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琥珀色の瞳は、今日も見つめている

掲載日:2026/07/08

 カチャっと食器の擦れる小さな音に、ピクリと耳が動く。白猫のアンブルは片目だけ開いて音の方へ目を向けると、シャノンが窓辺に置かれたテーブルの前にいるのが見えた。いつものカモミールティーというやつを淹れているようだ。


 部屋の隅に置かれた専用のクッションの上で寝そべりながら、アンブルはじっと観察していた。シャノンはお湯を注ぎ終えると砂時計をひっくり返し、こちらへと歩み寄る。腰を折って屈むと、耳の後ろをこしょこしょと撫でてきた。


「もうすぐロシェ様が帰ってくるのよ。アンブルも楽しみでしょう?」


 シャノン、今日も嬉しそう……


「サフィールは、もうぐっすりね」


 まだまだ子猫のサフィールは、よく食べてよく寝る。今も隣のクッションで丸くなり、黒い毛玉になっていた。ふふっ、とシャノンは小さく笑い、サフィールの額を指先で小さく掻いている。サフィールは目を閉じて微睡みながら、鼻先をむずむずさせていた。


 ロシェと仲直りする前のシャノンもいつも笑っていたが、なんとなく寂しそうにも見えたことを覚えている。けれど、今はそんな笑い方をすることもなくなっていた。


「待たせてしまったね」


 ノックと共に扉が開くと、気遣わしげな表情でロシェが顔を出す。寝室に戻ってきたロシェはシャノンの姿を見つけた途端、ふっと目元を和らげた。


「お帰りなさいませ、ロシェ様。ちょうど今お湯を注いだばかりですから、もう少しだけお待ちくださいね」


 ロシェがシャノンと仲直りしてから、毎夜ほんの少しの時間だけ、寝室でお茶会を開いている。どんなに忙しい日でも。


 シャノンは笑みを零すと、出迎えるためにロシェの方へと離れていった。そんなシャノンへロシェの方からも歩み寄ると、柔らかな所作で肩に触れ、そっとシャノンの頬へと口づけた。


 これも毎日のことだが、シャノンはまだまだ慣れないらしい。くすぐったそうにしながら、はにかんだ笑みへと変わっていた。


 ロシェは、やり方こそ間違っていたが、シャノンを大切にしたいという気持ちだけはずっと本物だった。シャノンも、前妻の駆け落ちで傷ついたロシェの心を守ろうとして、強引に踏み込もうとはしなかった。


 アンブルは猫ではあるが、人の言葉や状況を理解する頭はあった。けれど、人の言葉が喋れるわけじゃない。ロシェとシャノンのもとを行ったり来たりしてなんとかしようとしても、なんともならなかった。


 当然二人は全然歩み寄らない。それどころかどんどんすれ違って、心の距離だけが離れていってしまう。それが悔しくて床の上でのたうち回っていると、ロシェもシャノンもアンブルのお腹を思いきり撫でてくる。そのたびに、人間とは本当に鈍感で暢気な生き物だ、と呆れたものだった。


 砂時計の最後の一粒が落ち、流れる砂の音は夜の空気に溶け消える。見ると、砂時計はただの砂山になって沈黙していた。


 隣で寝ていた黒い毛玉から、ぴぴんと二つの耳が立つ。もぞもぞと動いたかと思うと、サフィールは「にゃあ〜!」と元気に鳴いて、二人にハーブティーが仕上がったことを伝えた。釣られてアンブルも、二人の方へ振り向いた……が。


 二人の唇が触れ合う寸前……シャノンの髪を梳くロシェの手が止まる。瞳の中に名残り惜しさを宿しながら、二人はそっと離れてしまった。結ばりかけていた吐息のほどける、微かな音だけを残して。


 んぬゃーッッ、サフィールのバカッッ!


「ありがとう、サフィール。教えてくれるなんて、本当に賢い子ね」

「んにゃぁ〜!」


 褒められたサフィールは、得意げな様子で背筋を伸ばす。そして撫でて讃えろと言わんばかりに、高らかと一鳴きした。


「あれ? アンブルは、なんか今日元気がないな。どうしたんだ?」


 うにゃ……サフィールを止められなくてごめんね、ロシェ、シャノン……


 アンブルは無力感に打ちひしがれながら手で顔を覆うと、クッションの上で体を丸める。その背中を二人の手が、慰めるように優しく撫でていった。


「今日も一日、お疲れさまでした」

「うん、シャノンもね」


 ティーカップに注がれるカモミールティーの水音が、アンブルの耳を優しくくすぐる。こっそりと顔を上げたアンブルの目に、ふわふわと立ち昇る湯気が映る。この場の空気までもが、仄かに温められていくようだった。


 二人は似たような所作でカップを持ち上げると、一口だけ飲んでソーサーへと戻す。そうして、ホッと柔らかなため息を零した。


「ふふ、サフィールがちょうどいい時間を教えてくれたから、美味しいですね」

「そうだね。心なしか、いつもより香りも良い気がするよ」


 二人は、先ほどのことを残念そうにはしていなかった。穏やかな眼差しで、この時間をアンブルやサフィールごと抱きしめてくれているような気がした。


 夜のお茶会──似たようなことは前妻ともしていた。けれど、彼女はあまり楽しそうには見えなかった。


 顔は笑っているのに、気配はソワソワと落ち着かない。沈黙は安らぎではなく、まるで退屈なため息みたいで。あの人は、投げやりな小石みたいに転がっているような、そんな印象だった。


 前妻がいなくなって、ロシェの夜は小さな空白の傷痕になってしまった。それも今は、温かなひとときとして埋まっている。ロシェの猫として、これほど嬉しいことはない。


『サフィール、ワタシたちはちょっと散歩に行こう?』

『ヤダ』

『ふ〜ん? じゃあ、ワタシだけでヒミツのおやつ部屋に行ってこようかなー』

『え、おやつ!? ボクも連れてってよ、アンブル!』


 アンブルはまんまとサフィールを釣り出すことに成功し、寝室を離れる。内緒で少しだけおやつを食べたら、ゆっくり夜の屋敷を散歩して帰ろう。


『おやつの場所は教えてあげるから、アナタの魔法はロシェかシャノンに使いなさいね』

『ウン、いいよ!』


 子猫のサフィールには、まだなんのことかわからないだろう。けれど、大人になればきっとわかる。


 猫は一生に一度だけ、とっても偉大な魔法が使えるってことを!

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