三澄江月
データが飛んで一日遅れました…。
月曜日の朝。
俺は今、リビングで先週の金曜日の日記を読み返している。
いつもは前日の日記だけを読み返しているが、何か忘れたくないことを忘れた気がしたから、そこまで読み返している。
「弁当……天津川…。憶えている」
しかし単に思い出せなくなっていただけのようだ。日記を読み返せば、ちゃんと記憶に残っていたことが確認出来た。
ただ、忘れていたことには変わりない。なんだか天津川に対して、凄い申し訳ない気持ちになった。
……やっぱり、変に関わるべきじゃねぇよな。
『何かを忘れても思い出せるというのは、それが記憶から無くなった訳じゃない。思い出せたのなら、それはまだ記憶に残っているのと同じこと。諦めないで。周りがきっと、思い出させてくれるから』
一昨日、葵が感動のあまり新しく壁に貼ったらしい紙を見て、一旦気持ちを落ち着かせる。葵の言葉があるから、思い出したではなく、憶えていると言ったんだ。
諦めるなと言うが、このまま天津川と中途半端に関わって行けば、アイツを傷付けることになるのは確実だ。だったらいっその事、突き放した方が良い気がする。
……………にしても葵は将来、詩人にでもなるつもりか?気のせいか、無駄にセンスを感じるぞ。
俺が貼り紙を見つめていると、リビングの扉が勢い良く開いて一人の女性が現れる。
その人は仕事の関係上、顔を合わせる機会が少な過ぎて、憶えてられない人だった。ただしそれは、顔だけの話。
「おはよう!やぁ少年。今日もボクの顔を忘れてるのかい?いやいや結構結構!大いに忘れてくれたまえ!この強烈なキャラさえ憶えていてくれれば、ボクはとても嬉しいよ」
「ああ、その強烈なキャラは憶えてられるよ。強烈だから」
「うーん。二度も強烈呼ばわりするとは、なかなか失礼な子だね~」
「自分で言ったんだろうが…」
この人は三澄江月。葵の母親で、俺を引き取ってくれた恩人だ。年齢は今年で二十八だが、まだ学生と言われても信じてしまうくらいには若々しい顔だ。そういえばこんな顔だったな。
その強烈なキャラで、顔を合わせる度に話し掛けてくるから、朧気ながらも憶えていられる。なんかやべぇ奴みたいな感じで。
たださっきも言ったように、顔を合わせる機会が少ないから顔を憶えてられない。今みたいに見たら思い出せるけど。
「なんだか、自分の子どもが将来は詩人になりそうな気がしてくるね。はっはっは」
おばさんは俺の前に座り、葵の貼り紙を見て笑う。この人と同じ考えに至るとか、なんかちょっと抵抗を感じる。
おばさん……三澄江月の職業は映画監督。十代の時には、既に日本では知らない人がいないくらい有名だったらしい。独創的なストーリーと世界観が売りなんだとか。
その分稼ぎがあるから、仮に葵が詩人になりたいと言っても喜んで応援と出資をするだろう。この人はそういう人……だったと思う。
「おや?乙葉君が前日のではなく、三日前の日記を読んでいるなんて珍しいんじゃないかい?」
おばさんが俺の日記を見て言う。
この人は俺の習慣を憶えてくれてるみたいだ。
「ああ。ちょっと、忘れたくないことを忘れてしまった気がして。実際、忘れてた」
「ほほぅ。葵から電話で聞いていたけど、なるほど……まぁ仕方ないさ。ボクも記憶障害を題材とした映画は撮ったことがあって、その際に色々と調べたり取材などをしたが、前日のことを鮮明に憶えられてるだけでも奇跡に近い。それが特定の出来事だけでもね。大抵の人は君みたいに日記を見るか、誰かに教えてもらうかしないと思い出せないものさ。……全く思い出せない人もいるけどね。さらに症状が重い人だと、自分が誰かも忘れてしまうんだ」
おばさんは葵から話を聞いていたみたいで、そんなことを話し出す。
慰めてくれてるのか?
