておくれ。私の愛しい愛しいアーテー」
かの男の狂熱は、やがて世界を巻き込み、少女へ更なる苦痛を与えることとなる。
そう、男は『楽園』を作りだしたのだ――
* * *
外の世界は荒廃し、生物も草木の一つも生えていない。
楽園と呼ばれるこの場所はこの地上に残された唯一の生物が住める場所で、全員が幸せに暮らしている。
この楽園を保つために、とある女性がこの楽園を管理している。
肌も、髪も、眼も白く、一切の汚れがないあの女性を皆は天使様と呼んでいる。
天使様はこの楽園に住む人々を第一に思っていて、誰もそれを不満に思っていない。
これが、この場所の現実だ。
「絶対に間違っている。こんなのはおかしい」
この場所と外とは、巨大な外壁にて隔離されている。つまり中に住む俺たちに外の事を知る手段はない。
何が言いたいのかと言うと、つまるところ外のことはこの楽園の管理者である天使様しか知らないわけだ。
実際外の世界が荒廃しているだなんて、そんな証拠は一切ない。天使様はそう言っているだけだ。
何を思っているのが、馬鹿な奴らはこれを鵜呑みにし、疑おうともしない。
これではただの箱庭で生かされているだけの人形じゃないか!
俺は、そんなのはごめんだ。絶対にそんな人生は送りたくない。
「あらあら、こんにちは。今日もいい天気ね」
「当然さ。ここでは天気なんて意味がない」
「ああ、そうね。天使様が全てを聞き入れ、そのお力で全てが上手く行くようにしてくださっているからね。私達は何も、心配する必要がないわ」
「……ちっ」
「おや? どこへ行くの?」
「どこだっていいだろ!」
通りすがる町の人々。その誰もが同じことを口にする。
全ては天使様のおかげ。私達は何も心配することはない。
仮に天使様が悪い奴だったらどうするんだ? 俺たちはただ踊らされている、舞台上の人形だったら?
それを見て笑うのは、全てを知って観客席に座る天使様だけじゃないか!
確かめてやる。今日こそは絶対に。
天使様は俺たちの目の前に直接現れることはない。
普段は街中に設置されたモニターから、俺ら全員に語り掛ける。時々ホログラムで街中にやってくる。
その滅多に姿を現さないのが、更に神聖さを増しているのだから、皮肉でしかない。
俺らに姿を見せられない理由でもあるのだろう、そしてそれは不都合な理由からに違いない。
だから、俺は実際に天使様に会って確かめてやる。
見慣れた街中を駆け抜ける。
走っている俺を誰も見はしない。何とも思っていない。
何も考えてない証拠だ。俺とは違う、俺は違う。
天使様の住む所は、最も壁に近いところにある。
天使様と同じように純白で、美しい建物だ。
そこは壁に覆われていて、入口にも兵隊がいる。普通なら入ることは出来ない。
だが、俺は見つけてしまった。少しだけ大変だが、上手く足を掛ければ壁を越えられる場所を。
ここからなら天使様の家の中に入り込める。中にも天使様を守る為に兵隊がいるだろう、問題はそこからだ。
「見られて……ないな。よし」
周りに人がいないことを確認してから、壁を越えはじめる。
やっぱり少し辛いが、何とか越えることが出来た。
問題はここからだ。敷地内には入れたが、建物内にはどうやって入ろうか。
適当に窓でも開けてみるか。難なく開いた。
よし、これで中にも入れるな。
建物の中に入った後を考えると、こんな所で躓いてはいられない。
俺が入ったその部屋は、全てが白かった。
ベッドも、天井も、扉も、カーテンも、全ても白かった。
いや、こんな物に気を取られていてはいけない。
俺は天使様に会って、本当の事を知るんだ。夜になってしまっては、騒ぎになってしまう。
部屋の扉を開ける。
廊下も白い。白い扉が幾つも並んでいる。
あれ……兵隊がどこにもいない。
天使様が死んでしまうと、この楽園は滅びてしまう。だから天使様を守る為に兵隊たちが常にこの建物内を巡回しているらしい。
