蟲
特定の宗教・信仰に関する独自の解釈にもとづくストーリー進行が含まれます。
九割が喋っているだけの回なので、どうやったら面白く出来るか悩んでいるうちにかなり時間を食ってしまいました。ごちそうさま。
第3話『蟲』
陽士は堂の扉を後ろ手に閉めた。すると、外界からの光を失った真っ暗闇のなかに、ふたつの赤光が揺らめいた。童の両脇で燭台に火が点ったのだ。だが童自身は寸分たりとも動いていない。
「ぬしの力に比べれば児戯のようなものだ。恐るるに足らん」
固まっている陽士の心を読んだかのように童は告げた。
「あいにく茶も座布団もないが、寛いでくれ」
陽士のそれよりずっと小さい手が床を示す。その肌も、燭灯の揺らめきを映し出しそうな白さだ。
「さて……」
陽士が床に胡座を掻いたところで、童はどうしたものかという様子で、頬と顎の境目も判然としないなめらかな輪郭に指をあてた。この幼児は何歳なのだろう、と陽士は訝る。
「吾はただの童ではない。齢はとうに忘れたが、少なくともぬしの百倍は上だ」
「ひゃく……?! いや、ちょっとまて……ッ!」
童の告げた年齢に驚く以上に、こちらの考えを読み通したかのような物言いに陽士は慄き、眦を吊り上げる。
「頭を覗かれたと思うたか? 吾を目にした人の思うことなぞたいがい同じ。ことに、いまのような世の中ではな」
陽士は何も言い返せず、黙って次の言葉を待った。心が静まるにつれて、額の角も肌の奥へと沈み込んで、もとの小さな瘤へと戻っていた(もっとも、陽士には気付けぬほどの差で、それは僅かに嵩を増していたのだが)。
「では、ことを初めから話すのと、結論から話すの、どちらがよい?」
「……どっちでも」
「そうか。なら、ぬしを襲った奴のことから話そう。あれは《シキ》よ」
「しき?」
聞き慣れない言葉をオウム返しにするや、陽士は「あ」と声を上げた。童が手を真横に延ばすなり、その人差し指を燭灯に焼べたのだ。揺らめく火が爪先に燃え移る。だが童は熱がる様子を見せぬどころか、目の前の空間に文字を書くように、その指をさらりと舞わせてみせる。
否、それはまさに、指を筆に、火を墨にして書いたのだった。灯の軌跡が暗闇のなかに留まって、《尸鬼》の二文字をネオンのように陽士へと示している。
「人間の悪業、悪言、悪心、悪念……そういったものの顕現と思ってよい。まずはな」
曖昧な結びに陽士は眉根を顰める。だが、いちばんの疑問に比べれば、たいした問題ではないように思えた。
「じゃぁ、あいつも俺みたいに、人間だったのか」
自分が鬼になったように、昨日、自分が抹殺した鬼も、どこかの誰かがその悪の力とやらに取りこまれた姿だったのだろう。
そう、自分は……人──だったもの──を殺したのだ。
だが己の行為に対する陽士の戦慄は、童によって即座に否定された。
「そう急くな。吾はあれを顕現と言ったはず。決して〝人だったもの〟ではない」
陽士は目を円くして童を見つめた。
「人が成した悪、成そうとした悪、成してみたかった悪、悪と気付かず成した悪……そうしたものが天の〝理〟に消化されず、地の底に堕ちたまま幾百幾千年に渡って積み重なり、凝り固まり、膿み腐って生まれた、哀れな罪の化身よ」
詩を編むように訥々と語る童の眼が、揺らぐ仄明かりのなかで遠くを見るようにやんわりと細まる。
そこに垣間見える彼の感傷が、いまの陽士には自分を苛立たせるための演出に思えてくる。
