三澄葵
「ただいま」
家の扉を開けて、誰に言うでもなくそう言う。
おばさんがうるさいから覚え、身体に染み付いた挨拶。今では面倒だと思っていても勝手に出るほどだ。
程なくして、リビングの扉が開いた。
「おかえりー、お兄ちゃん!今日はお金は置いてないよ」
リビングから出てきてそう言ったのは、小学五年生の妹。三澄葵。
伸ばした髪の毛をツインテールにしており、身長は百四十弱と平均よりかなり低め。顔はたぶん兄の贔屓目無しで可愛いと思う。
妹と言っても血のつながりは無い。俺がこの家の養子として引き取られたからコイツの兄になっただけで、元々はなんの関係もない赤の他人だ。
コイツと同じ小五の時にこの家に来たが、当時はただ怯えた表情で物陰からずっとこっちを見ていた。四歳のガキだったからな。知らねぇ奴が住みだしたらそうもなるだろう。
だけどある日、おばさんの帰りが遅くなった時に飯を作ってやったことをきっかけに、妙に懐かれた。なんて現金な奴なんだと思ったよ。
「てことは、今日は俺の飯が食いたい日か?」
「うん!作って。お兄ちゃん」
「今からか?」
「うん!今!」
きゅる~ん。なんて可愛らしい効果音が鳴りそうな無垢な笑顔。ちょっとムカつく。妹の飯は、基本俺の飯かおばさんが置いてった金でファミレス行くかの二択だ。
妹の意見で晩飯が外食になるか否かが決まるのはまだ良いとして、ファミレス以外の選択肢が葵にはねぇのがなぁ…。ファミレス飽きてんだよ。
「ったく、よりによって俺の日かよ…。こっちは面倒な女に絡まれて疲れてんのによ」
「あ!お兄ちゃん!女の子を女って言う男の子は、碌な男の子になれないんだよ!忘れちゃったの?」
「あーはいはい。そうでしたね」
全く、何の根拠があって女の子呼びの方が印象が良くなるんだか…。
俺はため息を吐きながらリビングのソファに鞄を投げ捨てて、ハンガーに掛けてあるドラゴン柄のエプロンを身に着ける。
なんで小学生の俺は、家庭科の時にこんなだっせぇエプロンを作ったんだ?
「今日は疲れてるんだ。チャーハンとサラダで良いか?」
「うん!いいよ。お兄ちゃんが作ってくれた物は、何でも美味しいから大好き!」
「そうかよ」
「そう!大好き!」
なんとも物好きな妹だ。俺は味を感じられないから、味見も出来ない。そんな兄の料理をよく美味しいなんて言えるな。
「言っとくが、味の保証はしないぞ」
「お兄ちゃんはいつもそう言うよね?大丈夫。ちゃんと美味しいよ!お兄ちゃんの分まで、ちゃんと味わってるから」
「そうかよ」
「そう!美味しいよ!」
食器棚の引き出しから、自作のレシピが書いてあるメモ帳を取り出す。何度も言うように、俺は味を感じない。あと記憶力も乏しいから、自作していても詳細はうろ覚え。
だからチャーハンを作る時でも、一々レシピを見なきゃいけない。使う調味料は覚えていても、分量がどうも覚えられない。
今までの俺は妹の機嫌を損ねない為なのか、色々と試して来ているみたいで、チャーハンのレシピだけでも数種類書いてある。
「味は?」
「辛いの!」
「小学生らしくない好みだな…」
「そんなの人に寄るじゃん。ていうかお兄ちゃん、それも何回も言ってるね?」
「そうか?覚えてねぇ」
「早く治るといいね!お兄ちゃん」
「……それもたぶん何回も言ってんだろ?」
「うん!言ってるー」
えへへ~っと笑う葵。
記憶力が治って、詳細に思い出を覚えられるようになれば、この笑顔にムカつくことは無くなるんだろうか。
少なくともこうやって世話を焼いているということは、ちゃんと家族として認識しているのは間違いないだろうが……大切に思えているかは、正直微妙だな。
