聲
ずいぶんと更新に時間がかかってしまいました。
何を何処まで描くか悩みながら書いています。
ひょっとしたら当初の予定より数話、長くなるかも……
第2話『聲』
(いいかげんにしてくれよ……)
倦怠と焦躁のはざまで陽士は沈黙していた。
校長室の一角を占める応接セット。摩耗の目立つ合成革に煙草の匂いを深々と擦り込まれたソファは、少しでも身じろぎしようものなら、すすり泣くような音色で老いたスプリングを軋ませ、陽士の行儀の乱れを室内の者達に通告する。
ここに来るのは編入時の挨拶以来、二度目だ。だが今日、ローテーブルを挟んで陽士と対面しているのは校長でも、他の教諭でもない。否、彼らもいるにはいるのだが、この部屋の主である前者は、ソファからは覗えない衝立の向こうで専用の事務机につき、業務に追われるフリをしながら耳をそばだてていた。後者は体育担当と生活指導を兼ねる男性教諭がひとり、ソファの横にたたずんで自体を静観している──というより、こちらの退路を断っているようにしか陽士には見えなかった。
「そろそろ、話してくれないかな?」
陽士の向かいに座った第三の男が穏やかな声で、この面談が始まってから幾度となく繰り返された問いを、今いちど投げかけてくる。
(話せるもんかよ……)
男に訊ねられるたびに、陽士の意識もまた、昨夕から今朝にかけての記憶のなかへとトリップする。
⏪
山から逃げ出したのを最後、陽士はタイル張りの床にへたり込んで熱いシャワーを浴びているところで我に返った。一瞬の混乱があってすぐ、そこがほんの半月前から新たな住まいとなっている祖父母の家の風呂場であることに思い至って安堵する。だが、どのくらいの時間、こうしていたのかは思い出せなかった。血は洗い流せたように見えるが、裸身のいたるところがヒリついていた。そうとう念入りに肌を擦り続けていたらしく、タオルを握りしめた右手の指はすっかり強張って、左手でこじ開けねばならぬほどだった。
服はどうしただろうか……それも無意識のうちに洗ったのだろうか……と不安になって風呂場から出るや脱衣場の洗濯機を覗いたが、槽の中はからっぽだった。
「ズボンだったら──」
唐突な背後の声に、陽士は息を呑んでビクついた。
「──干しといたよ」
廊下を通りかかった祖母だった。手にした笊には庭の菜園で穫れたトマトやナスが並んでいる。今日の晩飯の具材だろう。
「それよか、上着とカッターが捨ててあったけど、なんかあったのかい?」
どきり、と、ぞくり、が同居して、後ろめたさに怖気立つという奇妙な感情が陽士の心を震わせる。さっきあったことを包み隠さず話そうか。やめておけ、信じてくれるはずがない。
「……帰ってくるときに、土手で転んで」
結局、苦しいものになると分かっていながら、噓をついた。上衣の不自然な破れ方といい、対してズボンは汚れるだけで済んだことといい、怪しまれないのがおかしいくらいのような拙さだ。
「そりゃぁまぁ。お前、怪我はなかったんか?」
「うん、大丈夫……」
「なら、いいんだけどね」
そう言い残して、祖母は台所のほうへ去っていった。含みのある語末が気がかりではありつつも、たとえ御座形にせよ煩が過ぎたことに陽士はひとまず胸を撫でおろし、髪を乾かそうと洗面台に向かった。だが頭にドライヤーの風を当てた瞬間、陽士の安堵は新たな不安に蝕まれた。
右額の痣が、大きくなっていた。これまでも悪目立ちはしたが、あくまで額のなかの小さな孤島に過ぎなかったものが、いまはその陸地を拡げて眉の上端に触れていた。そして、その青い島の中央でささやかに頭頂を覗かせる丘こそ、あの小さな瘤だった。
鬼の姿に変じたとき、そこから爆発的に広がってきた衝撃と、痣に支配されたかのような青灰の肌とが陽士の脳裏に甦り、角と痣には関連があるのだという確信を嫌でも引きずり出す。
その一方で、肝心の〝自分に何が起こっているのか〟は皆目見当もつかない。山で目の当たりにした恐怖と惨劇が、呪いのように、まだこの身に纏わり付いているようだった。
それでも、陽士が錯乱することはもうなかった。疑念と不安の一方で、「どうでもいい」という諦観が、ふたたび心を占めはじめていた。
じつのところその諦観は、楽観への逃避に過ぎなかった。もう終わったんだ。考えないようにしよう。そうすれば明日にはまた何でもない日常に戻る。今までも、そうやって一日一日をリセットしながら生きてきたのだから。
ゆえに、仕事から帰ってきた祖父も加えた三人で食卓を囲み、自室の布団に入って眠りにつくまで〝何事もなかったかのように〟振る舞うことは、陽士にとって何の苦役でもなかった。
