一章 三 おいしい? シルバー。
三
シルバーが去り、フェリアスは心細くて仕方がなかったが、昨日会ったばかりのシルバーに縋るわけにもいかない。フェリアスは仕立て屋に向かい、花嫁衣裳を下取りに出すことにした。
馬車から持ってきていた兵士の服に着替え、花嫁衣裳を仕立て屋の店主に渡すと店主はフェリアスと衣装を交互に見比べる。
「なかなか上等なものだな」
「でしょう? お買い得よ」
「普段ならそうだが、みんなここから逃げ出すために物を処分してるんだ。……これくらいでどうだ?」
そう言って店主は金貨を五枚勘定台に並べた。王宮で何不自由なく育ったフェリアスは、金貨五枚がどれほどの価値のものかわからなかったが、店主の言うことは理解できた。皆、移動に備えて身軽になるため物を処分しているのだ。だから買取の価値は暴落している。だが多少買い叩かれようとフェリアスには現金が必要だった。
「しょうがないわね。それでいいわ」
「すまないな。これ、客から買い取ったものだが持って行ってくれ」
そう言って店主は女物の普段着や下着を数着渡してくれた。店主も荷物は少しでも減らしたいのだろう。
「ありがとう。助かるわ」
フェリアスは背嚢に服を詰め込む。次にフェリアスは食料品店に向かい、食料を調達することにした。長旅でも腐らず日持ちするものを買わなければならない。フェリアスは馬車で兵士に渡されていた食料を思い出す。あの時はそんなことは知らなかったからてっきり嫌がらせか何かだと思っていたが、干し肉や果物、炒った飯粒はすべて日持ちする食材だから用意されていたのだ。
(二百日分の食糧なんて到底持てないんだから、ゆく先々の町で調達しながら進むしかないわね……)
食料品店の店主の話によると、ここから西に馬で三日程行ったところに小さな村があるらしい。次はそこに行こう。
続いてフェリアスが向かったのは厩舎だった。長旅に馬は必須だった。幸いフェリアスは王女ということもあり、乗馬の訓練は受けていたので馬の扱いについては問題にならなかった。
「あのう」
厩舎で馬の世話をしている五十代の男に声をかけると男は手を止めてフェリアスに振り向いた。
「どうしたんだい」
「馬が欲しいのだけど」
「みんな馬を調達しているからな。いい奴はもう売れてしまったが構わんかね」
「私が乗るだけだから構わないわ」
フェリアスがそう言うと、男は何頭かの馬を順番に指差す。
「その栗毛は七歳の牝馬、その葦毛は九歳の牡馬、その青毛は十歳の牝馬」
フェリアスは一頭づつ馬を眺めていく。乗馬の訓練をしてくれた兵長から聞いた良い馬の見分け方を思い出す。
「毛並みが良くて、後ろ脚の筋肉がついていて、背中がいい……」
フェリアスは葦毛の前に立つ。葦毛の毛並みはあのシルバーの髪を思い出させた。
「この子がいいわ」
フェリアスが指をさすと男は頷く。
「金貨三枚だ。払えるか?」
「ええ。これでいいかしら」
フェリアスは残っていた金貨三枚を出した。金貨はどうやらかなりの高額通貨らしい。馬のオマケに馬用の飼料を分けてもらったフェリアスは葦毛の馬の手綱を受け取る。
「これでよし。大事にしてくれよ」
「もちろんよ。ありがとう」
フェリアスは頭を下げて厩舎を出る。馬に食料に服。当面の準備はできたように思えた。
フェリアスは馬の額を撫でる。
「お前に名前を付けてあげないとね」
フェリアスは葦毛の美しい毛並みを見て、一つの名前が頭から離れなかった。
「よし、お前はシルバーよ」
フェリアスはくすくすと笑い、馬は鼻を鳴らした。それからシルバーに騎乗したフェリアスは村を出発し、しばらく平坦な街道を進んだ。街道は平和で魔物と出会うこともなく、休憩を取りながら西に向かう。
「おいしい? シルバー。 気持ちいい? シルバー」
旅の友はこの馬しかいない。シルバーは飼料を食べ、フェリアスに撫でられて喜んでいるようだった。
(わたし、シルバーさんに会いたいのかな)
あの美しい銀髪に銀の瞳、赤い外套の姿が瞼の裏から消えない。思い出すだけで胸が高鳴るのだ。
やがて街道の脇に野営地が現れた。街道には馬で一日進んだ距離毎に野営地が設けられており旅人が集まって休みやすいようになっている。野営地といっても壁一枚に屋根がつけられた、建物を半分に割ったような設備と竈が用意されている程度で、雨はしのげるな、というものだ。
フェリアスは野営地に到着すると野営地には一組の若い男女がいた。馬から降りて馬繋ぎに繋ぐと男のほうが声を掛けてきた。
「やぁ」
「こんばんは」
「君も西の村に行くんだろう?」
「えぇ、そのつもりよ」
男は馬をちらりと見る。
「僕らは徒歩でね。大変だよ」
「買えばいいじゃない。村の厩舎にはまだ残っていたわ」
「僕も妻も馬なんて乗れないよ。君は兵士の恰好をしているけど、兵士なのかい?」
フェリアスは馬車から持ち出した兵士の恰好をし、剣も携えているので兵士に見えるのも無理はない。
「……まぁ、兵士というわけじゃないけど、馬は訓練したわ」
「ふうん。兵士じゃないなら、斥候とか、伝令みたいなものなんだね」
フェリアスは斥候や伝令と言われたが、特に不都合は感じなかったので曖昧に頷いた。
「まさか龍の成体が現れるなんてね。おかげで村を棄てなきゃならない」