なのに、どこにもいない。静かだ。
いや、違う。そんなことはどうでもいいんだ。俺は天使様に会うために来たんだ、兵隊がいないなら好都合じゃないか。
手当たり次第に部屋の扉を開けていく。
しかし天使様はおらず、どれもこれもまったく同じ白い部屋。
汚れ具合も、ベッドの上のシーツの染みも全く同じ。
……よくよく考えてみたら、天使様と言うのは空にいるものだと誰かが言っていた。
つまり、上の方に行けば会えるかもしれない。
くそ、時間を無駄にした。
螺旋階段を駆け上がる。
この螺旋階段は一番上まで直接繋がっているようだ。何故か途中の階に降りる道がない。
俺が見た限りでは、これ以外に階段はなかった。
この階段にも、兵士はいない。
なら急ごう。カツカツと音をたてながら階段を駆け上がる。
最上階にやってきた。
最上階には何もない。高さが低い円筒状の部屋が一つあるだけだ。
側面部分は全てガラスになっていて、この場所の全てを見通すことが出来る。
天使様は……いない。
「ここにもいない……? なら一体どこに」
円筒の部屋の中心まで歩いていく。
中心で回転して見回すも、やはり何もない。天使様もいない。
折角ここまできたと言うのに、何もない。外は少し暗くなっている。
天候も自由自在、だと言うのに時間は正確に刻まれる。疑似的な光をもたらす天板も、夜になれば光を消し去る。
「くそっ! 結局天使様ってのは何なんだ! 本当に天使だとでは言うのか!」
「いいえ、私は天使などではありません」
思いもよらぬ返答に、俺は後ろを振り返る。
あり得ない、絶対にありえない。
そこには天使様が立っていた。しかも、俺が先ほど上ってきた階段の前に。
後ろから付いて来た? いや、階段では音が出る。
この部屋には隠れる場所なんてない。
どう考えても、そこに突然現れたとしか思えない。
天使様は俺に二コリと優しい笑みを向ける。
「初めまして、ではないですね。町で何度がお会いしたことがあります」
「ああ、お前のホログラムにな……」
「ええ、しかし会ったことには変わりはないのです。なぜなら、私達はお互いに顔を知り、存在を知りえたのですから」
「ふざけるな! ホログラムで俺らと直接触れ合わず、一人こんな高みから俺らを見下ろしてたのか? お前にとって俺は何なんだ!?」
「私にとって貴方達は、生きていてほしいこの楽園の住人です」
天使様の笑顔は揺るがない。
その態度が、俺を更に苛立たせる。
なんでこんな罵声を浴びせられているのにそんな笑顔でいられるんだ。おかしいだろ!
この時点で、分かっていた。もしも天使様が俺が思ったような人なら、おそらくは別の反応が返ってきただろうから。
だから――俺はもっと叫んだ。
「何が楽園だ! ただの箱庭だろう、俺らはお前の人形でしかないじゃないか!」
「人形と言うのなら、そもそもこの部屋まで貴方はやって来れたのでしょうか? そんな人形の反乱を、果たして人形遣いは許したでしょうか?」
「……なんで、俺はここまで来れた。何故この建物の中には兵隊がいない。お前を守っているはずだろう」
天使様は以前とにこやかなままだ。
その様子では、まるで彼女こそが人形ではないかと錯覚するほどに。
「兵隊などいるわけがありません。この楽園に、武力で抑えられた平和など存在してはならないのです」
「それなら入り口のあいつらはなんだ!」
俺は何も様子が変わらない天使様に対して感情を抑え切れず、遂に天使様に掴みかかろうと走り近づいた。
だが、俺の体は宙に投げ出されただけだった。
天使様はホログラムだった。いつもと同じ、肉体でない。
俺は危うく階段から落ちる所だったが、何とか数段ずり落ちただけで済んだ。痛い、が特に体に異常はない。
「入口の彼らも、私と同じです」
「ホログラム……本物のお前は、どこにいるんだ。まさか、ホログラムが本体だなんて言わないだろうな」
俺が階段から落ちても、天使様には殆ど変化が見られない。
