押し入れの中の友達と
押し入れだけが、その男の子の居場所だった。
その男の子は小学生。
最近、両親の仕事の都合で、古いアパートに引っ越してきた。
転入した小学校では友達もできず、
前の学校での友達との連絡はすぐに途絶えてしまった。
家に帰れば、両親は仕事や家のことで喧嘩をしてばかり。
アパートは狭く一部屋しかないので、
目の前で喧嘩をする両親から離れることもできず、
終いには八つ当たりをされる始末。
いつしか、その男の子は、押し入れの中に逃げ込むようになった。
この部屋の押し入れの中板には、赤黒い染みがたくさん残っている。
それらの染みが人の形に見えて気味が悪いとか、
また、かつて実際にこの部屋では行方不明者が何人も出ているとかで、
両親は押し入れに近付こうとせず、中にはあまり物は置かれていない。
だから、その男の子にとっては、押入れが格好の居場所になったのだった。
実を言うと、その男の子も最初は押し入れの中の人型の染みが怖かった。
床に倒れている人型の染み、天を仰いで顔を覆う人型の染み、
苦しそうに腕を伸ばしている人型の染み。
どれもまるで生きているかのようで、
その男の子には本当に動いているように見えた。
動いているのであれば、この押し入れの染みたちは生きている。
生きているのであれば、友達になれるかもしれない。
子供の好奇心は恐れを知らず、その男の子は染みたちに話しかけるようになった。
「こんにちは。
僕もこの押し入れの中にいても良いかな?」
「やあ、みんな。元気?
今日もパパとママが喧嘩を始めたから、僕は押し入れに逃げて来ちゃった。」
「ただいま。今日も学校で友達はできなかったよ。
でも、僕には染みのみんながいるから寂しくないよ。」
「今日はおみやげに、みんなが見たがってた絵本を持ってきたよ。」
落ち着いて観察してみると、押し入れの染みも千差万別、個性がある。
人当たりの良い子、ひょうきんな子、気配り上手な子。
いつしか、その男の子にとって、押し入れの染みは大切な友達になっていった。
今日もその男の子は、学校から帰ると、友達に会うために押し入れの中へ。
仕事で不在の両親のことなど、もう気にもかけてもいなかった。
「ただいま~。今日も学校で疲れたよ。
また絵本を持ってきたから、みんなで見ようね。」
その男の子の手には、学校の図書室から借りてきた絵本があった。
以前、その男の子が読んでいた絵本を一目見てから、押し入れの染みたちは、
絵本を見ると嬉しそうにしたものだった。
それ以来、押し入れの染みたちは、その男の子に絵本をねだることが多くなった。
外の世界が見たい。押し入れの中は飽きたので、外の広い世界を。
友達からのそんな声無き声を察して、最初、その男の子は、
押し入れの中の染みたちに、外の世界を見せてあげるために、
押し入れの襖を開けて窓を開けてあげたりしていた。
しかし、染みたちによれば、染みたちは押し入れの壁板や床板の世界の住人、
実際の風景よりも、絵に描かれた絵本などの方がわかりやすいらしい。
そんな事情で、その男の子は、友達の染みたちのために、
絵本や絵画の本を頻繁に借りてくるのだった。
その男の子は、押し入れの中の染みたちとすっかり仲良しの友達になった。
両親よりも染みたちと話す時間の方が長く、
夜は両親が寝静まるのを待ってから、押し入れに潜り込んで、
染みたちと一緒に朝まで過ごしたりもした。
一方、そんな変わり者だから、学校では相変わらず友達もいない。
しかし、その男の子には不自由は感じられなかった。
喧嘩ばかりの両親とは話したくもないし、
話が合わない学校の同級生たちとも無理に友達になろうとは思わない。
どうせ学校の友達は学校だけの関係。
学校が終われば離れ離れになってしまう程度の関係なのだから。
学校の友達なんてただの遊び相手、
