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ノイズブレイク

作者: 悪道楽ウロ

別でやってたんですけど、手違いでアカウントには入れなくなってしまったので再稿します。一週間で本作のボリュームは5倍ほどに加筆修正を加える予定です。

木々が赤みを帯びてくる季節の事だ。


この日、紅葉が醒めない夢を私に見せているのか、私の気持ちは過去最高に浮き足立ち、高揚していた。


見慣れた退屈な無味乾燥な灰色の日常風景が赤く煌めいて全てが尊く道端に咲く野草でさえ、今の私には美しく見えた。

今日は私が長年片想いをしていた少女と、初めて二人で外で約束をして会うのである。


約束の場所には約束の時間より早めの15分前に着くように家を出た。寝癖もない歯も磨いた、シャツもアイロンを掛けた。渡したいプレゼントの入った小箱を胸ポケットに忍ばせた。届けたい言葉も何度も練習した。今日の私は完全無欠、大丈夫だと期待と不安が入り混じり激しく鼓動する心臓に手を当てた。


少し年季と生活感を感じる自宅の扉を開けた。薄暗い廊下へ外の世界から一筋の光が私の視界を眩ませた。慌てて、左手で目を覆う何ともマヌケな姿であったであろう。それを、偶然にも古くから隣の家に住むおばさんと鉢合わせになってしまい、一部始終を見られてしまっていた。


「あら、阿形さんお久しぶり。何だか楽しそうね、良いことあったの?」


物腰柔らかで上品な印象を受ける婦人は箒を片手に私に向かって微笑んでいた。


「あ、あぁ、野木さん、こんにちは。今日は凪と出かけるんです」


「あらまぁ、そうなのね。そうなの。うん、いってらっしゃい」


おばさんは驚いたような心配そうな表情をしていて、そんなにも恋愛における私の奥手、或いは人付き合いの下手さを気にかけているのかと思うと少し自分が情けなくなった。


「はい、いってきます」


少し胸にわだかまりのようなものを覚えつつも、すぐにこの後のデートに想いを馳せ、胸を躍らせ、ソレを忘れていた。


私がその言葉の意味に気付く事にはまだ早かった、または遅過ぎたのかもしれない。それとも知らないふりをしていただけなのかもしれない。


デートと言っても実際は予算やお互いの予定を加味した結果地元が観光地である為、地元の町を歩くだけの簡素なものであった。地元の町は古くから城下町として栄えており、今現在景観を壊さないために電柱や信号機、果てには想像する様な街灯がなく、代わりに暗くなれば電球を入れてある灯籠に明かりが灯る仕様になっていた。しかし、祭りの時期以外は寂しいもので昼間でも人通りはまばらであった。


そんな見慣れた風景を次々に背後は置いてけぼりに、その先にある想いが強く私は決して振り返る事はなかった。あまりにも期待に胸を躍らせていた為に、いつの間にか私は走っていた様で、約束していた公園に着くのに時間はあまり要さなかった。酸欠気味の私の頬を一筋の汗が流れ落ちた。


城下町を見下ろせるように高く作られた堀には今は亡き天守閣に背を向けられるように作られた大きな時計のある公園、その時計の前での待ち合わせだ。当初自分が行こうと思っていた時間よりは早めで、約束の時間の20分前に到着できた。


今現在、1日のうちで最も日差しが厳しくなる時間帯ではあるが、この葉が紅く色付く時期になれば暑さも和らいでいた為、比較的過ごしやすい気候であった。


「よし、今日は頑張るか」


そう、何気なく呟きながら、気合いを入れるように両手で自らの頬を軽く叩いた。私は頭になく気合いを入れている自分の慌てように少し可笑しく思えて笑えた。数日かけて今日の為の計画を立てたのだ、人事は尽くしたあとは天命を待つだけなのだ。しかし、頭では分かっていても不安で少し手が震えていた。


そして、そんな自問自答を繰り返しているうちに、約束の時間となったが、彼女はまだ姿が見えない。遅刻なのか、連絡はない。真面目な彼女が時間に遅れてくることは勿論、連絡の一つもないことに言いようのない不安がよぎっていた。


