プロローグ【上】 新しい職場
変わり映えのしない、いつもの日常。パターン化された、ある意味では心地よく、ある意味では退屈な日々。そんな日常が、一通の手紙によって大きく塗り替えられた。
……まずは、謝らなければならないんだがな。
一度大層世話になった―――古い仲とも、一瞬の縁とも言える人物からの随分と分厚い内包量の便箋が届いたのは数日前の事だった。たがその日は、俺の居住兼職場でそこそこ大きな騒動があり、手紙を読む暇もなく終わってしまった。いや、俺にとってはそれほどでもない騒ぎだったが、世間的には十分“大事件”と呼べる事態が起きてしまった。
結果、折角の手紙は血に濡れて読めなくなってしまった。当然ながら、内容をきちんと読む事も出来なかった。
何とか復元しようとは試みた。あらゆる魔法を駆使して、汚れた紙面を元に戻そうとした。だが、駄目だった。
許されるとは思っていないし、許してもらうつもりもない。破れた手紙、交わらなかった言葉。それも全て、俺の罰だ。一度零れた水は元には戻らないように、犯した過ちも消えない。
手紙1通で大袈裟だと思うだろうか。それとも、そんな大事な物を護れないなんてと叱るだろうか。
分からない。だから、会って直接確かめに行くしかない。
半ば諦め交じりの気持ちを胸に、屋根から屋根へと走る。跳び、渡り、目指すは―――あの学園
「……電話で済ませられば、楽なんだろうけど。」
生憎、俺はあいつとそこまでの仲ではない。
そもそも、あいつが俺の住所を知っていた事自体が不思議だ。まぁ、あの性格なら調べてでも会いに来るだろうが。
それに、此方もただの無名ではない。それなりの階級を持つ公務員であり、陛下の恩赦も得ている。連絡先の1つや2つ、調べる事も可能ではあった。
ただ、もしあいつに何かあったのだとしたら。俺が原因で、面倒や危険が及んでいたのだとしたら。それは……俺が償うべき事だ。
何かあったなら是非とも恨んでくれ、ディアル。お前にはその資格がある。
なんて事を考えている内にとうとう目的地だ。
一般人にとっては堅牢に見える学園の結界も、俺にとっては紙切れも同然。最も、その紙ですらも数多の命を護る役目を今尚果たし続けているのだから壊す訳には行かない。だからそっと触れて、魔力で穴を開ける。
足場にもならない城壁のてっぺんに立ち、仄かに輝く勿忘草色の結界に手を当てる。触れた箇所から円形に穴が広がり、俺1人が通れる程度の隙間が出来た。
後は勝手に自己修復するように魔法式を書き換え、そのまま塔の外壁を駆け上がる。垂直な壁など関係ない。視線と外壁を平行に、ただ駆ける。
見つけた。あいつの部屋だ。
進路を変え、近くのバルコニーに飛び降りる。三流以下であればここで着地音を立てるんだろうが、それじゃあ本職の名が廃る。
コンコンコンッ。
「グレイブ・ブラッディル=ルティア。……開けてくれ、ディアル。」
連絡先が不明故に連絡もなしに来た。幸い、あいつがそれを気にした様子はない。
今さっきまで継続していた書類業務を止め、窓から顔を出したディアルは、俺の姿を見て直ぐに全てを察したようだった。何とも扱い易い奴だ。
「ティア……! はは、来てくれるなら正門から来てくれても良かったんだぞ?」
「……すまない、ディアル。その、……お前から折角貰った手紙を駄目にしてしまってな。どうせお前の事だから招待状の類だったり、はたまた一時的なこの学園敷地内に入る為の何かも用意してくれていたんだろうが、それすらも駄目にしてしまったんだ。……だから直接聞きに来たんだ。」
「あぁ……なる、ほど。なら手紙を見た訳じゃないのか。」
「……悪い。」
「あぁいやいや、責めてる訳じゃないさ。ほら、折角来たんだ、そこに座っててくれ。話もあるし、お茶菓子くらい用意させてくれ。」
「……良いのか?」
「仕事の方か? まぁ大丈夫だ、いつもの事だからな。珈琲で良いか?」
「……貰える物に文句は言わん。」
「はは、相変わらずだなぁ、お前は。」
彼―――クレディアル・ルーカスはシャレル魔導学校の学校長だ。
この世界では世界各国に多数の魔導学園が存在し、数年に一度には在校生の質を見せびらかせる為だったり、はたまた在学生達の進路獲得の為だったり、更には国力を見せる為にもよく国家代表戦に参加する程の名門学区だ。
この学校は6年制であり、学校形態としては高校相当の扱いを受ける事が多い。とはいえ世間一般の高校は最大でも3年制であるのに対し、そもそもとしてこのシャレル魔導学校が専門としている魔法が複雑かつ、元々学問的にも最難関項目として位置している関係からどうしても5年制以下にする事が出来ないともされている。
尚、これはこのシャレル魔導学校に限らず、どの魔法学校でもそれが適用されている。
そんな名門学校の学校長でありながら、世間一般がよく想像する髭面の高齢者かと思いきや、全く以て30代にも見えない程に若く。深い海のような青い髪にそれとは反して冬空の雲1つない晴天のような水色の瞳をしたこいつからは全く威厳と言う物を感じられない。
本人には悪いが、唯一インテリ風を装っているのはモノクルぐらいだ。
どうせ魔法で誤魔化しているんだろうが、俺としてはお前みたいな物腰弱そうな奴は爆発すると怖いから扱い辛いんだけどな。