「じゃ、俺は人なのに、その尸鬼になったってことか……?!」
陽士は声をやや荒らげて問うた。
「ぬしは尸鬼ではない――」
童の答えは陽士を安堵させるどころか、困惑を深くさせただけだった。
昨日の鬼と自分――嬉々として暴力に勤しんでいた――その両者のどこに違いがあるのか、陽士にはまったく判らない。
そして重ねて告げられた言葉に、陽士は思惟を止め、呼吸すら忘れた。
「尸鬼を滅ぼす宿命の者だ」
*
三尸という蟲がいる。これは人が生まれたときから体内に宿っており、それゆえに寄生虫と呼べなくもないが、俗人の眼には視えぬ霊的な蟲である。
三尸はふたつの役割を持っている。ひとつは宿主の悪行や悪心をつぶさに記録すること。そしていまひとつは、十干十二支で表される暦における庚申の夜に、宿主が眠っているさなかに体内から抜け出して、その罪を《天帝》に告げることである。
天帝とはすなわち、天の〝理〟の神格化である。そして三尸の報告を受けた〝理〟は罪の軽重に応じて、宿主の寿命を削り、あるいは不幸を得るよう罰を与える。
これが俗に言う〝自業自得〟……つまり〝悪にたいする報い〟のシステムである。
「ぬし、尸鬼が羽虫の群れになって天に昇ったのを見たな」
童の問いに陽士はうなずく。
「あれらが三尸だ。もっとも〝成れの果て〟に過ぎんから、ぬしのなかにおるのはもう少し姿形が違うがな」
なら……と陽士は考えを巡らせる。尸鬼の正体は三尸。そして童が〝群れ〟や〝あれら〟と呼んでいることから、一匹ではなく、その集合体が一体の尸鬼の姿を形作っているのだろう。
「生ある者は天帝によって、死した者は閻魔によって、人の業も念も、天地のはざまで循環しておった。そうある限りは、尸鬼が生まれることもなかった」
「それが狂ったのか?」
「大きく狂った時期があった」
「時期?」
「ぬし、《コウシンエ》を知っておるか?」
陽士は首を横に振った。すると、ふたたび童の指が燭灯から火を取って《庚申会》と記した。
庚申会とは中国の道教思想から始まった行事であり、日本へも平安の頃には伝来していたと考えられている。守庚申、庚申講とも呼ばれ、その名が示すとおり、庚申の日に行われる。遣り方は様々であるが、庚申の夜を寝ずに過ごすことが肝要であり、その手段として宮中においては宴や祭祀儀礼、民間にあっては地域全体での祭典、親族や仲間内での会合などが夜を徹して行われた。
その目的は、こうして庚申の夜に眠らぬことで、本来なら天へと昇るはずの三尸を体内に抑え込み、天帝の罰を受けることなく福と長寿を得るためである。
「早い話が、罪逃れよ」
庚申会は民衆のあいだに大いに流行しただけでなく、儀式としてよりも慣習として深く根付き、明治まではどこの地方でも一般的なものになっていたという。その理由が童の言い放った〝罪逃れ〟にあるとすれば、それももっともなことであるように陽士には感じられた。
祭りだイベントだと、騒ぎ立てられる理由があれば飛びつくのは、古今東西変わらぬ人の習性だ。それで天や神からのお咎めをも免れるとあらば尚のことである。人間は愚かで弱い。たとえ口には罪の告白を美徳とする者であっても、罰を免れえないと悟れば、さらなる罪を犯してでも保身を選ぶものだ。
「三尸が人の罪を天に告ぐるということを、人はまるで天の間者であるかのように忌み嫌い、封じ込めようとした。道教の行者のなかには、三尸こそが人の悪心の源と説いて、肉体より排そうとした者もいたほどだ」
