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 Twitter:Xのフォロワーさんから原案をいただいて書きはじめました。初案からはかなりかけ離れてしまいましたが楽しんでいただけると幸いです。

 いやぁ、かなり酷な話だから「楽しい」ってのはどこか登場キャラに可哀想ですね(汗)

尸鬼しき戦奇譚せんきたん ~去るは青天のくろ


   第1話『鬼』



 ──ねぇ聞いた? 三丁目の橋田はしださんとこの娘さん。


 ──ええ、ええ、殺されたんですって?


 ──そうなのよ。それも死体がさ、ひっどい状態だったみたいよ。なんか、まるで熊に食べられたみたいにバラバラだったって。


 ──熊ぁ? でも熊なんて、あの山にいたかしら。


 ──そう。だから、通り魔か何かに襲われて、その場でバラバラにされたんじゃないかって。


 ──うそよぉ、こんな静かな町でそんな話、いやだわぁ。


 ──でしょお? そんなこと出来るのなんて、ぜったいに外から来た人の仕業よ。


 ──通り魔をしに、わざわざよそから来たってこと? 世も末だわ。


 ──それか……ほら、ちょっと前に、都会からしてきた子、いるじゃない。


 ──ああ、加良からさんちのお孫さんね。でもまだ中学生でしょ?


 ──何言ってんの、中学生が何人も殺した事件、昔あったじゃない。


 ──それもそうねぇ。加良さんのお孫さんって、あの娘さんの子供でしょ?


 ──そう、あの不良娘。都会に憧れて出ていって、結局いまは刑務所で、旦那も行方不明ってハナシ。


 ──まぁ、可哀相だけど、両親がそんなのなら、子供もどうだか、ね。


     *


 腹を殴られて、加良から陽士ようしは胃液か何かも分からない汁を少量、吐いた。

 それに引っぱられるように、食べて時間が経ったはずの昼食が、腑の奥底から舞い戻ってきそうになって、息が止まる。

 脚が力を失って、土のうえに膝を折った。


「はーいギブアップ早いよー。もっと頑張れー」


 いま殴った男の左右からその舎弟達が出てきて、冗談めかしながら陽士の両脇を抱えあげ、無理やり立たせる。


「なんだ、その目は? 腹立つんだよ」


 リーダーの拳が右頬を撃つ。それでも黙っていると、さらに左も撃たれた。

 キリストの教えの実践、今日も実績解除だな、と陽士は内心で自分を茶化した。


「おらテメェ──」


 男達から少し離れて様子見していた女が割って入ってきた。


「なんとか言ったらどうなの? 男のクセにナヨナヨして。ホラホラァ、やり返してみろや──!」


 嗤いながら陽士の胸や脇腹に、やはり拳を連打してくる。女の力とはいえ相手は殴り馴れているし、滅多打ちにされる側はそれなりに痛い。

 それでも反応がないと見るや、女は露骨に眉をしかめ、膝で陽士の股間を蹴り上げた。

 込み上げてくる疼痛と吐き気に、陽士は歯を食いしばって深く呼吸する。


「へぇ、女みたいな顔してるのに、痛いのは痛いんだ」


 女がケラケラと、嗤い声をさらに高くする。


「おら、何とか言えや。都会生まれだからって、オレらを馬鹿にしてんだろ、ああ?」


 まったくの被害妄想である。陽士が抵抗しないのは、彼らに対してのみ始まったことではない。だが、よしんば陽士がそう説明をしたところで、理解はおろか聞く耳すら望みようもない。連中の目的はただ陽士が彼らの暴力に対して虚しく抵抗し、最後には泣きながら「やめてください。お願いします」と頭を下げるのを見ることなのだから。

 たとえどんな手段をもってしても、都会から移り住んできた人間を征服することで、自分達のほうが優れた人種であることを証明し、自身にまとわりつけた『田舎者』というレッテルから生まれる、〝都会者〟に対する劣等感と怨恨ルサンチマンを仮初めにでも晴らして、無聊を慰めたいのだ。

