2話
正直俺はビビっている。
だから声に出しちまった。
「ああ、静かすぎんだよ」
戦闘後の森。
霜がわずかに地面を覆っている。
ぬりかべを森の端に立たせる。
壁の隙間から外を覗く。
月は二つ。
森の外は――普通の夜だ。
だが、俺たちの一角だけ空気が重い。
正直、怖ぇ。
このまま全員が石になったらどうする。
次に描いた瞬間、俺が倒れたらどうする。
「チッ」
考えるな。止まるな。
「急ぐぞ。次は雪だ」
氷像の雪女の前に立つ。
「失敗はできねぇ」
「でもな、ちょっと寒ぃな」
氷は透き通っている。
表情は苦しげだ。
月光が二つ映り込んでいる。
森がやけに静かだ。
「寒いのは、お前の方か」
俺は、妖怪ブックを開く。
《氷像化:雪女》
《適応率:0%》
《存在固定》
《再記述可能》
《必要魔力:極大》
指先が震える。
俺は指先で描く。
描くのは姿のみ。
触れると、意図に合わせて線が走る。
髪の流れを少し変える。
氷の質感を調整していく。
月光を受ける形に描く。
能力は一切考えない。
俺が描くのは、あくまでも
知っている限り美しい雪女だ。
影が揺れる。
「ビビんなよ俺」
氷像にヒビが入る。
だが砕けない。
視界には文字が現れる。
《存在再構築》
ページの文字が歪む。
インクが勝手に動く。
俺の線を潰そうとする。
別の形に塗り替えようとしている。
違う。
それは俺の雪じゃない。
世界が、奪いに来ている。
「勝手に触るな」
指先に鋭い痛みが走る。
氷が皮膚の内側まで入り込むような感覚。
一瞬、雪女の顔が“知らない形”に変わった。
瞳が割れた氷のように細くなる。
違う。
それは俺の知っている雪じゃない。
「戻れ」
俺の前から、消えるな。
描けば戻る。
それしかねぇんだよ。
線が、途切れた。
氷の中の顔が、一瞬だけ歪む。
知らない表情になる。
――違う。
それは俺の雪じゃない。
指で擦り消す。
線を引き直す。
俺は姿しか描かない。
能力も、性質も、いらない。
形だけだ。
形が定まれば、世界は拒めない。
月光が強まる。
ページが軋む。ぬりかべが震える。
霜が広がる。
零の指先が白く凍る。
指先の感覚が消える。
凍っているのに、痛くない。
これ、戻るよな?
いや、びびんなよ俺。
関係ねぇ。
戻らなくても、描く。
氷の奥が揺れる。
呼吸はない。
鼓動もない。
なのに、そこに“いる”感覚だけがある。
俺の線を、向こうがなぞる。
戻れ。置いていくな。
――パキッ。
それは割れる音じゃない。
「やり直し」の音だ。
氷の中の瞳が、先に開いた。
氷は溶けない。
内側から光る。
霧に変わる。
月光が濃くなる。
雪女が霧の中から、すっと立つ。
「零さま」
……呼吸が戻る。
さっきまで、なかったはずのものだ。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃにほどける。
――戻った。
本当に、戻った。
思わず、一歩踏み出しかける。
触れて、確かめたくなる。
だが――止めた。
ここで崩れたら、次が描けねぇ。
侵食だろうが禁忌だろうが関係ねぇ。
消えなかった。
それで十分だ。
「動けるか」
「はい」
そして、淡々と付け足した。
「冷房部、再開します」
「部活にするな」
「では委員会に」
「好きだよな、そういうの。ほどほどにな?」
「はい。零さまのご迷惑にならない範囲で」
霜が静かに広がる。
俺の眼を見つめわずかに目尻を下げて笑む。
描いたとおりに現れた。
髪が月光色に変化。
瞳が淡く青白く発光。
足元に霜が広がる。
吐息が白い霧になる。
ここで表示が更新された。
《適応率:全完了》
《妖怪領域:発生》
妖怪領域だと?
雪が“成立”した瞬間、空気が軋んだ。
だが、終わりじゃねぇ。
胸の奥が、じわりと焼ける。
呼吸が一瞬だけ重くなる。
視界の端が、白くかすんだ。
「チッ」
本のページの端が、黒く焦げている。
俺の描いた線の一部が、わずかに欠けていた。
魔力を持っていかれたんじゃない。
“削られた”感覚だ。
寿命、とは違う。
だが、何かが確実に減った。
雪女が俺の顔を覗き込む。
「零さま、少し顔色が」
「問題ねぇ。成功だ」
強がりだ。
だが今はそれでいい。
草が凍る。
だが枯れない。
根まで届かない。
森の空気が変わる。
ここだけ夜が濃い。
これが、領域か。
月光が歪む。
空気が震える。
夜が、濃くなる。
俺の足元の影が、少し長くなる。
森の外は、普通の夜。
だがこの一角だけ、温度も音も違う。
ぬりかべの輪郭が、よりはっきりした。
雪が成立した分、この森は俺たち側だ。
「雪……」
「零さま……」
その綺麗さ、相変わらず反則だろ。
雪は、何事も無かったかのように立ち尽くす。
不意に右腕を森の方へ向けた。
兵士の叫ぶ声がした。
「クソったれが! まだいやがったか! 魔獣め」
逃げ遅れた兵が襲う。
雪女が俺の前に立つ。
足元から霜が広がる。
兵の足が凍る。
剣が霜に覆われる。
呼吸が止まる。
兵士は驚きのあまり言葉にならない。
「な……動け……」
完全凍結。
粉砕はしない。
静かに終わる。
俺は雪を成立させただけだ。
それだけで世界が揺れた。
雪女が膝をつく。
「零さま」
「寒くはありません」
「この世界でも、私はあなたの隣にいます」
俺は思わず手を差し伸べた。
「ちゃんと立てるか」
一つ書き直すたびに、世界が傾くのか。
妖怪ブックに新表示がされた。
《妖怪領域拡張:進行中》
《次の再記述候補:河童》
「水が足りないって言ってたな」
氷像のままの河童を見る。
削れるのが世界か俺かは知らねぇ。
折れるまで塗り替える。
「順番に、書き直す」
この世界で生きられる形にする。
全部な。
――全部書き直したら、俺はどうなる。
まあ、関係ねぇ。
この世界に――
百鬼夜行を成立させる。
妖怪が“存在できる場所”を作る。
それができなきゃ、全員また消える。
だったらやることは一つだ。
この世界を、塗り替える。