「遅刻か?なんかあったのかな」


そう私がスマホを胸ポケットから取り出して電話をかけようとした、その時だった。


「やぁ、阿形。残念ながら遅刻じゃないよ」


振り返ると舌を少し出しながら微笑んでいる彼女がいた。驚かせる為だけにわざわざ遠回りをして裏から回っていたようで、彼女が私の顔に押し付けてきた彼女のスマホの画面には、緩みきった無防備な表情をしている私の写真が映し出されていた。私は左手を顔に押し当てながら太い溜息を吐いた。

彼女が着ている白と水色の二色のワンピースは、彼女の無邪気さ、清らかさ、そして、今にもこの世界に溶けてしまいそうな儚さを象徴しているようで、あまりに美しく愛おしく思えて、息を飲んだ私には気の利いた褒め言葉の1つも口にする事ができなかった。


「今日はよろしくね」


そういい、私は彼女に手を引かれた。彼女の手は小さく絹のような、きめ細かさと驚くほどヒンヤリと冷えていた。

手汗はかいてないか、変に力が入っていないか、今日の私は彼女の横を歩くのに値するのか、色々な不安の種が頭をよぎっては行くが、千の言葉を用いても表現できないほどに愛しているそんな彼女の横顔をこんなにも近くで見れるという幸福感が不安さえも消し去っていた。


「そうだな、行くか」



この時計の正面にある階段を下ったところにある、私が幼い頃から通っている馴染みの深い甘味処に立ち寄った。

もう夏も終わってあるというのにも関わらず、いつも店の軒先には「おいで、おいで」と客引きをしているかのように、心地良い音色を奏でる風鈴が幾つかブラ下がっている。

隠れ家的な店ではあるが、甘い香りが地元の人や城の近くを歩いていた観光客も引き寄せられるように、こぞってこの店へやってきた。

いつも優しそうなお姉さんが出迎えてくれるが、この日は違うバイトの人が出迎えてくれた。

この店の和菓子は例に漏れずとても美味しくて、小さい頃は誕生日やクリスマスはケーキじゃなくてこの店の和菓子を食べる習慣があったほどである。

店の軒先が縁側のようになっており城と紅葉、季節によっては桜を堪能できて風情があるのだが、今日は珍しく縁側には誰も座っていなかった。

商い中は常に店の扉は開いていて、私は数人の客が店内を物色している後ろにそっと立った。


「あ、坊っちゃんお久しぶり」


和菓子の職人というよりは格闘技の重量級の選手にしか見えない筋骨隆々な店主が私に気付いて挨拶してくれた。


「お久しぶりです。今日は凪を連れてきました」


「…おぉ、そうかい1人じゃなかったのか。じゃあ、たまにはサービスするよ。いつものでいい?」


「本当ですか、ありがとうございます」


そうして、いつもより大幅に値引きしてもらい、軒先へ先に向かって料理を待った。彼女も甘い物が好きで、初めての店で待ちきれないのか鼻歌を歌っている。

そっと、私は彼女がベンチに置いている手に私の手を重ねてみた。彼女は、こちらにもたれかかる様に私の肩に彼女の頭を乗せてきた。今最高に鼓動が早くて、聞かれているのでは、と思うのと同時に、肩に伝わる彼女の体温を感じていた。いや、しかし緊張し過ぎて息が詰まってしまっている。今相当に顔が赤くなっているのだろうと思い、出来る限り顔を彼女から逸らす様に向けていた。

そうこうしているうちに、珍しく店主が料理を運んで来て、凪の方を一瞥してから「ごゆっくりと…」と言い残して店の奥に戻った。

何か言いたげな表情をしていたが、基本無駄な事をあまり話すことのない店主だ、冷やかしの一つも言いたかったのだろう。

甘い香りを肺腑の奥まで吸い込み、椀に入っているぜんざいを掻き込んだ。何故か今日はいつもよりがっつきたいそんな気持ちだった。一緒に出された抹茶も一口に飲み干してしまい、愉悦に浸っていた。