 あるいは彼らの劣等感と怨恨ルサンチマンは、陽士が卑劣で器量の悪い少年であったなら、このようなあからさまな暴力となって発散されなかったかもしれない。

 だが事実、都市部からこの三申村みさるむらへと移り住んできた加良陽士は、周囲の女子達がこぞって羨望の眼差しを送るほどの美しい少年だった。制服を丁寧に着こなし、背筋を伸ばし、同年代の男子達のように粗野に騒ぎ立てることはなく、さりながらも大人びて好青年然とした人当たりの良さを振りまくではない、むしろビル街の夜風のなかで心を磨り減らしたかのような、孤独を感じさせるたたずまいと、物憂げな眼差しの持ち主だった。

 唯一、右の額に浮かぶ青い痣が、白皙のなかに違和を投げていたが、平素はそれを長い前髪で隠しているのもあって、彼の〝都会的〟なかげりはますます際立っていた。また、これらの印象に違わず、陽士は他者と距離を置き、交友を避けていた。

 しかし〝ムラ〟というコミュニティにおいては、そうした陰鬱な面差しや表情、なにより交流を拒む態度は、閉鎖的な人々から「郷に入れど郷に従わぬ」「田舎者と思って馬鹿にしている」と取られ、後ろ指の対象となるのも無理からぬことであり、したがって学内にあっては生徒達のなかでもヒエラルキーの上位者たる強壮な上級生グループの不興を買ったこともまた、残酷な必然と言えた。

 畢竟ひっきょう、彼らにとって、加良陽士が彼自身のまま存在していることは、ただそれだけで、自分達への侮辱を意味するのである。

 陽士が転校して一週間と経たぬうちに、この思想自警団とも言うべき上級生達は放課後、帰路に着く陽士を学内で堂々と待ち伏せし、最初の制裁を加えてきた。その発端は、陽士が編入されたクラスの同級生からの「あいつオレらを舐めてますよ」という密告だったのだが、とうの陽士はその事実を知る由もなく、他の生徒達が見ている場で喉輪を鷲掴みにされながら、腹に一発の拳を受けた。

 それで済んだのは、その日の科刑が、警告に過ぎなかったからである。だが誰にとっても予想外で、かつ上級生らにして甚だ憎たらしいことに、陽士が態度をあらためる様子は一向になかった。

 連中からすれば、一度出してしまった手を引っ込めることは陽士を解放することであり、すなわち自陣の敗北であり、狭き学内において燦然と輝く自分達の威光とプライドの失墜を意味する。そのために、制裁は日を追うごとにエスカレートしていった。

 まったく歯ごたえの無い、しかし決してなびかぬ転校生に対して、退くことの出来ぬ暴力を繰り返すうちに、彼らは当初の目的を忘れ、いつしか陽士を責め苛むことを日常の一部にしてしまっていた。そして、彼ら自身がその〝手段の目的化〟に思い至ることはなかった。

 また、彼らにはもうひとつ、死ぬまで理解できなかったことがあった。

 誰もが漠然と、陽士という少年のなかにある反骨心を挫こうとしていたのだが、真実は真逆であった。そんなものははなから、彼の何処にも有りはしなかった。

 殴られて悶え、不快に顔をしかめ、しっかりと痛みを感じてはいても、陽士にとって痛みとは〝懇願してでも避けたい〟ものではなかった。

 また、彼は被虐愛好者でもなかった。


(そろそろ、殺してくれないかな……いっそのこと)


 ここ数日、連中による暴行を受けるたびに、陽士は逆に、彼らの手ぬるさを内心で嘲笑っていた。

 陽士にあったのは〝欠落〟であり、彼から失われていたものとは〝生への執着〟だった。誰彼に従ってでも平穏無事に生き存えようという本能的な生存欲求が、この少年にはまるで存在していなかったのだ。


(どうせ、生きていたところで……)


 その祈りが通じたか、今日の制裁はやけに執拗で、連れ込まれた場所も校舎裏やシャッター街の隅ではなく、村の中央にうずくまるようにしてこんもりと立つ小山の、藪のなかだ。もともと人もほとんど通らないうえに、つい先日には同じ山中で村の女性が熊に襲われて亡くなったと見られる痛ましい事故が起こっており、その熊が駆除されるまでは生徒の立ち入りを禁止する旨が、学校から通達されてもいた。


