iPhoneとiPad、その林檎とスティーブ・ジョブズ
携帯電話の液晶部に張られている透明膜のシールを、未だ購入当時のまま貼り付けている師岡に、私はこう問いただしたのだった。
「お前、その携帯いつから使っているんだ」
「一昨年の暮れ」
液晶型インターフェイスの寿命なんてのは今や短命で、携帯で二年、パソコンで五年、ゲーム機だとか携帯音楽プレーヤーなんかも大体そのくらいのものだろう。新製品を購入すればまた新製品が欲しくなり、もう少し待とうと知略を尽くせばもうなんかもっとすごいのが台頭してきてやっぱりまたもう少し待とうスパイラルに陥ってしまう。贅沢な悩みである。
師岡に至ってはもう家電マニアとでもいうのか、まあ実にプチブル的な、ブルーレイの付いたソニーのでかいテレビジョン、iPod、iPhone、iPad、マッキントッシュの馬鹿でかいの、極薄の、とどこぞのクリエイターといった様相であるが、そのいずれにも透明膜のシールがデフォルトのまま張り付いているのであるから、実に貧乏臭い。
「で、そのシールはいつまでつけているのだ」
「一生」
私が生を受けたのは海と山と巨大な石油タンクに囲まれた小さな共同体で、そのような田舎町ではどの家庭でも透明膜のシールを剥がしているものは無かった。あまつさえリモコンなどのシールが経年劣化してきた際などは“更に上からサランラップを巻く”というような土着的な古くからの因習というのがあった。私はこの閉鎖的な片田舎にあって幼少より疑問だったのだが、つまりシールを剥がされずに寿命を全うした家電たちというのは、その輝きを、機能を、真実を、十分に発露することなく、あまりに大切にされるばかりに、あまりに傷つくことを恐れられるばかりに、未消化のまま役割を終えていく。これは全体、不全ではなかろうか。
「では聞くが師岡、お前はそのフィルター越しに見たiPhoneの液晶に満足しているのか」
「では逆に聞くが、お前はこの世界の全てが明晰に見えている、とでもいうのか」
「見えていないからこそ善処するのだ。例えば眼鏡をかけている。しかし、お前はどうだ」
「俺は…俺は…」
そう呟くと師岡は磨耗によって黒ずんできたiPhoneのディスプレイを愛おしそうに撫で付け、自身の全身にぴたりと張り付いた透明膜のシールを頭頂部から剥がし始めたのだった。