凪、彼女もゆっくりではあるが幸せそうな笑みを浮かべながら足をバタバタし喜びを表現していた。

その幸せそうな顔を見ていた私の目から、何故だかは分からない一縷の涙が頬を伝っていた。彼女に心配されてはいけないと私は慌てて目をこすりソレを拭い去った。少しずつ陽が傾き、この幸せな時間もいつかは終わる、そういった不安や焦りを胸の奥底で感じていたのか。しかし、私はその沸き立つような何かを見て見ぬ振りをした。


「美味しかったね、次は何処行くの」


「次は最近この近くの森林公園の上に展望台ができたらしいんだ。俺は一度凪と、いや凪と最初に行きたかったんだ」


「へぇ、そこまで言うなら少し期待しちゃうかな」


悪戯に、いや無垢な少女のような笑みに私は何度も心を奪われている。その幸せそうな表情に少しズルいなと嫉妬してしまう事もある。


今度は私が勇気を出して彼女の手を取った。しかし、後ろは振り返らなかった。照れて赤くなっているなんて、余裕のない顔彼女には見せたくなかった。ソレに先程から何故か時たまに流れ落ちる涙の正体も分からない、涙なんて絶対に見せたくなかった。靄のかかった私の奥底の何か、と言うべきなのだろうか。それと紅葉が見せる幻惑なのか。彼女がこんなにも傍にいるのに何故だか悲しい、近くにいるのに限りなく遠い隔たりを感じてしまう自分が我ながら情けないと思った。


決して、涙を、弱々しい私の姿を彼女に見せたくない一心で彼女の手を掴みながら、私の顔を見られないように少し前を歩いた。

この長い階段、一歩一歩が今までの日々を回想させる時間となっていた。既に日が落ち始め、夕闇が迫る頃、今現在登っている階段の両脇には一定間隔で可愛らしい装飾を施してある小さな灯籠に灯りがついて公園までの道のりを優しく照らしてくれていた。


「綺麗、本当に綺麗」


そういって彼女は、私の手を先程より少し強く握った。それに呼応するように私も少し強く握った。

今彼女はどんな顔をしているのだろうか、笑ってくれているのだろうか。流れるものを拭い、私は彼女を一瞥した。彼女の目には、このキラキラと光る明かりが潤んでいる瞳には万華鏡のように写っていたように見えた。


そして、数分かけて階段を登った先には、木で出来た櫓のような展望台と、その真ん中には人の頭の大きさほどの小さな鐘があった。ここは大切な人と二人でこの小さな鐘を日没後に鳴らした2人は永遠のものとなるという話が巷で話題となっていた。

しかし、その永遠のモノにするという事に関しては曖昧な表現でイマイチどういう事なのか私には理解できないが、実際この場所は町が一望できて絶景とはいかないものの雰囲気も良くデートスポットとして絶好の場所であり、こじ付けの話であったとしても今の私にとっては、かけがえのない与太話であった。


着いた頃には、ちょうど日が落ちて公園の中の数多くの電飾が煌びやかとはいかないものの幻想的な雰囲気を醸し出していた。そうこうしているうちにチラホラと恋人達が集まってきて、いつもなら嫌悪の対象であったろうが、今しがたは他の人達から見たら自分達も同じようなものなのだろうと少し気恥ずかしくも笑みが溢れてしまった。


彼女とこうしてデートをする日が来るなんて思いもしなかったと感慨深かった。彼女は私の事など、頭の片隅にも置いてくれていないだろうとさえ思っていた。

しかし、今彼女はこんなにも傍に、私の傍にいる。


「ねぇ、そんなに黄昏ちゃって何考えているの?」


「あぁ、凪の事改めて好きだなって。ごめんな、色々ちゃんとした告白のセリフとか考えてはいたんだけど、結局伝えたいのは言葉じゃなく気持ちだからロマンチックでもなんでもないよな」