「おい、あれ貸せ」


 リーダーのひと声で、舎弟が隠し持っていた折りたたみナイフを彼に渡した。小さな刃が陽士の目の前にかざされ、鏡のように、腫れ上がった頬や、血を滲ませる唇を映す。

 ようやく制裁が粛清になるのか、と陽士はこの期に及んでさえ、淡々と己の運命を受け入れていた。だが、彼の期待に応えられるほど、上級生らも覚悟者でなければ狂人でもなかったようだ。

 リーダーの手が、陽士の服を荒々しく引っぱりながら、彼の制服を乱暴に斬り裂きはじめた。


「向こうじゃ、こういうのが流行りなんだろ? コーディネートしてやる」


 殴っても反応がかんばしくないから、ひと目にも分かりやすい恥辱系に処そうという算段なのだ。


「え、おい……」


 と声を上げたのは陽士ではなく、両脇を支えていた舎弟の片方だった。

 裂かれたシャツの下から現れた陽士の素肌を見たのだ。正確には、自分達が付けたおぼえのない、無数の裂傷や火傷痕、縫合治療の跡などを…………


「んだよ、こいつ」


 驚きと好奇心と蔑みに突き動かされるように、上級生らは陽士から服を剥ぎ取ってゆく。細身、というにもどこか病的な少年の痩躯が露わになる。


「きっしょ。ミイラかよ」


 連中はその体に向かって、引きつった嘲笑を浴びせた。最初こそ、不気味さゆえに強がったような、いかにもわざとらしいものだった嗤いは、やがて、温和しく取り澄ました美少年の本性を白日のもとに暴き出せたことを誇るかのように、下卑げびて、勝ち誇ったものへと高まっていった。

 その狂喜のなか、誰かが陽士の背中を蹴り飛ばして、剥き出しの地面のうえに這いつくばらせた。たちまち、他の脚もまた右から左から蹴り込まれてくる。傷まみれの少年の肢体が腐葉土によってさらに穢される。

 弑逆者達は、それが何よりも楽しくて仕方がないという様子だ。蹴り脚は、少年を転がすことから、やがて踏みつけることに、そして、あからさまに傷と苦痛を与えることへと変わってゆく。彼らにとって陽士はもはや人間ではなく、生態も思考も窺い知れないエイリアンであり、異形であり、討ち滅ぼすべき悪魔であるようだった。

 骨が砕け、肉が裂ける激痛に身を呵ま《さいな》れ、ミミズのようにのたうち回りながらも、陽士は欠片ほども「死にたくない」などとは感じなかった。「ああこれでようやくか」と、その瞬間を待っていただけだった。

 だが、運命は陽士に、安息を供さなかった。


「ははは──! …………?!」


 リーダー格の男の声が不意に、ヂュッ、という肉の弾けるような音で途切れた。

 ──否、じっさいに肉は弾けていたのだ。バットで叩き割られたスイカのように、血と骨と脳漿とのなかで渾然一体になって。

 誰もが声と時を失った。あるいは目の前の現実に仕掛けられた嘘を、少年の肉体のごとく今いちど晒しものにできる瞬間を血眼で探し求めるように、その空間に釘付けとなって、乱入者と惨劇に視線を注いでいた。

 そいつは立ち上がった熊のように巨大で毛深く、しかし熊というには、あまりにも人間に近かった。たった今、未成年とはいえひとりの男の頭を一撃のもとにかち割ったばかりか、体液に濡れそぼつ頭髪を開き、あいまから生白い脳髄を掬い上げて口に運ぶ手には、しっかりとした五本の指が備わっていた。ヒトの脳がそんな美味いのか、一心不乱という様子で上下する顎には糸切り歯と呼ぶにもあからさまな獣の牙が見え隠れしたものの、そのうえに見える幅広でゴツゴツした鼻と、岸壁から突き出た岩棚のようにガッチリした眉弓と頬骨のはざまに紅く光る眼は、そいつがやはり人間以外の何ものでも無いことを、如実に現していた。

