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彼女の音、彼の音

作者: 日向

「ねえ、何でピアノやめちゃったの?」

 何気ない調子で彼が聞くものだから、わたしは考える前に答えていた。

「君の方がうまいから」

「え?」

 はっと口を手で押さえる。彼は困惑した様子でわたしを見ていた。

 わたしは気まずい思いを抱えながら、苦笑して言った。

「うそうそ。わたし、飽きっぽいから続かないんだ。何事も」

 ぼーん、と手に持っていたギターの弦を弾く。

「好きだったのにな」

「じゃあ今度弾いてあげるよ」

 ぼーん。

 彼はそれ以上何も言ってこなかった。

 怒らせたかな、と少し不安になる。

 彼の実力が物凄い努力に裏付けられたものであることを、わたしは知っている。

 わたしが知っているということを、彼は知っている。

 そして彼は簡単に何かを諦めるということが大嫌いだ。

 わたしがピアノを止めた理由が、うっかり口をすべらせた通り、彼に到底追いつけないことを悟ったせいだと知ったら、わたしは彼に軽蔑されるのだろう。

 努力もしないうちにどうしてあきらめるんだ、というのが彼の言い分だ。

 しかし彼には一つわかっていないことがある。

 神様はすべての人にチャンスをくれるが、それは決して平等ではない。

 彼は音楽に、ピアノに愛されている。

 わたしにはどんなに頑張っても彼のようにピアノを弾きこなすことはできないだろう。

 ピアノが大好きなだけにそう思ったときはすごく辛かった。

 だから止めるという選択しかできなかった。

 彼がピアノに特別愛されているとするなら、わたしはどの楽器とも仲よくできるらしかった。

 大抵の楽器は普通程度には弾くことができる。

 けれどもそれ以上にはなれない。音楽でお金をかせげるような、そんな弾き方はできない。

 ぼーん。

「ねえ、わたしのピアノ好きだった?」

「うん。すごく楽しそうだから」

「そっか」

 わたしはギターをそっと置いた。

 開いたままだったグランドピアノに近づき、無造作に鍵盤を押す。

 ミの音が空間に響いた。

「じゃあリクエストにお応えして、何か弾こうか」

「だったら、リストの愛の夢を」

「りょーかい」

 彼が好きだと言ってくれるなら、わたしはいくらでも弾いてあげたいと思う。

 きっとわたしのピアノは不特定多数のためにではなく、彼のためにあるのだと思うから。


 ♪♪♪


「ねえ、何でピアノやめちゃったの?」

 ふと疑問に思って聞くと、意外にも彼女は即答した。

「君の方がうまいから」

「え?」

 それは思ってもみない返答だった。まさか彼女がそんなことを言うなんて。

 彼女はしまったというふうに口元を手で押さえ、僕の方を不安げに見つめていた。

 それから、手を離して苦笑気味に言う。

「うそうそ。わたし、飽きっぽいから続かないんだ。何事も」

 視線を手元のギターに移すと、ぼーんと弦を一本弾く。

 その姿が何か悲しげに思えて、僕は彼女の言葉の真意を追及するのはやめた。

 代わりにずっと言いたかったことを口にする。

「好きだったのにな」

「じゃあ今度弾いてあげるよ」

 彼女は嬉しそうに口元を緩めてそう言った。

 さっきとは違う弦をぼーんと弾く。

 そのまま考え込むような表情になった彼女を見ながら、僕もまた考えを巡らせていた。

 彼女は本当に僕の方がうまいからという理由で、ピアノを止めてしまったんだろうか。

 そんなことはありえないと思う一方で、飽きたという理由よりはよっぽど真実味があるとも思った。

 そもそも僕の方がうまいだなんて、どうして彼女はそんなふうに思ったんだろうか。

 僕は僕のピアノよりも彼女のピアノが好きだ。

 伸びやかで素直な音も、音符が飛び出して見えるような弾き方も、僕には真似できない彼女だけのものだ。

 そりゃあ、彼女の方が音を間違えたりテクニックが追いつかなかったりする部分はあるかもしれない。けれどそんなのは練習すれば直るささいな問題だ。

 僕の演奏は正確なだけ、技術だけの退屈なもの。

 彼女の音楽こそ聞く価値があるのだと思う。

 彼女を目標にして、彼女に聞いてほしくてピアノを弾いてきたのに。

 ぼーん。

 再びのギターの音に思考は中断された。

 彼女は真剣な顔で僕を見ていた。

「ねえ、わたしのピアノ好きだった?」

「うん。すごく楽しそうだから」

 僕は即答した。本心からの思いだ。

「そっか」

 彼女はギターを放すと、側のグランドピアノに向かった。

 さっき僕が弾いたまま、天板も開けてある。

 彼女の背中を見つめていると、ミの音が部屋に響き渡った。

 たった一音弾くだけでも、彼女の音は僕の心を惹きつける。

 どうしてこんなにまっすぐな音を出せるんだろう。

 同じ楽器を使っていても、弾く人によって音に違いが出る。音色、とは言い得て妙な言葉だと思う。楽器を通してその人の色が現れるのだ。

「じゃあリクエストにお応えして、何か弾こうか」

「だったら、リストの愛の夢を」

「りょーかい」

 彼女もお気に入りの曲をリクエストして、僕は目を閉じた。

 そうして彼女が描き出す世界に、しばらくの間飲み込まれた。


お互いを褒めてるだけのお話でした。客観的には彼の演奏が数段上です。


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