目の前でこんな目に会っている人間がいるのに、まゆ一つ動かさないなんて人間じゃない。
「……本物の私に会いたいですか? 楽園の在り方が、そんなに疑問ですか?」
「ああ、文句はあるし、本物にも会いたい」
「では付いて来てください。私も、貴方に会いたいと望むでしょう」
天使様は俺から目を逸らし、円筒状の部屋の奥へ行った。
俺も足を挫かないように気を付けて立ち上がり、後を追う。
円筒状の部屋の中心、さっきまで俺がいた場所に天使様は立っている。
俺が部屋の中に再び入り天使様のすぐそばまで行くと、突如部屋の床が抜ける。
俺は下に下がり、上のから天使様が覗いている。
「な、なんだ!?」
いきなりの事で混乱している。いきなり床が抜け、別の場所に移動しているんだ。今まで俺はこんなことがあるだなんて知らなかった。
街中では考えられない。
一階と最上階の間かと思ったら違った。何と一階すらも通り過ぎ、地下へと俺は下がる。
ようやく下がり切ったと思ったら、今度は目の前の光景に何も言えなくなる。
「これが私の本体です。残念ながら、本体は挨拶することが出来ませんので、私の挨拶でご容赦を」
「……何だよ、これ……」
「私の本体であり、この楽園を管理するシステムの中枢です」
地下にあったのは見ただけで俺には人生すべてを使っても理解できないであろう、複雑な機械類があった。
その機械類の丁度中心にある謎の液体で満たされたカプセルの中に裸の人が入っている。
その人は何本もの管が繋がれ、明らかに普通ではない。
……そのカプセルの中の人は、天使様だ。
「私はあの装置にて、老化を抑えています。気が遠くなるような昔にあの装置に入れられてから、ずっと私はあの状態です」
頭の理解が追いつかない。
そもそも、俺は何の為にここまで来たのかも思い出せない。
少なくとも、こんなことを知るためでは無かったはずだ。
「私の脳みそが直接機械に接続され、私の本体の意思で楽園の機能は動作しています」
「ちょっと待ってくれ。どういうことなんだかわからない。説明が欲しい」
俺が説明を求めると、すぐに天使様は説明を始めてくれた。
今の俺には、目の前の天使様がどういう存在なのかもわからない。
「私の父親……彼は偉大な研究者でした。彼の発明は常に世界に広く評価され、私の自慢の父親でした」
「世界に広く……天使様はまだ世界が存在してた頃の人間なのか?」
天使様が頷いた。
俺が聞いた話では、壁の向こうがまだ人が住める環境だったのは三百年以上前だったらしい。
つまり、天使様はそれよりも前の人間……?
「私は生まれつき絶対に治ることのない病に侵されていました。父はそれを深く悲しみ、遂には自らの仕事を放棄してまで私の病気を治そうとしてくれま
した。この建物は、元々はその治療の為に建てられた研究施設なのです」
「ここが……とてもそうは思えないぐらい綺麗だけど」
「それは私が改装をした結果です。父の努力は空しく、遂には私の病気は治りませんでした。しかし、父は凶行に走ってしまいました」
「凶行……?」
「はい、そうです。その内容が目の前の物です。私がかつて絵本の世界で夢見た楽園を、私の意のままに動かせるようにと父が作ったのです」
んな……流石にこれは俺でも理解できてしまった。
つまり、この場所は天使様の為だけに、天使様の父親が作り出したってことだろ。
「その時は本当の楽園になるなど、父は予想してなかったでしょう。事実、私は私の意思さえ無視して私を生かしたのですから」
「その言い方だと、死にたかったように聞こえるんだが……」
天使様が頷いた。
「私は天寿を全うし、運命通りに死ぬつもりでした。私が死ねば、父の重荷が消える。私が死ねば、父は再び皆の為に研究を続けてくれると思っていました。でも、父は全人類を見捨てても私を生かしたのです」
その全人類よりも優先された、天使様を生かす方法がこれなのか……?