「軍隊は来ないのかしら?」
フェリアスは当然の疑問を口にした。普通自国領が危機的状況にあるならば軍が派遣されるものだ。
「アライモス王は争いがお嫌いで、軍はかなり縮小されていたんだよ。国としての体裁が保てるギリギリの数しかいない。どの国も軍を持たなければ平和になるだろう、という理屈でね」
「そんな。魔物だっているのに」
「だよねぇ。魔物に限らず災害だってあるし、治水の工事を軍が手伝うこともある。でも、軍がお嫌いだったのさ」
平和主義、というのは良いことだがこういう事態に対応できなければ国を治めているとは言い難いだろう。フェリアスはアライモス王の気持ちも分かったが、現実との差に複雑な気持ちになった。
やがて簡単な食事を終え、薄い毛布に包まって眠ることにする。男女のほうは焚火で談笑していた。
(徒歩は大変ね)
ここまでの疲れが一気に出たのか、フェリアスはすぐに眠りについた。
夜中、小さな地鳴りを感じたフェリアスは目を覚ました。男女は既に眠っており、焚火は残り火だけになっている。
(何かしら)
再度、小さな地鳴り。それと同時に東側の空が赤く輝いている気がする。
フェリアスは飛び起きて東の空を見た。輝いているのではない。燃えているのだ。あの方向は自分が出発してきた村の方向だ。
寝ていた男も二度目の地鳴りで目を覚ましたようで、起きてきた。
「村に何かあったのかな」
「そうかもしれません」
単なる火事ではないような気がする。
「これだけの距離があったら僕らにはどうしようもないな」
確かに馬で一日移動したのだからすぐに村に戻ることはできないだろう。しかし、フェリアスは居ても立ってもいられなかった。起きていたシルバーに駆け寄り、手綱を外す。
「行くのかい? 君が行っても……」
間に合わない、とまでは言わなかったが、フェリアスも薄々感じていた。
「行きます。お世話になった村だもの」
そう言ってフェリアスは馬に飛び乗り腹を軽く蹴るとシルバーは滑らかに走り出した。
お昼前から村を出て夕方にあの野営地についたのだから、単純計算では今から向かっても昼前くらいになるはずだった。走りながら村の方角を見ると次第に炎が空の上まで伸びていくのが見え、村の悲鳴が聞こえてくるかのようだった。
フェリアスは夢中で馬を駆った。極度の集中はフェリアスに備わる王族の魔力を励起し、騎馬を強化していく。通常の六倍から七倍の速度が出ていたが、夢中で走るフェリアスはそれに気づくことはなかった。
炎がかなり近いと感じた時、馬が速度を落とした。
「どうしたの? まだそんなに時間は経っていないはずだけど」
炎の熱気まで感じる距離に来た時、フェリアスは村の入口に辿り着いていた。
「嘘……村に着くのは昼頃になるはずなのに」
ふと空を見上げた時、空を焦がす炎に巨大な影が見えた。その瞬間、馬が嘶き、フェリアスを振り落として走っていく。地面に落とされたフェリアスは背中を打ってしばらく息ができなかった。
「いたた……ひどいなもう」
起き上がってもう一度見ると、見間違いではなかった。それは巨大な爬虫類。この前馬車を襲った地龍の何倍も大きい。成体だ。今のところフェリアスには気付いていない。フェリアスは燃え盛る村に飛び込んだが、中には誰もいなかった。みんな避難したのだろうか。
その時、龍の咆哮が聞こえた。まるで何かと戦っているかのようだ。よく見ると龍も手傷を負っているようで、かなり怒っているようである。一体何と戦っているのだろうか。
フェリアスはもう少し近くまで行ってみたが、すでに戦いの音は止んでいた。もう龍にやられてしまったのかもしれない。その時、微かに声が聞こえた。
「クソッタレ……」
聞き覚えのある声。フェリアスの足は自然と早くなり、鼓動は高まった。不安と嬉しさが混じり、涙があふれる。
木の根元には見覚えのある銀色と、赤い外套。
「シルバーさん!」
フェリアスは駆け寄りシルバーの身体を確認したが、小さな傷こそあれ、大きな怪我はないようだった。
「お前か……何故こんなところにいる」
「村が心配で」
「馬鹿なやつだ。村人なら俺が逃がした」
シルバーさんが村人を逃がしてくれたんだ。だから村に誰もいなかったのか。
「あれと戦ったの? 無茶よ」
「奴の目で睨まれたせいで足が震えて起き上がれない」
フェリアスは地龍の幼体に見つめられたときの恐怖が再び胸を襲った。あまりの恐怖に歯が鳴ったのだ。龍の瞳には魔力があり、心を砕いて戦う気力を打ち砕く力がある。成体の魔力ともなれば歴戦の戦士であろうと簡単に心砕けるだろう。
「マズい。奴がこちらに気づいた」
「嘘」
上を見上げるとそこには影。だがまだ完全には見つかっていない。何かを探しているようだ。
「何か探しているのかしら」
「俺たちを探しているんだろう。腹ペコってやつだ」
やがて龍は探すことを諦め大きく息を吸い込んだ。それを見たシルバーは声を抑えながら警告を発した。
「炎を吐く気だ!」
フェリアスが身構えると同時に龍は首を振りながら炎の吐息を吐き出した。フェリアス達に直撃こそはしなかったが、その熱風と風圧で二人は飛ばされ地面に打ち付けられる。
「きゃあ!」
フェリアスは衝撃で意識を失ってしまった。