俺は冷蔵庫の中身を確認して、葵に確認する。
「豚キムチチャーハンで良いか?」
「うん!いいよ」
「じゃそれで」
俺はさっそく調理に取り掛かった。
料理の経験と工程はなんとなく覚えてるし、レシピ見ながらやれば身体が勝手に動いてくれた。
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レシピ通りに適当に作った豚キムチチャーハンと、ミニトマトを幾つか乗せたキャベツを千切りにしただけのサラダを葵の前に差し出して、葵の前に座った。
「おあがりよ」
「うん!いっただっきまーす!……………うーん!美味しい~!」
「そうかよ」
「うん!旨辛~!」
どのレシピも最後の方に書いてあった謎の作法。葵に料理を出した時は、必ず「おあがりよ」という漫画の名言を言うと、葵は目をキラキラと輝かせながらチャーハンを食べ始めた。
一体何の漫画の影響なんだか。まぁ俺がそれを読んだところで、たぶん覚えてられねぇがな。
とりあえず飯は本人が満足なようで良かった。
しばらく食べ進めていた葵だが、何を思ったかのか俺にチャーハンを掬ったスプーンを差し出してきた。
「お兄ちゃん、あ~ん!」
「いらねぇ。どうせ味は感じねぇし」
「でもでも、こうやって同じ味を共有していけば、いつか戻ると思うんだよ」
「戻る訳ねぇだろ。そんなんで」
「あーん!」
「……………はぁ…」
俺は観念してチャーハンを口に入れた。……うん。匂いでピリ辛なんだろうなってことくらいしかわからん。
「どう?」
「何の味もしない。食感もキムチ以外大してねぇし」
「じゃあじゃあ、私にあーんされるのは今回で何回目かはわかる?」
「……………三十回目くらいか?」
「ぶー!正解は、九十九回目だよ。でもでも、それなりには覚えてるってこと?」
「うろ覚えだけどな」
「やったー!この調子で、味覚と記憶力の病気を治そうね!はむっ……う~ん!旨辛~」
俺は、俺のことを思ってくれている葵を見ながら、思わず苦笑する。
そうだ。一応覚えてはいる。うろ覚えだがな。コイツが、俺の病気を治そうと、こうして小さな努力をしてくれていることも。
俺がこの家に来る前、詳細は覚えていないが、いじめを受けていた。小四の時だ。
そのいじめがきっかけで俺は精神が崩壊して、とある事件を起こした。その事件の日から、俺は味覚障害と記憶障害を患った。記憶障害に関しては軽いものらしく、その日あったことを次の日には忘れてしまったりすることは多いが、付き合いが深い相手。つまり家族や友人との記憶は、比較的に残りやすいとのこと。
兵頭のことを覚えているのは、アイツは友人ではないがほぼ毎日飽きもせずに俺に絡んでくるからだ。だから性格もある程度は把握出来ていた。
そしてうろ覚えながらも、色濃く記憶に残り続けているのが、妹の葵との記憶。おばさんの顔なんて見なきゃ思い出せないのに、コイツの顔はちゃんと覚えていられる。
……こういうのが、大切な存在って言うんだろうか…。
「……日記書くか」
俺はタンスから一冊のノートと、鞄から筆記用具を取り出して、再び葵の前に座る。その日あったことを覚えていられない俺は、こうして日記をつけることを習慣にしていた。「私との思い出を忘れないでほしい」と言う葵の提案で染み付いたものだが。
えっと……今日の出来事は、確か…。はぁ……忘れたいことばかりだな。
『今日は散々な日だった。昼休みにいつも通り、兵頭の奴がまた勝手に目の前に座ってくるだけにとどまらず、銀髪のロシア人ハーフの天津川って女の子が絡んで来やがった。その時の会話はうろ覚えだが、なんか「お前はただ可愛いだけの女の子」って言ったら笑顔でその場を後にしやがった。変女だ変女。だけどそれだけでは止まらなかった。