「……今何か失礼な事考えなかったか、ティア。」
「気の所為だ。」
「はぁ……。はい、どうぞ。」
「どうも。……それで? 元は手紙を駄目にした俺が悪い訳だが、お前の時間があるなら再度詳しく聞かせてくれ。……あの手紙で、お前は俺に何を訴えたかったんだ?」
「じゃあ単刀直入に、本題から入っても?」
「あぁ。」
「ティアに、この学園で教師をやってほしいんだ。」
……教師。
「……教師?」
「あぁ、教師だ。生徒達の前で教鞭を執り、これからの将来を担う若人達に」
「俺が聞いているのはそういう事じゃない。……何で俺なんだ。」
「そんなの勿論、俺が生きてきた人生の中でお前以上に素晴らしい魔法の使い手を知らないからだって。しかもお前は魔法に飽き足らず、剣術も光る物があるし、体術だってかなりの物だった。……あ、福利厚生の方か? 安心してくれ! 勤務中の衣は勿論、食事と住居も喜んで提供するぞ! 給料も」
「い、いや、そ、そうじゃない。……お前、俺の身分を正しく知らない訳じゃないだろ。それが狂気の沙汰だって、どれだけイカレてるか分かって言ってるのか?」
「あぁ、勿論。全部分かってるし、1つだけ訂正してほしいがお前はイカレてない。俺はお前が隠密機動だって知ってるし、常勤じゃあないが軍部の人間だって事も知ってる。」
「なら」
「でもそっちで常勤じゃないなら、こっちも非常勤なら許されるよな? それとも掛け持ちは駄目か?」
「……はぁ。……あぁ、分かった。お前は筋金入りの馬鹿だ。俺は陛下の命令とあらば街1つ焼き消す事なんて造作もないし、そして何よりお前の言うこれからの将来を担う若人達の前にこんな虐殺者を教師として出そうなんて、その発想がイカレてる。」
「だからこそ、だ。だからこそお前が適任なんだ、ティア。ただ知識があるだけの教師も、ほんの少し実力のある教師も探せば多く居る。……それでもティアのように本物の戦場を知る教師はこの国だけでなく、全世界をひっくり返しても見つからんさ。」
「……合理的ではあるが、狂気の沙汰ではある。良いか? もう一度ちゃんと考えるんだ、ディアル。俺はその隠密機動の中でも3本の指に入る程に人を殺してるし、拷問だってしてるし、何なら相手の返り血を浴びて高笑いするような吸血鬼染みた化け物だ。そんな奴を学生の前に立たせるのは」
「……頼む。俺に出来る事なら何でもする。」
あぁ、あぁまたこれだ。
まるで居もしない神様にでも祈るように、何処かの偉そうな帝国同士の戦争にでも巻き込まれ、蹂躙され、後には無数の死体と瓦礫の山だけが残った。その結果に残ってしまった街……否、元街に取り残されたような親子の父親の方が「子供だけでも助けてください」と言わんばかりのこの顔だ。
自覚はある、俺はこの顔に弱い。
「……地下室。これぐらいでかい学校なら地下室ぐらいあるだろ。」
「あぁ勿論あるぞ。今は誰も使ってないただの空き部屋だから掃除は必要になるだろうが……まぁでもかなりの広さではあるぞ。」
「場所は。」
「丁度この学校長室の更に真下。廊下を出て右直ぐの所にある階段を最後まで下れば着く。」
「……はぁ。ならそれを寄越せ。後、もっと詳しい資料も。服装は出来ればこっちで選ばせてくれ、なるべく見れる物にはする。」
「まぁ、魔法学の教員は結構私服も多いからな。それでも良いさ。」
「食事は」
「食事はこっちで用意する。これは譲らない。」
「……分かった、もうそれはそれで良い。……じゃあ今から俺は部屋を掃除して少し寝る。ついでに陛下の方にも連絡は飛ばすから、1時間後なら来ても構わんが必ずノックしろ。後、名前は偽名を使うからな。グレディルア・ルーベル。覚えたか、グレディルア・ルーベルだからな。」
「おう、了解。後で資料持っていくからそれを見て、行けると思ったら声掛けてくれ。お前に1クラス任せたい。」
「1クラス請け負うかどうかは見てから決める。」
「はは、相変わらず実践主義だなぁ。」
「言ってろ。」
申し訳ありません、陛下。……押し負けてしまいました。
表面上は了承されるが、間違いなく調査が入るだろう。その程度で困る事は何もないし、問題など出るはずもないのだが。
「……あいつは、ただの一般人なんだ。」
ディアルと別れ、教えられたままに階段を降りていく。
足で降りるのが面倒なので、魔力で作った板に乗ってそれに運ばれるようにして階段を降りていく。
意外にもこの時間は静かだ。教師達は授業中か、執務室が別棟なのか。まぁそれもいずれは分かる事だろう。
「……ここか。」
まるで儀式の部屋とでも言わんばかりに。この奥に更なる地下へと続く扉のように随分と物々しく、随分といかつい両開きの鋼鉄製の扉と思われる物が鎮座している。
どうやら使用されていないと言うのは本当のようで、その両開きの大扉を封印している南京錠の類も重く、それを外してから今度は扉その物へと渡された鍵を差し込む。
見た目通りの重々しい音を響かせながらも開いた扉の中は使用していないにしてはかなり小綺麗で、大方いつ使うかは分からないが、それでもまぁ必要な時に直ぐ使えるようにと定期的な清掃はしていたんだろう。……それでも過ごすには少し無理があるが。
「……やっぱり改造だな。」