押し入れの染みたちの方が自分の事をわかってくれる。
その男の子には、押し入れの中の染みたちがいれば、それだけで良かった。
しかし、そんな幸せな生活は長くは続かず、密かに終わりが近付いていた。
年老いた人に終わりがやってくるように、建物にも終わりがある。
その男の子と両親が住むそのアパートは、
老朽化により取り壊しされることになった。
急な話で困る、こんな格安物件はそう見つからない。
そんな内容の話を両親がギャアギャアと喚いて、いつもの口喧嘩が始まった。
だから両親は、すぐ側にいる息子であるその男の子の様子には気が付かなかった。
アパートが取り壊しされると聞いて、その男の子は茫然自失。
しかしそれも無理もないこと。
両親にはただ引っ越しが必要になるだけのことだが、
その男の子にとっては、大切な友達との別れあるいはそれ以上のことを意味する。
何とか引っ越しを止められないか、アパートの取り壊しを止められないものか、
両親に頼もうとしたが、しかし両親は喧嘩の真っ最中で口を挟める様子ではない。
両親はその男の子にも構わずお互いに捲し立てている。
仕事がうまくいかず、ただでさえお金もないのに。
このアパートだって格安物件だから嫌々入居したのに。
これ以上の格安物件なんて、どんな劣悪な環境なことか。
そんな環境でどうやって子供を育てていくの?
・・・いっそ、子供なんていなければ良かったのに。
それは、売り言葉に買い言葉。
口喧嘩の最中にうっかり口にしただけの言葉だったかもしれない。
しかし、その無神経な言葉は、言われた本人の心には深く刻み込まれていた。
その男の子は両親にかける言葉も見当たらず、静かに押入れの中へ潜っていった。
それから日数が過ぎて、今日はもう引っ越しの日。
その男の子と両親がアパートから出ていく日だった。
朝からトラックがやってきて、ささやかな家財道具などを運び出していく。
空っぽになった部屋を軽く掃除して、両親は車に乗り込んだ。
その中にその男の子がいないことに両親は気が付いていたか否か。
慌ただしい引っ越しの最中で注意散漫だったのか、
はたまた、いつものように物陰に潜り込んでいると思ったのか、
あるいは、子供などいなければという言葉に魔が差したのか、
両親はその男の子が車に乗っているのかを確認しないまま、
アパートから走り去っていってしまった。
空っぽになったアパートの部屋。
押し入れの中に、その男の子の姿があった。
やはりその男の子は、引っ越しの車には乗っていなかった。
友達である押し入れの中の染みたちと離れ離れになるのが嫌で、
こうしてこっそり部屋に残っていたのだった。
「みんなを置いていくなんて、僕にはやっぱりできないよ。
このアパートがいつ取り壊されるのかわからないけど、
せめてそれまでは、みんなで一緒にいようね。」
そう言ってその男の子が伸ばした手に、
押し入れの中の染みたちも嬉しそうに手を伸ばすのだった。
それから一週間ほど。
その男の子はアパートの押し入れの中で染みたちと一緒にいた。
両親が探しに来ることもなく、他の人が来ることもない。
学校に行くこともなく、押し入れの中で友達たちと過ごす日々。
じゃんけんをしたり、鬼ごっこをしたり、絵本を読んだり、
その男の子は友達である染みたちとの生活を思う存分楽しんだ。
しかし、やはり子供だけで生活をするのには無理がある。
水道はまだ止まっていないので良かったのだが、問題は食べ物の方。
持ち込んだお菓子類は少量で、すぐに食べ物が無くなってしまった。
しかし、どういう理由なのか、その男の子は、
染みたちと一緒に遊んでいるとお腹が減ることがなかった。
押し入れの壁板や床板から、染みが霞のように湧き上って、
その男の子の空腹を満たしてくれていたらしい。
だが、空腹が満たされても、栄養が摂れたわけではないようで、