だが真実を告げるならば、帰りうる日常など、もう何処にもなかった。そして陽士自身もまた、翌日の朝食の席で、早くもそのことに気付かされたのだった。
その朝、居間に祖父が現れたのは、陽士と祖母が朝餉に箸を付け始めていくばくか経った頃だった。
「今日は遅かったんだね」
祖母がいそいそと食堂へ向かい、祖父のぶんの膳を用意する。祖父は早朝の散歩を日課にしているのだが、食前には帰ってくるのが常だった。
「山のほうが騒がしくてなぁ」
彼の第一声に、陽士の箸を持つ手が一瞬、止まった。
「またパトカーがえらい来とって、いつもの道が塞がれとった」
「そういえば、さっき救急車の音も聞こえたねぇ」
「また誰か、やられたんだろうな」
「怖いねぇ。例の熊かねぇ」
「ありゃぁ、熊なもんかい」
数日前の女性の変死事件が熊による獣害だという公式発表の信憑性に対しては村内でも訝しむ声が多く上がっており、そのことは学内の雑談や近隣の井戸端会議を通して陽士も把握していた。なにせ、とうの獣が目撃されていないのだから当然である。長年村に住んでいる祖父も、この風聞に異論はないらしい。だが、このときの言いようには、それ以上の確信が──まるで犯人に心当たりがあるとでも言いたげな音色が──籠められているように、陽士には感じられた。
直截に述べるなら、陽士には祖父が言外にこう告げているように聞こえたのだ──お前の正体を知っているぞ、と。
無論、昨夕の上級生らを手に掛けたのは陽士ではないし、最初の女性にいたっては、その現場を見てすらいない。だが鬼に変じた自分を思い出すたび、彼らの命脈を絶ったのは自分だ、という妄念が、想像の域を破って否応なく陽士の記憶に牙を突き立て、纏わり付いて離れなくなる。
それでも、ひそかな動揺を祖父母に気取られることなく、陽士は食を終え、学校指定のYシャツに袖を通して家を出ることに成功した。学ランについては祖母が「繕おうか」と言ってくれたが、陽士は断った。もともと新品ではなく、転校時にタダ同然で手に入ったリユース品だ。今日のうちにでも「破損した」と言って替えを申請するつもりだった。
地域唯一の中学である三申中学校は、全校生徒数五〇人。ひと学年ごとにクラス数もひとつずつしかなく、同級どころか全生徒の顔と名前を把握している者も少なくない。都会の学校と違って学年間の壁がない……というのは編入時に教職員から聞いた美辞麗句で、裏を返せば子供にムラ社会を実践させる土壌である。その土壌に、異分子が静かに根を下ろす資格は、ない。
事実、登校した陽士に対する生徒らの視線は、まるで「まだ生きているのか」とでも言いたげな──それこそ、件の上級生達が、この胡乱で不愉快な異邦人を過って始末してくれないものかと、心のどこかで期待しているかのような──ものだった。だがそれら観察者達の冷視には、今朝に限っては嫌におどおどとした怯懦の色が濃い。煩わしくて陽士はいちいち気にも留めないが、たまたま廊下でぶつかりかけた下級生などは、小さな悲鳴をあげて走り去る始末だった。
「加良くん、おはよう」
教室の席に辿り着いたところで、ひとりの女子生徒が声を掛けてきた。他の者とは異なって、陽士に対する剣呑な気配はない。
小岩井若奈という名のクラスメートだ。温和しげで、あまり積極的に話すタイプには見えないが、クラス委員だからというのもあって、陽士に対しても折に触れて話しかけてくる。
「うん、何か用?」
「その……先生から伝言。校長室に来て欲しいって」
「わかった。校長室、どっちだっけ?」
一度行ったはずだが、平素に用のない部屋の場所などそうそう覚えていられるわけもない。
「あ、そうだよね。じゃぁ一緒に行こ」
そう言う若菜の顔にはやんわりと紅潮した笑みが浮かんでいたのだが、彼女と目を合わせていない陽士には分かるはずもなかった。並んで廊下を歩くさなかにも、一瞥さえしなかった。
「学ラン、どうしたの?」
「やぶれた」
「そうなんだ……」
会話らしい会話はそれだけで、あとは無言のまま目的地に辿り着いていた。
「ありがとう。じゃぁ」
軽く礼を言うと、なにか言いたげな若菜を廊下に残して、陽士は滑り込むように部屋へと入った。
「加良陽士くんだね?」
開口一番そう訊ねてきたのは、校長でも体育教諭でもなく、抜け目なさそうな目付きの、スーツ姿の男だった。
刑事だ……と、陽士は直感で悟った。
「話を聞かせてもらいたいんだよ」
案の定、彼は警察手帳を見せて、山本と名乗った。
「昨日の夕方、きみが彼らと一緒に山に入ってゆくのを見たという人がいてね……」