そう言う童の語調は、幼げな見た目にはなお似つかわしくない、抑え込まれた苛立たしさを孕んでいた。
「ぬし、三尸が天に昇らぬことで、〝理〟に告げられることのなくなった人の〝悪〟は、やがてどうなると思う?」
唐突な謎かけに陽士は「え?」と言い淀みながらも、しばし考えた。
先だって、童は〝罪が天に消化される〟というようなことを言った。ならば、三尸が蓄えた人の罪は、天に報告されることで〝罰〟へと形をかえる――つまりは消えることになる。
「罪は天に昇らずに、その人のなかに溜まってゆく?」
まだ結論には至らぬまでも、口に出しながら思惟する陽士をさらにうながすように、童は「うんうん」と肯いてみせる。
「それで……その人は消化されない罪を抱えたまま、いつかは、死ぬ」
うん、とまた童は肯く。
「人が死んだとき、そのなかの三尸はどうなるんだ?」
「死ぬ」
「三尸も死ぬのか?」
「人の死とはやや異なる。役目を終えて〝理〟に還り、また別の人間のなかに転生する。例外もあるがな」
「例外?」
「還る前に祀り上げられて神霊となり、そのまま神仙に昇ったものもおる。で、三尸の溜め込んだ罪はどうなると思う?」
そうだった、と陽士は考えを元に戻す。童の口ぶりからして、三尸の例外とやらは本題とは関係ないらしい。三尸は人とともに死ぬ。なら、三尸に蓄えられた罪は天に昇らぬまま、三尸とも人とも切り離されて――――
「地に残り続ける?」
「然り」
童が深く、ゆっくりと肯いてみせた。
「でも、さっき死んだ者は閻魔に、って言ったよな?」
「言うた。たとえ庚申会を行わずとも、庚申の日より死するまでに宿主が悪徳を積むこともあろう。だが、そのていどであれば《天》と同じように、《地》が消化を引き受ける。《天帝》と同じように、地の〝理〟もまた古来より《閻魔》や《地獄》という形で呼び表されてきた」
「けれど……《庚申会》のせいで人の体内に溜め込まれていると、天に上げられないだけでなく、地でも受け止めきれない」
「然様」
幾年に渡って地の底に積み重なり、凝り固まり、膿み腐って生まれた、哀れな罪の化身――先だって童が尸鬼を指して述べた言葉に、陽士も合点がいった。
たとえば有毒な科学物質が散布され、あるいは破棄され続けるなかで、その成分は分解されぬまま土中に蓄積される。それと似たようなことが罪や悪といった、観念の存在にも起こり、行き場もなく、何年にもわたって濃縮され、ついには形を持つに至ったとしたら。
「それで……尸鬼が生まれた」
「是なり」
三尸と尸鬼が繋がったことよりも、陽士は自分の考えに対し、童がさきほどから肯定しどおしであることに気付き、訝しんだ。それは自分の理解が良いというよりは、まるで答えに誘導されているか、あるいは童の説こうとしていることを予め自分が悟っているかのようですらあった。不可思議な力を使うときに何の迷いもなくその効果を確信していたのと似ていた。自分のなかに童と同じ認識や価値観を持つ部分が隠されていて、断片的に意識へと昇ってきているとでもいうのだろうか。
「それで結局――――」
その疑念をひとまず打ち遣って、陽士は訊ねた。
「――お前は一体、何なんだ?」
指を突きつけるように視線をまっすぐに童へと向ける。
「それから、俺もだ。俺は……俺の体は、どうなってんだよ?!」
「うん」
陽士の鋭いまなざしをものともせず、童は鷹揚に頷いて、告げた。
