第十四話 共鳴
暑さがだんだん弱まる八月下旬。天気が荒れて、大雨が降っている。今日もいつも通り営業しているが、雨の日は少しだけ気分が憂鬱になるだろう。
記憶の書を返しに、あの白い塔の中にシオンはいた。
「……これで、最後。」
最後の一冊を本棚に戻して、螺旋階段を下りる。
その時ふと、視界の端でなにかが動いた。ここには記憶の管理者以外立ち入り禁止というよりも、入ることができない構造だ。シオンの視線はすぐにそちらに向く。
「……何でしょうか。」
目を細めてそちらを向くと、何かがいた。確実に。シオンはそれを追うように、階段を下りていく。疲れ切ったからだとは思えないほど俊敏に動く。カツカツカツと、自分の靴の音が鳴り響く。一人きりの空間でそれだけが確かに聞こえた。
シオンは好奇心に突き動かされているのだと感じた。ようやく一階に躍り出ると、生き物が目の前にいた。大きさは手のひらよりも一回り小さく、光り輝いている。白い光の粒がふわりと舞い上がり、その場でじっとしていた。中心に、小さな影が形を成す。
蝶だった。
あの、追憶蝶だ。
なぜ、ここにいるのだろうか。
シオンは静かに話しかける。追憶蝶には意思があるのだ。魂の記憶として。
「こんにちは。貴方のお名前は?」
遠くで雨の音が聞こえてくる。あたりはただただ静かだった。シオンの呼吸と、蝶の羽ばたく小さな音が溶けていく。
返事はない、こちらをじっと見ているだけだ。シオンは首をかしげる。
「……ああ、なるほど。声が出ないのですね。こちらに来てください。」
シオンは先導するようにある場所に向かった。
着いたのは、大きな石板のあるスペース。シオンが軽く休めるような簡易ベッドや机、いすが置かれている。その石板の前に立つと、シオンが手袋をしたまま触れた。
すると、文章が浮き出てくる。
<ここに、触れると声がなくとも会話ができます。試してみてください。>
そのメッセージを追憶蝶はじっと見ていた。そして、ゆっくりと近くにやって来る。
コツンとぶつかった。
次の瞬間、そのメッセージはガラッと変わる。
<こんにちは>
それは、短い挨拶だった。シオンは一瞬言葉に詰まったがコクリと頷く。
「こんにちは。お名前を聞いてもよろしいですか?」
再度尋ねると追憶蝶は石板にぶつかった。
触れるだけでいいのだが……とシオンは思いつつ様子を見る。そこには、また短い文で書かれていた。
しかし、シオンは石板の文字を見て目を見開く。
<わからない。>
「わからない……?他には何かわかりますか?」
また、追憶蝶はコツンと石板にぶつかった。
〈いや……わからない。〉
シオンは見間違いではないかと近づくも、変わらない。
わからない。
自分のことが、まったく。
シオンは深く深呼吸をして追憶蝶に尋ねる。
「……ちなみに、生死は理解しておりますか?ああ、答えるときは近づくだけで大丈夫ですよ。」
流石にアドバイスをしたようだ。
追憶蝶はそっと触れた。
<わからない。なにも、わからない。気づいたらここにいた。>
混乱している。シオンも目を伏せた。
こんな事態初めてだ。
シオンは自分だけでは判断が難しいと思い、あのゲートを抜けて使用人に会いに行く。もちろん、追憶蝶はおとなしくついてきていた。
「追憶蝶は本来、記憶の書が存在しない限り出現しない……記憶がないということは中身に異常があるのかもしれませんね。」
シオンが淡々と憶測を話している。それを追憶蝶が静かに聞く。妙な空気がそこに漂っていた。
それを遠目で確認した人物がいる。箒を片手に掃除していたが、驚きのあまり手から滑り落とす。カランという乾いた音が廊下に響いた。
「シオン様……?」
その人物は赤髪の使用人、アイカだ。
シオンはそれに気づくと、振り返る。どこか安堵のような紫色の瞳をこちらに向けた。
「アイカさん!」
シオンが駆け寄ってきた。アイカは落とした箒を拾いつつ、追憶蝶を目で追う。
「シオン様、そちらの追憶蝶はどうしたんですか?そもそも、自然に外に出ているのもおかしいのですけれど……。」
不安そうにそう尋ねると、シオンは蝶に自分の手を近づけた。それに気づいたのかそっとシオンの手に乗る。
シオンは蝶を見つめながら、ぽつりと伝えた。
「この追憶蝶、記憶がないみたいです。」
アイカはシオンの声を聞いて、口を開こうとしたが言葉にならなかった。
記憶が……ない?
アイカは、動揺を見せる。
「記憶が……ない……ですか。」
シオンの言葉をオウム返ししてしまう。それほど、普段冷静沈着の彼女を困惑させている。
シオンは追憶蝶に小さく微笑みながら小さくいった。
「私と、同じです。気づいたらそこにいた……と。」
アイカは目を丸くする。張り付けていた小さな笑みがすうっと消えた。
外の雨はより激しさを増して降り注いでいる。遠くで雷もなっていた。
「記憶喪失……。」
こんなことは、千年という長い歴史の中で一度もなかったようだ。もちろん、記憶の管理者本人が記憶喪失というのも初めてだったのだが。
数分が過ぎたことで、アイカは少しずつ落ち着いてきたらしい。顎に手を当てて考える。
「まず、本来の場合、追憶蝶は記憶の書から出てはいけません。なので、本人の記憶の書を探しそこに帰ってもらうのがしきたりです。」
アイカがそういうと、シオンはコクリとうなずく。ここまでは記憶の管理者になる上でのマニュアル本に載っている。ただ、ここからが問題だ。
「覚えていないとなりますと、記憶の書に異常があるのか、あるいは“まだ生きている本人”に何かが起きているのか……。ただ、詳しいことは私たち使用人にもわかりません。」
アイカがそう伝えると、シオンは困ったように眉をひそめた。
「では、この子はどうするのですか?」
シオンの弱弱しい声が廊下に落ちる。アイカはそれにすぐには答えることができなかった。
使用人から記憶の管理者としての役割が伝えられる。
その使用人がわからないというなら、答えは一つだ。
上に報告する。
アイカは覚悟を決めてシオンの目を見ていった。
「記憶の神ニウム様に一度聞いてまいります。それまでは、お客様の目に見えぬところでなにか手掛かりがないかを探していただけないでしょうか?」
シオンは記憶の神ニウムの名を聞いて瞬きの数を増やす。そんなに大ごとなのだろうかと。……だが、この追憶蝶のためにと「わかりました。」といい、踵を返した。
追憶蝶はこちらをちらりと向き、また前を向く。おとなしくついていく。
まるで、運命にあらがうことを知らないかのように。
二人の、いやシオンと一匹の蝶の背中を見てアイカは胸に手を当てる。
「……まさか、こんなことになるとは。」
懐から水晶を取り出した。
そして、どこかへ連絡をする。淡い、淡い、紫色の光が彼女を包み込んだ。
外は相変わらず雨が降り続け、中でなにかが変わろうとしているのを、空がじっと見ている。
また、遠くで雷が鳴った。
明日は、キュラ・スラナ君の誕生日!
たくさんの方がお祝いしてくれると嬉しいです!




