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第9話 はじめての言葉、はじめての他人

連続投稿です。

8話からお読みください。


言葉は、突然出てきた。


「……と」


意味のない音。

意図もない、ただの呼気。


――のはずだった。


家の中の空気が、一瞬で変わる。


「……今、なんて?」


母の手が止まった。

父も、ゆっくりとこちらを見る。


(……しまったな)


前世の感覚が、

ほんの一瞬、前に出すぎた。


「……と」


もう一度。

今度は、少しだけ意識して。


母は口元を押さえ、

次の瞬間、目を潤ませた。


「……しゃべった」


父は、照れたように頭を掻く。


「……少し、早くないか?」


(早い。確かに)


だが、異常ではない。

“少し早い”程度だ。


それだけは、意識している。


その日から、

言葉は、ほんの少しずつ増えた。


「かあ」

「とお」


それだけで、

二人は驚くほど喜んだ。


(……喜ばせる、か)


前世では、

誰かの笑顔よりも、

己の鍛錬を優先していた。


だが今世では、

この家の中の空気が、

確かに力になる。


ある日、

母に抱かれて、村の井戸へ向かった。


外の世界。

知らない声。

知らない匂い。


「まあ、可愛いわね」


村の女たちが集まっている。


「あの家の子?」


「目が、しっかりしてるわ」


視線が集まる。


(……観察、か)


だが、前世のそれとは違う。

敵意も、評価もない。


ただの、好奇心。


「お名前は?」


その問いに、

母は一瞬だけ、言葉を選んだ。


「……この子は、トアです」


名を呼ばれる。


それだけで、

自分が“この村の中にいる”と感じた。


「……と、あ」


わしは、

その音を、ゆっくり真似る。


村人たちが、どっと笑った。


「今の、名前?」


「賢い子ねえ」


(……やりすぎたな)


母は、少し誇らしげで、

それと同時に、どこか不安そうだった。


帰り道、

母はわしを胸に抱いたまま、

小さく話しかける。


「トアはね……」


理解していない前提の声。

それでも、とても優しい。


「元気でいてくれたら、それでいいの」


(……分かっておる)


その言葉は、

胸の奥に、静かに残った。


夜。

家族が眠った後、

わしは今日を振り返る。


言葉を持つということは、

世界と、直接つながるということだ。


(……慎重に行こう)


目立たず。

だが、閉じこもらず。


力は、まだ内に。

言葉は、少しずつ外へ。


辺境の村で、

名を与えられたばかりの幼子は、

初めて“他人”と触れ合った。


それは、

未来へ続く、確かな一歩だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

小さな選択の積み重ねを意識して書いています。

何か感じた点があれば、感想で教えていただけると嬉しいです。

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