7話
霧が低い。音がやけに吸われる。
「俺の手を離れ始めたか」
俺は中央にある木魂に触れた。
地下第一層。
焚火の匂い。
子蜘蛛の乾いた音。
空気が重く、安定している。
俺は何気なく、中央に立つ。
幾分空気が締まる気がする。
《妖怪領域:安定》
「静かすぎるな」
音が奥に吸われる。
焚火は揺れているのに、子蜘蛛の音が消える。
空間が、息を止めている。
俺は木魂の幹に手を当てる。
鼓動がある。
俺の鼓動と、わずかにずれている。
「合わせに来てやがるな」
森の東側が昨日より濃い。日増しに増えている。
根が昨日より太い。
ぬりかべが命令なしで外縁へ。
「勝手に動くなよ」
枝の奥に、さがりの影。
俺は、地面を触る。
根が脈打っている。
「早ぇ」
それに、問題はまだある。
俺は、森全体を見る。
地下工事。
北西東の三方向に森が拡張。
南には町。
胸がわずかに重い。
「全部は見きれねぇな」
ここで妖怪ブックを開く。
必要だから描く。
影を描く。
猫耳が先に浮く。
メイド服をまとわせ、猫又を完成させた。
今回は、干渉がない。
書き換えてこない。
受け入れられている?
それとも――試されているのか。
描き終えると、黒い闇の靄があらわれる。
そこから這いだすように猫耳の少女が現れた。
黒衣の少女が片膝をつく。
「ご命令を」
俺は淡々と告げた。
「表に出るな」
「俺の影でいろ」
「目になれ」
猫又は答える。
「了解しました」
《妖怪化進行:微増》
「お前の名は、ユイだ」
少女は数秒目を伏せる。
「主に呼ばれる名を持つ」
顔を上げる。
「それだけで、十分です」
「ああ、頼んだぜ」
「早速だが前方だ。斥候たのむ」
「承知」
ユイは、霧に消える。
枝から枝へ音もなく移る。
霧の奥、根の絡まる空間。
樹皮の影が一瞬遅れて揺れる。
ユイの視線が止まる。
影の奥に、さらに濃い影。
だが、追わない。
主の命令は「目になれ」だ。
戦うな、出るな。霧が閉じ、戻る。
「三百歩先、地形変化」
「描写外個体、三」
「――こちらを避けています」
「森が走ってやがる」
俺は息を吐く。
避けている。
襲わない。
寄らない。
だが離れもしない。
観察されている。
領域が広がるほど、俺以外の“何か”が強くなる。
敵か。
それとも世界の防衛反応か。
「どっちでもいい」
生き残るだけだ。
《妖怪領域:微減》
◇その頃騎士団は……
私たち騎士三人は、偵察の任を受けている。
森に向かうまでは安定していた。
町と対面になる南から偵察を開始する。
南は普通だ。
特に報告に値する物はない。
東へ回る。
急に森が濃くなる。
風が消える。
鳥がいない。
一人が消えた。叫ぶ間もなかった。
足音が途中で消えた。
もう一人が転落した。
地面が、そこだけ口を開けた。
土ではない。
黒い何かだった。
帰還できたのは私だけだった。
背後から、視線が外れなかった。
血と泥を纏ったまま、私は塔へ通された。
騎士団長は席を立たない。
ただ、視線だけが私を射抜く。
「報告を」
喉が乾く。
「二名、行方不明。地形が変質。
あれは、魔獣ではありません。
そして――」
私は一瞬だけ目を伏せる。
「森が……こちらを見ていました」
沈黙が落ち、ろうそくの炎が揺れた。
騎士団長の拳が机を鳴らした。
「討伐では足りん」
「制圧だ」
その言葉のあと、
団長はすぐには立たなかった。
ゆっくりと地図へ視線を落とす。
北部の森。
黒く塗られた一点が滲んでいる。
「意思がある」
団長の声は低い。
「ならば浄化だ」
◇
夜。
外縁に立つ。
ぬりかべが、
わずかに震える。
ユイが姿を現す前に、
森の奥で枝が折れる。
だが風はない。
霧が、逆流する。
空気が、重い。
胸の奥の妖怪ブックが、
かすかに熱を持つ。
嫌な予感ではない。“呼応”だ。
森が揺れる。
ぬりかべの輪郭が、一瞬だけ滲む。
地面の奥で、何かが軋む。
その瞬間、“パキッ”と音がした。
森の奥で、空間が裂ける。
真っ黒な裂け目。その奥に――
こちらを“知っている”ものがある。
それは、初めて会うはずなのに。
――まるで、前から見られていたみたいに。
形は分からない。
目もはっきり見えない。
だが、認識された感覚があった。
俺と視線が合う。一瞬だ。
背筋が冷える。
わずかに目を細める。
「誰だ」
返答はない。亀裂が閉じる。
何事もなかったように。
ユイが影から現れる。
「主」
「今のは――こちら側ではありません」
俺は短く息を吐く。
「だろうな」
「なら、向こうも見てるってことか」
怯えない。
むしろ口元がわずかに上がる。
「上等だ」
その言葉が落ちた瞬間。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
《妖怪化進行:微増》
表示は一瞬で消える。
だが、確かに上がった。
俺は眉をひそめる。
「今のか?」
ユイは首を横に振る。
「いいえ。主の存在値が上昇しています」
「は?」
存在値。
そんな項目は今まで表示されたことがない。
地面が微かに脈打つ。
森の奥で何かが目を開けた気配がした。
遠いが、確実に近づいている。
世界がこちらを認識し、調整を始めている。
俺は空を見上げる。
月が、わずかに歪んで見えた。
「面倒くせぇな」
だが、引く気はない。
「来るなら来い」
森の奥で何かが笑った。