陽士に驚きはなかった。祖父の話を耳にした時点で、遅かれ早かれこうなることは分かりきっていた。
連中の死体は発見され、自分は容疑者となったのだ。
⏩
「私はべつに、キミを疑ってるわけじゃないんだ。
あまり口外して欲しくはないんだが、彼らの遺体の状態から見て、キミのような少年に犯行が可能とは思えないんだ。
けれど、ひょっとしたらキミが犯人か、犯人に繋がる何かを目撃しているんじゃないかと考えているんだよ。
きみは最近転校してきて、あまり人付き合いも良くなかったようじゃないか。
被害者達となにかトラブルがあったのかい?
こないだも女性が亡くなった事件があったね。それについては何か知ってるかな?
あまりそう黙っていると、先生や周りの人達からの心象も悪くなってしまうと思うんだがね。
もし犯人に脅されているのなら勇気を持って教えてくれないかな」
堅いのか柔らかなのか、促しているのか強いているのかよく判らない調子で、山本刑事は陽士から言葉を引き出そうとしてくる。
だが、聴取開始から三〇分が過ぎても、陽士はウンともスンとも応えず、ただ黙って窓の外を眺め続けていた。話したくないのでも、話せないのでもない。話しても意味がないのだ。鬼に襲われたなどという証言に、いったい誰が耳を貸そうか。
だが、当初はやり過ごそうと硬く決めていた心も、時を経るに連れて、窓の外の雲のように、次第に千々に散ってどこかへと消え始めていた。
口調は柔和でも執拗で粘着質な刑事。一時間目はとうに始まっているのに生徒を返そうとしない教師達。このまま数時間と言わずこちらが餓死するまで解放してくれなさそうな彼らの態度は、上級生らのような直接の暴力でないだけ、はるかに陰湿であるように陽士には感じられた。このうえは、いっそすべてを真っ正直にぶちまけて狂人扱いされるほうが、事態が動くぶんマシかもしれない。そもそも彼らが自分のことをどう思おうと、やはりそれは陽士にとって〝どうでもいい〟ことなのだから。
──話すな──
とつぜん頭に声が響いた。
(なに……??)
困惑に思考が揺さぶられる一方で、陽士の記憶はその声音を鮮明に甦らせていた。昨日、鬼に殺されかけてから山を下りるまでのあいだに、何度か聞いた声だ。
そして不思議なことに、周囲の三人に確かめるまでもなく、陽士はその声が〝自分にしか聞こえていない〟ことを即座に理解していた。幻聴だろうか。狂人扱いされる前に、実際に頭がおかしくなってしまったらしい。
「コレを見てくれるかな」
陽士の表情によぎった戸惑いを自分の弁に対する反応と見誤ったらしく、刑事は小さなビニールポーチを机の上へと静かに置いた。説得の詰めに、と取っておいたもののようだ。意識を部屋に引き戻された陽士は、それを目にした瞬間、無表情のまま、心のなかで「あーあ」と溜息を吐いた。
学生手帳だった。上を向いた証明写真には、しっかりと自分の顔が写っている。服を脱がされたときか、逃げ出すさなかに落としていたのだろう。いつも学ランの内ポケットに入れっぱなしにしているせいで、今のいままで存在すら忘れていた。
──しらばっくれろ──
また声がした。無茶を言うな、と陽士は心で言い返した。
(なんなんだよ。昨日から、ああしろこうしろって……)
主の見えない声に、陽士は胸の奥に妙なざわつきを覚えはじめていた。それが不規則な波動か、あるいは傷ついてのたうつ蚯蚓のように、意識の奥でうぞうぞと蠢いている。昨日の、鬼を痛めつけた時に感じた、開放的な高揚はない。いまあるこの感触は、ただただ不愉快で、疎ましかった。
それは苛立ちと反抗心──つまり〝怒り〟だった。
「あの……」
陽士は、刑事に向かってようやく口を開いた。
「鬼って、信じますか?」
*
──だから言ったのだ──
校長室から出た陽士のなかに呆れ声が響く。
(うるさいな)
声の忠告に逆らって、陽士は上級生らの死にざまを、目にしたままに告白した──鬼に食い殺された、と。ただし、自身もまた鬼と化したことは伏せ、代わりに「四人が襲われているあいだに逃げおおせた」ということにしておいた。
そして陽士自身が当初に予想していたとおり、大人達の反応は芳しくなかった。刑事はまるで赤べこのように、目を円くしたまま黙して頷くばかりで、体育教師のほうは彼みずからが鬼にならんばかりに、眉尻険しく陽士を睨め下ろしていた。衝立の向こうからは、校長の押し殺した溜め息が何度となく聞こえてきた。だが結果的に聴取から解放されたのだから、陽士個人にとっては願ったりというわけである。
(だいたい誰なんだ、お前? ボクの妄想なのか?)