 ただひとつ、明確に「人間ではない」と喝破できる材料があるとすれば、それは乱入者の全身から発せられる獣性や臭気といった曖昧なものではなく、猛々しい柳にも似たザンバラ髪の額から、まるで天を目指そうとして挫かれたかのように拗くれつつ突き出た、禍々しい二本の角だった。


 ──鬼──


 その場にいた誰しもの心にその一文字がよぎった。

 だが、そんなもの、いるはずなどない。


「あああ!」


 それを証明しようとしたのだろうか。舎弟の片割れが狂ったように吼え、リーダーだったものの手からナイフを拾い上げて、怪物の腹に突き立てた。ずぶり、という響きが聞こえそうなほど、刃は容易く、仇敵の表皮を刺し貫いた。

 予想以上の手応えに、男はヒヒ……と薄笑いを浮かべたが、直後、その表情はオセロが裏返るように、恐怖へと一変して、以後、二度と表へと戻ることはなかった。

 鬼はなんら堪えた様子もなく、彼の首を鷲掴みにして持ち上げ、その顔面に逆の手の指を突き立てた。今度こそ、比喩ではなく〝ずぶり〟という音が聞こえたように、陽士には感じられた。鋭い爪を持つ五本の指が、ほとんど根元まで獲物の顔に埋まった。カッと見開いた眼を真っ赤に染め、穴という穴から血を噴き出させて、舎弟は絶命した。手放されたナイフはまだ鬼の腹に残されたままで、そこからは一滴の血筋すら流れ出ていなかった。


「い、ぁ、ひいい!」


 残る舎弟の片割れが悲鳴を上げて逃げ出した。だが二歩と進まぬうちに、その背中を鬼が鷲掴みにした。まさに猛禽のごとく獲物に爪を突き立て、肉の内側に指を潜り込ませ、直接、背骨を握ったのだ。

 しかも男を捕らえた鬼の腕は、明らかにその全長を、さきほどまでの二倍近くにまで伸ばしていた。


「お……ォ……ッ」


 捕らわれた男の口から呻きと一緒に血が滴る。後ろから肺を貫かれたのだが、胸内の出血を吐き出す力はなかった。このままでは肺が血で溢れかえって窒息死するだろう。そして鬼は彼にそれを強いた。哀れな獲物を手前に引き寄せるや、やにわに背中から指を抜いて、土のうえに落とした。最初から逃亡を阻止することだけが、彼を攻撃した理由だったかのようだ。


「たす、け……」


 ピクリとも動かないその体のなかで、まだ唯一生気を感じさせる眼が、陽士の視線とかち合った。


(知るかよ……)


 その眼球から光が消えるさまを、陽士は冷然とした眼差しで見つめていた。この期に及んでなぜ助けてもらえるなどと思ったのか、まるで理解できなかった。

 それだけに、グループのなかでひとり残された女が取った奇態には、哀れみを通り越して滑稽さすら感じた。


「お、おねがい……ころさない、で……!」


 抵抗も無駄、逃走も無駄と知って観念した女は、突如として命乞いをしながらみずからの服を脱ぎはじめた。


「この体、好きにしていいから……命だけは……」


 訝るように首をかしげる鬼の目の前で、女は全裸になって、みずから供物となるかのように土に横たわった。

 そして供物の望みを、鬼はかなえた。陵辱という言葉では足りぬほどの暴虐が雷霆のように女の下から上までを貫き、斬り開き、はらわたを弾き飛ばさせて……結局、殺したのだった。

 女の血肉は陽士にも飛来し、その裸身に降り注いだ。


くさいな)


 最初に感じたのがそれだった。


(ボクもこうなるのか)


 間違いなく次は自分だろう。どうあっても酷い死に方になるだろうが、もう何もかもがどうでもよかった──たとえ今の女のように犯されながら死ぬとしても、だ。

 立ち向かっても駄目、逃げても駄目、おもねっても駄目──なら、あとは諦めるほかない。そもそもからして殺されかけていたのだから、心情のうえでは先ほどと何も変わらなかった。