「先だって、宿主とともに死することのなかった、三尸の例外の話をしたな」
「祀られてどうにか、ってやつか」
「吾が是なり」
さすがに、この童の言葉は陽士にもすぐには呑み込めなかった。昨日見た三尸の姿に、この幼児の容貌が直結しなかったのだ。
そんな陽士の困惑を見て取ったか、童は続けて述べた。
「おおよそ五百年幾ばくか前のことか、吾は御仏よりの請願を承って、ひとりの人間より別け放たれ、加護をいただいて仙界に昇り、修練を重ねてのち、いままた下天し、このような姿でここにいる」
童の言葉は、その不思議な力や、鬼の実在を目の当たりにしていてなお、俄には信じがたい内容だった。陽士自身、彼との精神的な会話や、自分の身に起こった変化を経験していなければ、子供にしてはよく練った〝ごっこ遊び〟だと、この期に及んでもなお一蹴していたかも知れない。
「それで……それが俺にどう繋がるんだ?」
「信仰が盛んになるにつれ、人は庚申になぞらえた神仏を、行事にあわせて奉るようになった。たとえば仏教では強力な仏尊たる帝釈天、神道では庚申の申と結びつけて猿田彦神といった具合にな。これらは、人が庚申や三尸というものをどうしたいか、それらにどうあってほしいかという願望の表れでもある。帝釈天の法力は人の悪徳の根本たる煩悩を破壊するであろうし、猿田彦神は申という名で結びついているがゆえに、神威でもってこの厄日を吉日に変えてもくれよう」
勝手な話だな、と陽士は眉をしかめた。天に向かって己の罪を隠し、さらに神仏にまでその片棒を担がせる。それでは神の言葉や掟に従って戦争を引き起こす連中と大差ないのではないだろうか。
「だがこれらの神仏と同時に、人の願望はもっと直接的な力を持つ、庚申の日に相応しい偶像を新たに生み出した」
「生み出した? 神とか仏が、人の願いから生まれたってことか?」
「驚くことでもない。人を創ったは神にあらず、そも神仏という概念が人の文明とともに生まれ変遷してきた。それは人自身の智恵が証明しておろう」
「それは……そうだけど」
「ゆえに三尸という触媒はあれど、悪念が凝り固まって鬼と化したように、願望という念が凝り固まって神となることもあろう?」
陽士は黙り込んでしまった。言わんとすることは分かるが、どうも言いくるめられているような気がしてしまう。神仏の存在を信じているわけでもないが、納得しきれないがために否定も肯定もしかねる。それでも、とりあえずは理解したことにしないと、話が進みそうにない。
「直接的な力っていうのは?」
「三尸を直に押さえ込む力よ」
ぞくり……と、なにか目に見えない嫌な感触が、陽士の背を撫で上げた。
「おい。お前の話だと、三尸は悪い虫じゃなくて、むしろ天の〝理〟に通じているんだよな」
「然り」
「じゃぁ、その〝理〟に相反するような神を、人が創り出したってことか」
「然り。人はその尊格を、庚申の厄より己らを護る守護神としておおいに広め、こぞって崇め奉り、幾百年に渡ってその法力のもとで罪過を覆い隠してきた。それが天に弓を引き、地に禍根を蒔く行いとも知らずにな。あるいは気付いた者もおったが、そうであっても誰も彼もが子々孫々に祟る禍を憂うより、己が一代の福を取った……!」
陽士のなかに、波濤のような衝撃が湧き上がった。そして、その波は渇きかけた血のように粘ついていた。不快だった。あまりにも不快で、吐き気すら覚えた。燭灯の揺らめきが二重にも三重にもブレて、天地を失いそうになる。