とてもじゃないが、この機械がそんな高尚な物には見えない。
ごちゃごちゃで、乱雑で、正直汚い。
こんな物があの町を保っているだなんて考えたくもない。
「この装置に入れられた時、私は十七歳でした。父はおよそ十年の歳月でこれを、楽園を完成させたのです」
「……これのどこが楽園なんだ。ただの箱庭じゃないか」
「外の世界を知らない貴方はそう思うでしょう。しかし、今壁の向こう側は酷いことになっているのです」
「実際はどうなんだか。そうだ、俺はそれを問いただしに来たんだ」
今思い出した。
本当は天使様が悪い奴で、俺たちを騙していると。そう思ったからここまでやってきたんだ。
「外界は大気汚染にて、呼吸をすれば肺の組織がやられ死に至る。そんな世界です」
「その証拠は! どこにある!」
「すぐ目の前に、私自身がその証拠です。私の体は非常に虚弱で、何か外界に変化があればすぐさまそれに左右されてしまいました。私の肺は、健常者ならば何ともないほどの微量な汚染で破壊されたのです。父はそれを見てこの装置の完成を急ぎ、他の科学者は汚染の対策を急ぎました」
もしも父が、あの時私を無視して汚染の対策へ向かったのであれば、こうはならなかったでしょう。
ホログラムの天使様が初めて見せた、悲しい顔。
カプセルの中の天使様も顔をしかめたような気がした。
「この機械が完成するとともに、汚染は健常者にも影響を及ぼし始めました。父はこの機械に、既に自らの意思では呼吸もできぬ私を入れ、楽園を外界か
ら隔離しました……これが貴方が求めた楽園の在り方です。」
「つまり、それは俺たちが生きているのはあんたのおまけでしかないってことだよな……」
「……はい、要約するとそうなります。この楽園は独り善がりな理想郷、娘を愛したあまりに世界を滅ぼした一人の男が作り出した、最後の絶望です」
目の前の景色が歪む。
人形なんて物じゃない。俺たちは、舞台に放置された埃も同然だったのだ。
これでショックを受けない人間なんて、いるものか。
「……この場所は、あの機械が保っているんだよな?」
「はい」
「つまり、あの機械が壊れれば……もといあんたの本体が死ねば、この場所は壊れるのか?」
「はい。私の命が終わる事は、即ちこの楽園の崩壊を意味します。父が作り出したのは楽園ではなく、全てが私の思い通りになる楽園なのですから」
娘がいない楽園に、存在価値はない。俺はその父親のことは知らないが、そう言っているのが簡単に想像できる。
俺はその場に崩れ去る。
ははは……なんだこりゃ。これなら舞台上の人形の方が、どれだけ幸せだったか。
なんだよこれは、俺はどうすればいいんだよ!
天使様が、俺に向けて一つの場所を指で示す。その先には、配管や機械が密集している場所があった。
「貴方が望まないのであれば、あそこを壊すといいでしょう。あそこは私の命を保っている機械です、壊されれば必然的に全てが終わります」
「……俺に、この場所に住む人とあんたを殺せと言っているのか?」
「楽園は、皆が笑顔で暮らせる場所のことです。私はこんな楽園を楽園とは認めません。このシステムを否定し、全てを変える覚悟があるのであれば、破壊するのも悪くはないでしょう」
俺はその場で拳を強く握りしめた。
閉じた瞼の裏に、汚染された外気で苦しむ町の人々が浮かぶ。
そして、あの綺麗な天使様の悲痛な死も。
「……俺には出来ない。俺には……出来ない……!」
「では――」
……俺は何をしていたんだろうか?
気が付くともう辺りは暗い、夜だ。こんな時間まで俺は一体何をしていたんだ?
何で俺は、天使様のお家の前にいるんだ? さっぱり思い出せない
「ほら、早く帰った方がいい。もう夜遅いし、親御さんも心配しているだろう」
「あっ、そうですね。さようなら、兵隊さん」
「何も心配することはない。天使様がいらっしゃるからな」
「ええ? 何をいきなり当たり前のことを言っているんですか?」
「いや、それならいいんだ。幸せに暮らすんだぞ」
兵隊さんに勧められ、俺は家に帰ることにする。
何か大切なことを忘れているような気がするが、さっぱり思い出せない。
どこか心に靄がかかったまま、俺は夜の町を家に帰るべく駆け抜けた。
* * *
「ねぇ、パパ。楽園なら、本当に私は幸せになれるの? もう、こんなに大変な目にあわなくてもすむの?」
「ああ、そうだとも。楽園ならお前は永遠に幸せになれる。全てがお前の望むがままになる」
「ふーん。でも、私はそんなのやだな」
「どうしてだい? 全てが、思うがままなんだぞ?」
「だって、そんなの寂しいよ。だって、私はあの窓から見える鳥さんや、聞こえてくる風の音がとても好きなの。この絵本の楽園では、どっちもないんだもん」
「ふふ、心配はいらないよ。真の楽園では、そのどちらも与えられる。何も心配する必要はない」
「……ねぇパパ。一つだけ質問してもいい?」
「なんだ? 何でも答えるぞ」
「パパは、本当は私の事が嫌いなんでしょ?」
ふと思いついたので勉強の合間に書いてみました。
アーテーと言うのはギリシア神話の狂気の女神であり、『娘』の名前と言う訳ではありません。
つまり、あの時には既に男は自らが狂っていることを自覚していたのです。