 むしろ、鬼などという有り得ざる存在を死ぬ前に見られたことが、人生最初にして最後、そして唯一の幸運だとすら思った。

 だが運命は陽士に、その〝諦観〟さえも、許さなかった。

 予想どおり、バックリと開いた女の体内を、束の間、弄ぶようにグチャグチャと掻き回した鬼はやがて「飽きた」と言わんばかりに体を離して、陽士に眼を向けた。


(やっとかよ。さっさと殺してくれ)


 痛む肢体をわずかたりとも身じろがせず、うめき声ひとつ上げず、陽士はその瞬間を待っていた。

 鬼の手が陽士の首を掴んで持ち上げた。サッカーボールでもひと呑みできそうなほど上下に開いた大顎が、目の前に迫る。

 それでも、陽士に恐怖は無かった。なんのことはない。これまでの人生に比べれば、数秒で済む。

 そのあとには、何もない。無だ。

 いや、思えば最初から、自分が生まれたことも、生きてきたことも、何もかもが無だったのだ。そして今、ただ無に還るだけだ。


 ──見つけた──


 唐突に、頭のなかで声がした。女か、子供のような声だったが、いずれにしても〝耳で聞こえたのではない〟というのがハッキリと感じ取れた。

 その瞬間、時が失われた。今度のは錯覚ではない。

 迫り来る鬼も、風も、己の呼吸さえ止まり、音も完全に絶えた。


(なにが……?)


 いっさいが静寂に固着された世界のなかで、ただ、陽士の意識だけが、膨張しない宇宙のなかに動いていた。

 妄想か、幻覚か? それとも、これが死の直前に走馬灯を見るような、というやつか?

 その途端に────


(あ……?!)


 ──体の奥底からそれ(、、)が来た。

 内側で爆弾が破裂したかのようだった。圧力と熱波が血管のすみずみ、筋繊維の一本一本を一瞬にして駆け巡り、膨張させた。

 すさまじい目眩めまいと頭痛。そして全身を数千もの骨肉片へと挽き裂かれたような激震に、陽士の意識は虚空の彼方へと吹き飛び、そして同時とも言うべき時間差で舞い戻った。


(あ、あああ…………ッ)


 体じゅうの苦痛が額の痣に集中し──まるで怨念が亡霊となって顕現するかのごとく──形を成した。

 美しい弧を描いて天を指したそれは、一本の角であった。

 上級生達を皆殺した鬼に相対する陽士もまた、《鬼》へと変貌したのだ。肉体はもとの痩躯からはまったくの別人だった。背丈はふた回りほどにまで膨れあがり、筋骨もそれに相応しく、太く、堅い。その逞しい胸板はおろか、腕の先、脚の先にいたるまでが、まるで痣に支配されたかのように、すべて真っ青に染まっていた。

 そして、変貌していたのは肉体だけではなかった。

 ドス黒い肉片が飛散した。

 食らいつこうとした鬼の、その下顎が、ごっそりとえぐり取られていた。

 世界が我にかえった瞬間、陽士がその手で受け止め、むしったのだ。


(は、はは……!)


 己の掌のなかに残った顎の残骸を、陽士は束の間、驚きと興奮をもって見つめ、そして握りつぶした。

 絶対強者であったはずの鬼に、たじろぎが見えた。だがすぐさま陽士の頸を掴んだ己の手にも力を籠め、獲物を縊り殺しにかかる。


(放せよ──!)


 己を吊り上げる怪物の腕に、陽士は殺気を向けた。

 瞬間、鬼の肘が吹き飛んだ。

 念動──あるいは神通力とでも言うのだろうか。異形と化した肉体に加えて、突然に発現した力に、陽士は不思議と疑念を挟まなかった。


(死ね──!)


 首吊りを脱して着地するや、心のなかで哄笑と雄叫びを上げながら、拳を突き上げた。

 その一撃は、いともたやすく鬼の体を突き抜けた。貫いたこと自体は小さなナイフと同じだったが、今度のそれは明らかに鬼を苦しみ悶えさせるものだった。

 鬼の悲痛な姿に、陽士は夢中で二撃目の拳をふるった。三撃、四撃……そのたびに、これまで経験したのことのない、生き生きとした情動が胸を高鳴らせた。

 高揚、愉悦、解放感、爽快感…………己の腕のひと振りが鬼の肉体を破壊し、その命脈を侵す手応えに、陽士の心の琴線は幾重にも震え、壮大なハーモニーのごとく響きわたって、得も言われぬ歓喜の音を創造していた。