放課後に俺と仲良くなりたいとかで、好きな食べ物と嫌いな食べ物を聞いて来た。最初は断っていたのだが、本人が真剣な表情で何度もしつこく懇願して来たのと、兵頭の「それくらい教えてやれば?」という発言。そして周りの奴らから浴びせられる嫌な視線のせいで、完全に俺が悪者の雰囲気だった。だから仕方なく教えてやった。
「サクサクやパリパリなどといった、ASMR向きの食べ物が好き」「逆にステーキなどのASMRに向かない食べ物は苦手」だと。ステーキは焼いている音は好きだが、口に入れてもいい音は鳴らないからな。
なんか「明日頑張る」とかなんとか言ってたが、気にせず天津川のことは無視して良いと思う』
「ダメだよお兄ちゃん。その人のことを無視したら」
日記を書いている最中に、そんな声がかかる。前に座っている葵が、俺の日記を覗いていた。
よくあることなので別に咎めはしない。見られて困るようなことはないしな。
「なんで?」
「う~ん。たぶんその人、そんなにしつこくお願いしに来たってことは、お兄ちゃんの記憶に無いだけで、凄い恩があるんだと思うよ?」
「恩?俺にか?」
「うん!その人って、美人さん?」
葵にそう聞かれて、天津川の容姿を思い出してみる。
銀髪に整った顔立ちをしたハーフで、ミスコン一位を取っていて……
「ああ。ミスコン一位を取ってるから、美人だろう」
「じゃあじゃあ、その人をナンパから助けた覚えとかない?覚えてなかったら、日記に書いてあるとか」
葵にそう言われて、日記を読み返してみる。
が、そんなことはどこにも書いていなかった。
「使い終わった日記に書いてあるのかな?」
「もう何十冊もあるから、探すのは面倒だな…」
「じゃあじゃあ、とりあえず明日聞いてみたら?前どこかで会ったことある?って」
「痛い奴の質問だな」
「でもでも、そうじゃなかったら仲良くなりたいなんて言わないと思うよ?しかもしつこいくらい聞いて来たんでしょ?じゃあじゃあ、絶対お兄ちゃんに何かしらの恩があるんだよ!」
確かに葵の言ってることは筋が通ってる。俺が何度も冷たく突き放すように言ってるのに、あんなに付き纏ってくる理由としては十分だろう。なんせ俺は記憶障害持ちだからなぁ…。覚えてないだけで助けていた可能性はある。
……いやでも、俺が誰かを助けるような男か?……………まぁ、もしそうなら気まぐれかなんかで助けたんだろう。
「それに女の子の気持ちは、ありがた~~~く受け取っておくものなんだよ。あとあと、そんなに必死だったんなら、お兄ちゃんの彼女さんになりたかったりするかもだし」
「それはねぇだろう」
「わからないよ~?お兄ちゃんって、どことなくミステリアスな雰囲気が漂ってて、中性的で結構いい顔してるし、気になっちゃう人だっているかもよ?私だったら、絶対お兄ちゃんの彼女さんになりたいって思う。ていうかお嫁さんになりたい!」
「そういうのをマセガキって言うんだよ」
でも、葵の言葉には一理ある。一応訂正しておくか。
『訂正。葵が言うには、俺が覚えてないだけで恩返ししようとしてる可能性があるとのこと。だからもし、明日何かお礼を言ってきたり、物を渡しに来たりしたら、ありがた~~~く受け取っておく。あと俺との間に何かあったか聞いておこうと思う。じゃないとマセガキ葵がうるさそうだ』
「こらー!私のせいにしようとするなー!」
あとは葵に豚キムチチャーハンを作ってやったことを書いて、その日の日記は終わった。
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