「こういうことに大きいも小さいも無いが、そこまで気に病むことはない。忘れてた、ということは思い出せたんだろう?」
「……ああ」
「じゃあ大丈夫だ。乙葉君のことだから、その天津川っていう子と関わらないようにしようとか思ってたんだろうけど、それは大きな間違いだ。むしろどんどん関わった方が良い。だって、美味しかったんだろう?その子のお弁当」
「明確に思い出せないけど……サクサクで、油がサラサラしてて……うん。少なくとも、菓子パンや俺が作った奴より美味いと思う」
俺の言葉を聞いたおばさんは、微笑みを浮かべた。
まるで自分のことのように喜んでるようだった。
「味を感じない君が満足する料理を作れる。そんな子に好かれるなんて、君は凄い幸運だね」
「幸運?」
「だってそうじゃないか。美味しい物っていうのは、人の疲れた身体と心を癒し、辛い世の中を生きていく為の糧となる。乙葉君の壊れてしまった心、精神……それを治すのに手っ取り早いのは、美味しい食事が一番なんだ。人との関わりを避けて、あらゆる楽しい行事に興味を示さない君には、ね。だけど味覚が存在しない君にはそれすらも難しい。八方塞がりだ。雄一の救いであるはずの読書も、すぐに内容を忘れてしまっては意味がないし、一生君は忌まわしい障害を背負って生きていかなければならない。そう思っていた……」
おばさんの声がどんどん沈んでいき、どこか申し訳なさを感じた。
しかしそんなおばさんは、また微笑みを浮かべて続ける。
「だけど君の前に、君を満足させる料理を作れる奇跡の人が現れた。気付いてないかもしれないけど乙葉君は少しだけ、本当に少しだけだけど、前に見た時より表情が柔らかくなってるんだよ。性格も丸くなった気もする」
「……………」
思わず自分の顔に触れる。
この人が言った通り、自分じゃわからない。だけどこの人の言葉、そして目を見てみると、心の底からそう思ってるというのが伝わってくる。
「聞けば天津川ちゃんというのは、とんでもない美少女らしいじゃないか。もし君にほんの少しでもその気があるのなら、付き合ってみるのもいいんじゃないかな?」
「はぁ?別に好きでもないのにか?」
「ふふっ。君は適当なように見えるけど、実は凄く真面目だよね。普通の男の子なら、好きじゃなくても美少女と付き合いたいって思うよ」
「馬鹿馬鹿しい…。好きでもない相手と付き合って何が楽しんだ?」
恋愛っていうのは、好きな人同士で付き合うのが普通だろう。その方が楽しいだろうし。誰かを好きになったことなんて無いから、知らんけど。
「それじゃあ見方を変えてみよう。天津川ちゃんに猛アタックされてる乙葉君は、今凄く迷惑に思っているのかい?」
「はぁ?そりゃあ良い物食わせてもらって感謝してるし、俺と真っ直ぐ向き合ってくれてる感じはするけど、好きでもない相手には変わりないんだぞ?天津川といると周りの視線は痛いしキツいしで、割と……」
天津川のせいで迷惑してる。そんな風に言おうとしたが、俺はそれを言えなかった。言えるはずがなかった。
だって俺は、そんな風には思ってなかったから。
天津川が作った弁当を、また食べたいって思ったから。あんなにサクサクで、嫌いだった油の感触も全然嫌じゃなかったから。今も食べたいって思ってるから。
……他にはどんな料理が作れるのか気になってる癖に、迷惑だなんて言えるはずもないし、思えない。
「そうだよね……乙葉君は真面目で、誠実な人間だ。相手の気持ちを真っ向から受け止めて、それを蔑ろにすることなんて出来ない。君が気付いてないだけで、この子となら……という気持ちがあるはずだ。そうじゃなかったら、三日前のことを忘れたくないなんて思わないはずだし、よりわかりやすい例を上げるなら―――」
おばさんは俺の日記をページを捲り、一つの名前を指した。
「天津川ちゃんだけでなく、この兵頭君という友達志望の子とも、毎日一緒にお昼を食べたりしないだろう?とっくに突き放してるはずだ」
俺はおばさんの言葉に反論することが出来なかった。
心当たりがあり過ぎた。確かに俺は、兵頭のことすら態度では嫌がっていても、心の中ではそこまで突き放してなかったと思う。
「君の言うことも大事だけど、より大切なのはその過程だよ。恋仲になるというのは、所詮結果でしかない。ボクがあの人の猛アタックで落ちたみたいにね」
おばさんは、タンスの上に置いてある写真立てを見ながら言う。
「だから君も、まずは過程を楽しむといい。恋愛っていうのは、そこが一番燃えるものだからね」
明日もこちらを投稿します。
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