教室への帰り道を辿りながら、頭の声と会話を試みる。
──知りたくば教えてやる──
ふと足を止めて、陽士は右の額に手をやった。痣が疼いていた。
そして疼きは、瞬く間に疼痛へと変わった。
「づ……ぅ」
痛みと同時に、掌が肉体の変化を捉える。痣の中心にある瘤が、わずかではあるが、外に迫り出てきた──まるで角になろうとするかのように。
また、自分は鬼になるのか──
(やめろ……やめろ、いやだ……!)
拒絶する陽士のなかに、今度は想像してもいないはずの心象が浮かんでくる。村の中央の山へ、昨日とは違う方角から入って、一見しただけでは道と分からぬ小道を抜けて、木々に隠れた岩窟のなかに立つ、一棟の御堂へと…………
──放課後に来るがいい。誰にも気付かれんようにな──
(これ、お前がボクに見せてるのか……?!)
痛みを堪え、深呼吸を繰り返しながら、陽士は声に問う。
──とくに、あの刑事はなかなか執念深そうだ。気を付けよ──
それを最後に声は陽士の頭から失せ、疼痛は止み、小さな角もまた肌の下へと潜った。ただ、わずかに凸面を感じさせる瘤だけが、解けない呪いの存在を忘れさせまいとする御印のように、陽士の額に居座り続けているのだった。
*
誰にも気付かれるな、という謎の声の指示を達成するのがいかに困難かを、陽士は放課後に思い知った。学校からの出しなからして小岩井若菜に捉まり、朝の校長室へ呼び出された理由や、上級生らの死との関係を遠回しに訊ねられた。
陽士としてはまともに取り合う気もなかったため「さぁね」という曖昧な応えで突き放し背を向けたのだが、去り際に感じた彼女の視線には、こちらを窺うような、そしてどこか、こちらの後ろ髪を引こうとしているような粘つきを感じるのだった。
そして若菜を振り払ってからが、ことの本番だった。駅前の商店街か主立った車道ならいざ知らず、過疎集落の往来に人の目などほとんどない。生徒達が校舎から散ってしまえば人知れず山に入るのもわけないだろうと踏んでいたのだが、中学生が四人も亡くなった翌日とあってか、県警からの応援や、村の消防団と思しきボランティア精神溢れる中高年達が下校路にも山辺にも、まるで生きた監視カメラのように配置されていた。おまけにそれらの視線は、陽士を最優先対象としてマークせよという規範を行動プログラムにインプットされていることを、あからさまに物語っていた。
(どうしろってんだよ)
このまま帰ってやろうかとも陽士は思ったが、ふつふつと湧き上がってくる不快感が、その案を拒絶させた。陽士のなかに芽生えていた怒りはこのとき、謎めいた声の主ではなく、自分に疑いの目を向けてくる村人達に向いたのだ──なんとかして奴らを出し抜いてやる、と。
(う……つ……ッ!)