それでも、いまの陽士が抱える怖気など、これから告げられる真実の前では、ほんの序の口に過ぎないのであった。
「これが庚申会の真相よ。そして、これら人の罪逃れの願望を背負って生み出された尊格の名を《青面金剛》という!」
ショウメンコンゴウ……人の罪を覆い隠すために生み出された神……いや、結局、それが一体、何だというのだ。
否、本当は、陽士自身のなかに既に答えはある。だが自分でそれを認められないのだ。
「だから、それが……オレに何の関係があるっていうんだ?!」
「まだ気付かぬか。先だっての吾が言葉を思い出せ」
先だっての童の言葉――陽士が尸鬼を滅ぼす宿命の者────
「なにより、尸鬼を前にしたときに得た力と姿、そしてぬし自身も感じたであろう荒ぶる闘心がその証左──」
スッと、音もなく童の腕が上がって、その食指が陽士の眉間を射貫くようにまっすぐ伸びる。
「すなわち加良陽士。ぬしこそ、《青面金剛》の顕現なのだ!」
陽士の天地が崩れ去った──少なくとも、本人にはそう感じられた。バラバラになった自己の世界の中心で、自分がたしかに父母から生まれた人間であるという確信と、己という存在に対する虚無とが互いの重さによって一ヶ所に凝集し、結合し、それを幾度も繰り返しながらブラックホールのごとき暗黒の心髄を創り上げる。
まったくの矛盾のようだが、自分が何かであると突きつけられた瞬間に、陽士のアイデンティティは形を失ったのである。
そして、その時、皮肉とも言うべき偶然が起こり、その余波が、陽士と童の脳裏を突き抜けた。
「こんなときに──ぬし待て!」
童が叫んだ瞬間、陽士は床を蹴っていた。背中で扉を破り、社の外へと飛び出す。向拝も階も飛び越えて空中で身をひるがえし、危なげもなく大地に着地した。普段の陽士にはまったく信じられぬ曲芸のような動きである。木の間の陽光に照らし出されたその右額からはすでに、青い角が天を突いて伸びていた。
熱い。体のなかでも心のなかでも炎が渦を巻いているようだ。その行き場を求めて陽士は走った。服の内側で骨肉が膨れ上がり、シャツのボタンが弾ける。ズボンの幅にはまだ余裕があったが、靴は早々に窮屈になったため飛び跳ねながら脱ぎ捨てた。靴下一枚で砂礫を踏みしめても、足裏にはまるで痛みを感じない。
何処へ行けばいいのか。そんなことは分からない──だが、知っていた。いるのだ。この足の趣く先に、自分が闘い、屠り、滅ぼすべきものが。
そして行く手の彼方、深い森の奥の奥から、木の間を貫いて、陽士を出迎えたものがあった。
断末魔の悲鳴だった。
十秒と経たず、陽士はその現場を視界に捉えた。
デコボコの斜面に突っ伏したスーツ姿の男と、男の背に右腕を突き立てた人ならざる巨体──髑髏にごく薄い肉付けをして赤く塗りつぶしたかのような威容と、その額から生える捻れた角。
尸鬼だ。童の口振りから察してはいたが、やはり昨日倒した一体だけではなかったのだ。だが、まだ闘いが終わらぬという事実に、いまの陽士は憤ったり怯んだりするどころか、逆に歓喜していた。
(死ね──!)
目視いちばん、高揚を孕んだ陽士の殺気が尸鬼を射貫いた。視えないレーザーが走ったかのように、異形の胸に小さな孔が空き、次の瞬間には破裂して直系三〇センチの範囲にある肉体を灼き消した。
──ギャァアア
尸鬼が弾けんばかりに顎を開いて咆吼する。それが苦痛なのか怒りなのか、陽士にはどうでもよかった。
(まだ生きているのか!)
