18話
地下本拠地。
雪の席が空いている。
霧は肩を落として沈んでいる。
水盤は静かだ。
雪はこのままでは、戻らない。
今はまだ言葉にしない。
言えば現実になっちまいそうで怖い。
指が白くなるほど握りしめた拳を向ける相手はまだいない。
凛はまだ起き上がれない。
当然だ。
あの聖槍を腹に受けた。
重症でもここまで回復していること自体が奇跡だ。
角の包帯が痛々しい。
焔は歯を食いしばる。
「お頭今すぐ追いますか」
俺は自分でも驚くほど低い声だった。
「待て」
無理だ。
今の戦力では、敵の懐に飛び込むには危険すぎる。
手負いの兵たちばかり。
牛鬼とぬらりひょんで攻めれば……
いや、ダメだ。
関係の無い住民も巻き込まれる。
牛鬼は妖怪以外はすべて殲滅しちまう。
牛鬼は破壊の専門家だ。
町へ突っ込めば
市民ごと消し飛ぶ。
ぬらりひょんはいいが、遠くから射抜かれたら終わりだ。
ぬりかべは防衛特化。
クソッ!
俺たちは“戦争”ができない。
正面からぶつかれば、勝てるかもしれねぇ。
だがそれは、こっちが“壊れていい”場合だ。
今は違う。
守るものがある。
拠点がある。
夜市も、住民も、全部巻き込む。
一度でも外で暴れれば、
この森はただの“危険地帯”に戻る。
それで終わりだ。
俺たちは、ここで積み上げたものを
自分の手で壊すことになる。
……それだけは、ありえねぇ。
俺は一人になる。
作戦室。
拳を机に打ち付ける。
痛み。
だがそれだけ。
俺は何もできない。
雪がいれば。
雪がいれば。
ああ、俺。
いつの間にか雪に頼り切っていたんだな。
最初から、そうだったかもしれねぇ。
あいつが前に出て、
あいつが環境を整えて、
あいつが全部、支えていた。
俺はその上で、描いていただけだ。
成立させて、回して、
“できている気になっていた”。
笑えねぇな。
支えてるつもりで、
支えられていたのは俺の方か。
……気づくのが遅すぎる。
ユイがそっと俺に寄り添う。
「零さま。私を使ってください」
「ダメだ。お前を単騎でなど、今は危険すぎる」
「私は零さまのためなら命も惜しくございません」
「生きろ。俺だけのためでなくな」
「お前も失いたくない内の一人だ」
「零さま……」
「今はここにいろ」
「はい、零さま」
百目はこれまで近場を見て来た。
俺たちも相手のことを知る必要がある。
今さらながら、気づかされた。
百目を移動させ塔がよく見える位置まで複数を配置。
鳥の如く移動する。
南の町。
白い塔。
人の出入り。
雪らしき影は見えない。
さらに、この場所から別の場所へ連れ去られた可能性は低い。
もし動かすなら護送となるだろうからな。
それに、殺すならその場だ。
それをしないとなると、連れ帰った。
目的は尋問。
時間はある。
だが猶予はない。
妖怪ブックを開く。
空白。
いつも通り、指を添える。
指先が震える。
初めて恐怖を思いに込めて、明確に書く。
これを描けば、戻れない。
絶対にだ。
削れる未来が見える。
いや、それしか見えない。
力を得るということは、失う物が多い。
感情が薄れる自分。
人間性が削れる自分。
孤独になる未来。
それでも、俺は――
止まれば、終わる。
それだけは分かっている。
だが――
この先に進めば、
今までの俺ではいられない。
何かが欠ける。
何かが戻らない。
そんな感覚が、はっきりある。
それでも選ぶのか。
選べるのか。
ああ馬鹿だな俺は。
何で迷ってんだ。
俺の大事な雪だぞ。
……選ぶ選ばない、そんなんじゃねぇ。
もう、奪われた後だ。
守るかどうかじゃねぇ。
取り返すか、終わるかだ。
それに、
守るだけじゃ、足りねぇ。
……来させない形にするしかねぇか。
そうしなきゃ、意味がねぇ。
雪の声を思い出す。
「それは零さまを削ります」
俺は静かに返した。
「知っている」
そう、だからこそ――腹は決まった。
呼吸が、浅くなる。
肺がうまく動かない。
いや、違う。
吸っているのに、
満たされない。
足りない。
何かが。
俺の中で、
もう一つの“呼吸”が始まっている。
――異物。
分かる。
これは外から来た力じゃねぇ。
俺の中に、
元からあったものだ。
見ないようにしていたもの。
触れないようにしていたもの。
それが今、
浮き上がってきている。
犬神。
こいつは、
ただの妖怪じゃない。
“食う側”だ。
理屈じゃない。
本能で理解する。
喰う。
壊す。
奪う。
それだけの存在。
……相性が良すぎる。
だから、危ねぇ。
俺の中の、
一番触れちゃいけねぇ部分と、
噛み合ってやがる。
一歩間違えれば――
俺が俺じゃなくなる。
静かに、息を吐く。
怖いか?
ああ、怖ぇよ。
当たり前だ。
戻れねぇかもしれない。
今までの俺が、
全部消えるかもしれない。
笑えなくなるかもしれない。
あいつらと、
今みたいに話せなくなるかもしれない。
……それでも。
雪がいない夜域なんて、
意味がねぇ。
守るってのは、
形を守ることじゃない。
中身だ。
そこにいる奴らだ。
一人でも欠けたら、
それはもう、
同じ場所じゃねぇ。
拳を握る。
震えは止まらない。
止める必要もない。
これは恐怖だ。
ちゃんと理解している証拠だ。
だったらいい。
理解したまま、
踏み込む。
逃げねぇ。
目を逸らさねぇ。
全部分かった上で、
使う。
低く、呟く。
「……使い潰す」
俺がじゃない。
こいつをだ。
俺が主だ。
道具にされるんじゃねぇ。
使う側だ。
そのためなら、
いくらでも削れる。
人間性?
感情?
上等だ。
必要なら捨てる。
全部終わった後で、
取り戻せばいい。
――取り戻せなかったら?
その時は、
その時だ。
今考えることじゃねぇ。
今やることは一つだ。
取り返す。
それだけだ。
視線を落とす。
妖怪ブック。
白いページ。
まだ何も描かれていない。
けど、
もう決まっている。
迷いは消えた。
残っているのは、
描くか、やるかだ。
ゆっくりと、
指を置く。
冷たい。
紙じゃない。
これはもう、
“入口”だ。
俺は、静かに言う。
「七だ」
ここは断言。
迷いを切る。
指が止まる。
ここから先は、戻れない。
削れるどころじゃない。
それでも――
指が紙の上を走る。
ページに黒が広がる。
墨ではない。
影。
床が冷える。
空気が重くなる。
俺の足元から黒が這い上がる。
鎧が形成される。
装甲が噛み合う音。
呼吸が低くなる。
視界がわずかに赤みを帯びる。
内側から声なき衝動。
感覚が変わる。
音が遠い。
鼓動だけがやけに近い。
体が軽いのに、重い。
境界が曖昧になる。
どこまでが俺で、
どこからが“こいつ”だ。
……混ざるな。
俺が主だ。
これは道具だ。
飲まれるな。
噛みつけ。
殺せ。
押さえ込む。
俺が主だ。
《第七妖階 犬神顕現》
完全装着。
静止。
一歩。
地面が沈む。