すると、また不意に額が疼き、瘤が角になろうとしているのを感じた。さらには、体の底から灼熱の圧迫感が全身に広がって、手足の先まで詰め寄せてくる。
陽士は咄嗟に、そばに立っていた木の裏に飛び込み、こちらを覗っていた、消防団の襷を肩に掛けた老人の視線から身を隠した。誰にどう思われようと構わないと平時は感じていながらも、ヒトならざるものに変じることと、そのさまを見られることとなれば怖じ気が勝った。
だが陽士の様子を訝しんだその老人は案の定、木へと足早に歩み寄ってきて、やおら幹の裏側を覗き込んだ。
そして首を捻って、その場から立ち去った。
「どうしたんだー?」
「いやー、加良んとこのガキがいたと思ったんだがなぁ」
やや離れた場所にいる団員と大声で遣り取りしつつ遠ざかってゆく。老人が履いた突っかけサンダルのゴム底がアスファルトを摺る跫を、陽士は木の根元で、震えながら聞いていた。
覗き込んできたとき、あの男は間違いなく陽士を視界に入れた。だが見つけられなかった。うっかり失認したのでも、情けをかけたのでもない。
(……見えてなかったのか?)
ふと、燐光のように輝く青白い膜が自分の表面を包んでいるのに気付いた。この光を纏っているあいだは、他者から認識されない──そんな確信も湧いた。謎の声からテレパシーのようなもので道順を受け取ったのもそうだが、どうやら鬼になりきらずとも、不可思議な力のいくつかは使えるらしい。たが額の手は、天へと反り返る異形の証にしっかりと触れている。力を使うには最低限、角は必要ということか。
(ためしてやる)
陽士は駆け出し、そして興奮に頬を綻ばせた。全身が羽根のように軽かった。地を蹴った手応えを感じないほどに力強い脚の一歩で、陽士は自転車ですら出したことのない駿速の世界へと至った。たったいま自分をガキ呼ばわりした老人を背後から抜き去れば、不意の風圧に煽られた男は驚いてバランスを崩し、道脇の土手から稲田のなかへと転げ落ちた。
「どうした?!」
先刻、彼と言葉を交わしていた団員が慌てて駆け寄ってくるが、その視線が陽士のほうへ向けられることは一瞬たりともなかった。
(はは! ざまあみろだ!)
いまの陽士は不可視の風だった。
己のなかの憤りが幾分か癒えるのを覚えつつ、一路、山を目指した。麓を囲む何人もの監視者──警官──のあいだをも抜けて、声が示した隠れ道を駆け登る。普段ならとっくに酸欠を起こしている。だが、いまの陽士の呼吸は、息をしているのかすら定かでないほど小さい。それだけで、どこまでも走って行ける気がした。土と岩の凹凸や木の根のうねり、行く手に繁る鋭い枝葉も手に取るように見える。それらの合間を擦り抜け、飛び越えながら、険しい斜面を悠々と登ってゆく。
(これがボクの力か……!)
鬼の力──いちどは記憶が飛ぶほどに恐れた自分自身を、陽士はいま、誇らしげに感じてすらいた。
だが、目の前に大きな岩窟を開けた山肌と、その入口に渡された注連縄が現れた瞬間、陽士の高揚は強靱な疾駆とともに中断された。
(ここか)
窟を覗き込んでみれば、薄暗闇に身を融かすように、人を二人か三人は呑み込めそうな古々しい御堂が佇んでいた。声に見せられたものとまったく同じだ。
(来てやったぞ)
さして慣れてもいない山のなか、まるで吸い込まれでもしたかのようにここへ辿り着いたことに、陽士はあらためて慄きを覚えつつも、それよりもなお、山中の風に乱されて擦れ合う木々の枝葉のざわめきによって甦り、煽られ、掻き立てられた苛立ちに背を押されるがままに、決然とした足取りで御堂の階を渡って向拝に上がり、正面から扉を開け放った。
瞬間、陽士は目を瞠り、慄きも苛立ちも忘れて、ポカンと呆けた表情のまま、固まった。
鬼が出るか蛇が出るか……と覚悟していたところ、まさか堂のなかにいたのは、人だった。
「呼んだのはこちらだが、挨拶も無しに開けるとは、無礼な奴よな」
「その声……」
紛れもなく、あの声の主だと、陽士の耳は言っている。だが、それでも理性は、薄明のなかの人物が、自分をこの場に招いた張本人だと認めるのを、まだ躊躇っている。
神職のような白装束。座すさまは水面に開いた蓮花のごとく精錬で慎ましく、その居住まいにも面差しにも、陽士がいかんとも察しがたい超然とした雰囲気が湛えられてはいるものの────
「まぁいい。さっさと入って、戸を閉めよ」
さりとても、その姿は、どう大きく見積もっても陽士より年若……十歳か否かという童児のものだった。
読んでくださりありがとうございます。
今回も硬い言葉遣いと文章構成ですが、長い一文を破綻なく作るのが好きなので、この物語はもう最後までこういう雰囲気でいきます。