敵の生命力に驚くどころか、我が意を得たりとばかりにニヤリと広角を捻じあげて尸鬼に肉薄する。
それを迎え撃つかのように、開かれた尸鬼の顎の奥から、ぐぼり、と嫌な音をあげて、何本もの〝手〟が伸びてきた。手は一見してヒトのもののようであったが、五メートルもの間合いを一気に横切って陽士の体を掴むや、一斉に爪を鋭く伸ばして制服を貫き、その裏の青い肌を突き刺してきた。
肉を破られる不快感に陽士は眉をしかめたが、すぐさま額に意識を集中し、力を放った。
たちまち、陽士の角から鋭い衝撃が拡散し、尸鬼を呑み込むや、全身を幾重にも切り刻んだ。
空気の刃であった。かまいたちのごとき真空の力の奔流は、強靱な尸鬼の肉体をいともたやすく切断し、サイコロステーキじみたバラバラの肉の欠片へと変えたのだ。
勝敗は完全に決した。だが陽士は地面に散らばった尸鬼の肉片に対して容赦なく拳を叩き付け、あるいは踏みつけた。いまだ消えぬ闘争の炎の行き場を求めるか、あるいは尸鬼の細胞の一片とて現世に残さぬとばかりに。
「あ……ぁ!」
ふと耳に届いた呻き声に陽士は首を巡らせ、尸鬼のことも己のことも忘れて、しばし呆然とした。
襲われていた男が力を振り絞って体を動かし、こちらを向いていた。血と土による無惨な化粧を施されてはいたが、その顔は間違いなく、山本と名乗ったあの刑事のものであった。
そして陽士が彼に気付いたように、慄きに見開かれた刑事の両眼もまた、《鬼》を屠った新たな青き《鬼》のなかに、聴取した少年の面影をたしかに見て取ったことを、雄弁に物語っていた。
「──急々如律令」
不意に声が割って入り、尸鬼の肉片が一斉に羽虫の群れとなって天に昇った。
陽士が驚いて声の方に首を巡らすと、斜面の上から童がこちらを見下ろし、両手の指で印を結んでいた。
(やっぱり、アイツが──)
昨日の尸鬼を消滅させたのもあの童だったのだ。
すると、陽士はまた、自分のなかの衝動が幻であったかのように霧散し、肉体がもとの姿へと縮んでゆくのを感じた。
「……助からん」
斜面から降りて刑事のもとに辿り着くや、童は冷徹に言い放った。
そのことに、陽士は悲嘆も怒りも感じなかった。傷を見れば素人でも分かる。
ただ、その直後に刑事が口にした言葉に、ハッとして瞼を開いた。
「……しょうめんこんごう、か」
血とともに弱々しく吐き出された声は、たしかにそう言った。
「さもありなん。ここらでは、とくに庚申会が盛んだった。ぬしの親の世代にも話くらいは伝わっておろう。どれ、言い残すことあらば少し力を貸すぞ」
童は刑事のそばに屈み込み、額に手を当てた。
「つ……」
陽士の額が小さく疼き、外からの意識が入り込んでくる。
鬼の実在に対する驚きと、陽士の言葉を信じなかったことへの謝罪。自らの命が絶えることへの恐怖と慟哭。現世への未練。
山本刑事の思いだ、と陽士にはすぐに分かった。
そして彼の心は、最後にこう告げた。
──その力で、どうかみんなを守ってほしい。
「知るかよ」
陽士は一蹴した。大事な人の遺言ならいざ知らず、今日あったばかりで、何の義理もない赤の他人に正義のヒーロー呼ばわりされて肯けるほど、自分はお人好しではない。そもそも、この村も、人間そのものすら、どうなろうと自分の知ったことではないのだ。
「死んだか。末期の者へ送るには慈悲ない言葉よな」
「どいつもこいつも勝手だ」
「まこと、天も地も人も、何ひとつ意のままにならん。自ずから動かざれば、己が身すら然り」
「また説教か……!」
奥歯を軋らせて、陽士は今にも飛び掛からんばかりに童を睨みつける。だが、この忌々しい童顔の妖異相手には、尸鬼に感じたような猛り狂う衝動がまるで湧いてこない。
「状況を説いているだけだ。逃げるぞ」
陽士が「は?」と返事をするよりも先に────
「だれかいるのかー?! 無事かー?!」
木々の向こうから、いくつもの声と足音が聞こえてきた。山を警戒していた警官達のようだ。
「ほれ」
どっ、と陽士の胸に、童がどこからか取り出した靴が放って寄越された。道中で脱ぎ捨てたものだ。
「こっちだ」
慌てて靴を履き直した陽士に背を向けて、童は山を駆け上がってゆく。その背を追って陽士もまた走った。
気配を消し、足音を殺し、両脚に力を漲らせる。角を生やすことにも、もはや何の抵抗も感じなくなっていた。
作中に言及される《三尸》《庚申会》《青面金剛》をふくむ《庚申信仰》は実在の信仰ですが、解釈は本作独自のものです。