日を追う毎にその男の子の体は衰弱していった。
一日に起きていられる時間が短くなって、横になっている時間が長くなっていく。
じゃんけんをしようにも、手に力が入らない。
鬼ごっこをしようにも、足に力が入らない。
とうとう、起きている間にも、意識を保つことができなくなった。
「僕、このままここで死ぬのかな・・・。
そうしたら、僕も押し入れの染みになって、みんなと一緒にいられるね。」
それも良いかもしれない。
その男の子は、押し入れの中で、人型の染みたちに囲まれて、
穏やかに眠るように目を閉じていった。
カリ・・カリ・・。
穏やかな眠りの中、耳に刺激を感じる。
体から痛みや苦しみが消えていく快楽の中で、邪魔をするものがいる。
その男の子は眉を潜めて、鬱陶しそうに目を覚ました。
「う、うーん。邪魔しないでよ。」
目を覚ますとそこは暗い押し入れの中。
刺激の原因は、横たわるその男の子の耳元で聞こえていた音のようだ。
動かぬ体を起こし、押し入れの襖を開けて明るくする。
すると、押し入れの床板に、引っ掻いたような傷で文字が書かれていた。
君はこのままここで一緒に死んではいけない。
染みになった僕たちは、もう人の姿に戻ることはできない。
でも、君はまだ間に合う。どうか人でいることを諦めないで。
何があっても君と一緒にいてくれる誰かが、きっと見つかるから。
君は人のままで、僕たちの友達でいて。
床板の言葉が誰からのものなのか、その男の子には明らかだった。
痺れる手足を見ると、手足の先は黒ずんで、足先は床板に溶け込みかかっていた。
このままじっとしていれば、自分も押し入れの中の染みになることだろう。
それでも良いと思っていた。
どうせ学校に友達もいないし、両親にも疎まれているのだから。
学校の友達に遊び道具のように扱われるくらいなら、
いっそ自分も染みになって押し入れの友達たちの仲間になりたかった。
でも。もし自分まで染みになってしまったら、
押し入れの中の友達たちに、誰が外の世界を見せてやれるのだろう。
人に終わりがあるように、建物にだって終わりがある。
このアパートが取り壊されたら、押し入れの壁板や床板も壊されて、
そこにいる染みの友達たちも終わりを迎えることになる。
友達とは、一緒に終わるために作るものではない。
一緒に生き続けるために作るもののはず。
今、動けるのは、自分しかいない。
その男の子は、床板に溶けゆく手足の先を引き千切り、
歯を食いしばって立ち上がるのだった。
いくらかの年月の後。
爽やかな風がそよぐ草原で、一人の絵描きが絵を描いていた。
その傍らには家族だろうか、画材の手入れをしている人もいる。
絵描きが描いているのは風景画のようで、大きな画板を台にしている。
その画板は、画板にするには大きすぎるほど大きな、染みだらけの古い木の板で、
いくつもある染みはまるで人の形のようだった。
やがて絵描きは筆を止め、満足そうに頷いた。
「・・・よし、描けた。
みんな、見てくれ。また外の世界の絵を描いたよ。
この景色も気に入ってくれるといいな。」
絵描きが描き上げた絵を取り上げ、画板の染みたちに見せる。
すると、画板の人型の染みたちは、外の景色を目にして、
子供のように喜んではしゃいでいるように見えるのだった。
終わり。
押し入れの中を自分の部屋にするというのは、
よくある子供の夢の一つだと思います。
大人でも、たまには押し入れの中に逃げ込みたくなります。
もしも、押し入れの中に自分だけの友達がいてくれたら。
そんな理想を空想して物語にしてみました。
大抵の友達は学校でできるものだと思います。
でも学校でできた友達は、学校が終わると縁も切れてしまいがち。
学校以外でも友達を作りれたら良いのにと思います。
お読み頂きありがとうございました。