第71話 名も聞かれず、覚えられる
連続投稿です。
70話からお読みください。
昼過ぎ。
溝の水は、
もう澱んでいなかった。
だが――
誰も気にしない。
それでいい。
仕事というのは、
そういうものだ。
町を歩く。
昼の人通りは、
朝より雑だ。
仕事を終えた者。
これから始める者。
どちらでもない者。
(……昼は、油断しやすい)
人の距離が近い。
視線が甘い。
だから――
逆に、注意する。
ギルドの前を通る。
掲示板は、
少しだけ減っていた。
下段の紙が、
目に入る。
「配達/町内/一件 銅貨一」
(……軽いな)
だが――
距離と時間が分からない。
今は、
選ばない。
受付の女が、
ちらりとこちらを見た。
目が合う。
何も言わない。
だが――
逸らされなかった。
(……覚えられたか)
それだけで、
十分だ。
通りを外れる。
商店の裏。
荷を運ぶ男たちの声。
「……あれ、昨日の」
小さな声。
振り向かない。
振り向けば、
“関係”が生まれる。
今は、
まだいらない。
町の端で、
腰を下ろす。
水を、
一口。
保存食を、
半分。
(……今日の分は、
足りる)
袋の中を、
確かめる。
銅貨は――
確実に増えている。
数じゃない。
「減らさずに済んだ」
という事実が、
大きい。
夕方。
影が、
また長くなる。
町の空気が、
少しだけ荒れる。
(……夜は、
まだ早い)
今日は、
無理をしない。
馬屋の近くへ戻る。
同じ場所。
同じ壁。
だが――
昨日より、
少しだけ落ち着く。
(……場所を、
覚えた)
それだけで、
生存率は上がる。
通りの向こうで、
小さな口論。
関わらない。
見ない。
聞こえなかったことにする。
(……選ばないのも、
判断だ)
日が沈む。
空が、
橙から紺へ変わる。
町オーレムの夜が、
また始まる。
十歳の少年は、
知った。
名を呼ばれなくても、
顔を覚えられることがある。
それは――
信用でも、
期待でもない。
「逃げない子ども」
という、
静かな認識だ。
それで、
今は十分だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
小さな選択の積み重ねを意識して書いています。
何か感じた点があれば、感想で教えていただけると嬉しいです。