 それは、少年が生まれて初めて感じる、暴力という名のカタルシスだった。

 鬼が抵抗すれば残る腕をもぎ取り、逃げようとすれば脚を引きちぎり、嗚咽を上げ続ける顔面を叩き潰してなお、足りぬとばかりに肉片を踏み割り、握り砕き、食らいついた。

 そして、火柱のように燃え盛った衝動は、唐突に消え去った。


 ──急急如律令──


 ふたたび、頭のなかで声が響いた。途端に、バラバラの肉塊となっていた鬼が、その飛沫の一粒に至るまで、いっせいに黒い羽虫の群れと化した。

 陽士が驚いているあいだにも、それらは音もなく一ヵ所に群集し、すう、と吸い込まれるように空へと昇って、見えなくなってしまった。


「──え?!」


 あっという間の出来事を呑み込めずに呆然としていた陽士は、ふと〝自分が自分に戻る〟感覚を覚えた。

 緊張が抜けたように体から力が失せ、目眩とともに視線が下がる。胸のなかに鼓動と呼吸が存在することが否応なく意識に叩きつけられ、そして夢から醒めたように、思い至った。

 自分は何をしていたのだ、と。

 周囲を見回し、陽士は愕然とする。今度の驚きに、歓びはなかった。


「あ、あ……!」


 つい今しがたまでの己の記憶とともに甦ったのは、麻痺していたはずの恐怖だった。

 辺りには、上級生達の変わり果てた……と表すのが生ぬるいほどの、彼らだった血肉の残骸が転がっていた。


(ボクは……ボクは……?)


 思わず自分の体を見下ろす。見慣れた痩せぎすの、傷まみれの肉体が目に入る。肌にも青みはない。不思議と、上級生らに付けられた怪我や痛みまで消え去っている。

 だが、その胸や腹には、鬼に殺された連中から飛散した血塊や肉片が、陽士に取り縋るように、なおもベッタリと貼り付いていた。肌に染みこんでくるような死臭は、彼らが残した今生への未練と、ただひとり生き残った自分への怨嗟であるように、陽士には感じられた。


(……なに、これ)


 そして頭に手をやった瞬間、陽士の怖気は頂点に達した。

 小さいが、掌でハッキリと感じられるほどの瘤。

 それは姿を消してなお、そこに──右の額に──確かに、角が生えていたのだという証拠を、陽士に突き付けるものだった。


 ──大丈夫だ。深呼吸しろ──


(いやだ──!)


 陽士は瞬間的に頭の声を拒絶した。その正体への疑念など微塵も湧かなかった。上級生に受けた暴行、鬼というあり得ない存在、目の前で繰り広げられた虐殺と、鼻先に迫っていた死──それらを遥かに超えて、自分が人ならざる異形と化し、破壊と殺戮にこの上ない悦楽を覚えていたことが、陽士にパニックをもたらしていた。

 畢竟ひっきょう、加良陽士は自分自身に恐怖していたのだ。


 ──落ち着け──


 いまの陽士にとって、その呼びかけにはなんの説得力も、なんの意味もなかった。自分に起こったことと、いま自分に起こっていることの両方を受け止めることが出来ない以上、ただ声を聞かされるだけでも、恐慌の音色はいや増しに加速して頭のなかをグチャグチャにかき回してゆくだけなのだ。

 通学鞄や脱がされた服を拾い上げると、脇目も振らずに惨状から走り去った。どうやって無事に家まで帰ったかも、陽士はほとんど憶えていなかった。


 お読みくださりありがとうございます。

 今回はかなり「本来の私式」の文体で書いています。


 また「全話書けてから全上げする」私には珍しく、リアルタイム更新を取らせていただきます。そのため完結にはお時間をいただきますが、見守っていただけると有り難いです。全6話くらいで締められたら良いなぁと考えています。


 それにしても、この物語の参考書にしようとしていた呪術の本が唐突に何処にいったか分からなくなりました。おおかた仕舞い忘れだと思いますが、なにか不吉だなぁ(苦笑)

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