私も彼女もソッと繋いだ手を誰が言うでもなく離した。彼女は真剣な顔をして私の目を見ながら話を聞いてくれていたが顔を見られたくないのか俯いた。


「なによそれ、随分と遅い告白じゃん」


そして、彼女は私の服の袖をギュッと掴んだ。そして、何も言わずに私に笑いかけた。


「阿形」


突然、名を呼ばれ振り返ると、少し離れた場所から1人で花束を肩に乗せるように持っている男性が歩いてきた。


「佐々木か。相変わらず空気読めないな何してるんだよ」


「はぁ、訳分からないな。なんだ、お前は違うのか?」


いつも空気が読めない男ではあるが会話が成り立たない事に私は何か途轍もない嫌悪感と違和感を感じた。花束の中の花は全てブーゲンビリア、これは凪が大好きな花だ。何故佐々木がこの花を持ってここに来たのだ。


「ブーゲンビリア、花言葉は貴方しか見えない」


消え入りそうな声で凪が確かにそう呟いた。この時、何故か涙が無意識に流れ出した。聞きたくない、これ以上は聞きたくない。彼女は肩を震わせて蹲るような姿勢で泣き出した。


「佐々木、凪、どういうことだ?」


「あぁ、そうだったな。お前は、そうだ。そうだな」


空気も読めない酔狂な人間である佐々木が、いつになく真面目な顔をしていて、それに対して私は何も言い返せない圧力を感じた。


「ちょうど1年前、凪はここでお前と一緒にいた時に通り魔に刺されて、そのまま。お前、やっぱり記憶が」


私はその瞬間、その場で嘔吐した。正常だと思っていた日常が実は全ての歪んだ偽物だったというのか、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。


そうだ確かに今日会った人達の様子を改めて考えてみると違和感があった。彼女を凪のことをちゃんと見ている人は言われてみれば誰一人としていなかった。それにこの1年間の記憶という記憶も思い返してみれば気付いたら病院にいて、その前の記憶が曖昧になっていた。しかし、凪は今私の目の前にいるのだ。それは間違いない。


「凪、それは本当なのか。なぁ、嘘だよな」


「私は…貴方の思い出の中の私」


凪がそういった瞬間、この丘に一筋の風が吹いた。


目が開けられない程の強い風で沢山の赤い葉が視界を遮った。それはまるで凪と私の間に立ち塞がる巨大な赤壁であった。


「さよなら、ありがとう。大好きだよ」


「凪、行くな。行かないでくれ」


私は必死に叫びながら手を伸ばした。しかし、風が止んだ時既に凪の姿は跡形も無くなっていた。

その場で私は膝から崩れ落ちた。不思議ともう一粒も涙は出なかった。全て枯れてしまった。


どれくらい時間が経ったのだろうか。辺りはもう人影も殆どなく灯籠と丘の下で光る町のの薄明かりだけが我々を照らしていた。


「阿形、帰ろう」


そういって佐々木は阿形の肩を叩いた。彼自身も阿形や彼女のことを本気で思ってあるが故に、阿形の心の深い傷にも彼女を失った彼自身の心の傷、様々な思いがあったのだろう。しかし、彼は目頭に涙を溜めてはいたが、グッと歯を食いしばり自分は泣いてはいけないと言わんばかりに無理にでも平気なフリをしていた。


「佐々木、すまない。いつもお前ばかり損な役割をさせてしまって。あとで何があったのか詳しく聞かせてくれないか」


「馬鹿にするなよ、阿形。お前ほどじゃねぇよ。相当気分のいい話じゃないぞ、胸糞の悪い話だ」


佐々木は阿形の身体にある未だに生々しさの残る無数の深い傷跡を一瞥し、目を閉じた。そして、あの日のことを一つ一つ、犯人と直接会話したことがあったわけでもない、実際にどう思っていたかなんて分からない。犯人が残した手記と当日佐々木がその目で見たもの、そして裁判での犯人の発言をポツリポツリと辻褄の合うような形でゆっくりと語り始めた。


…私は光に憧れていた、恋い焦がれていた。しかし、光は私を嫌悪していた何もない五畳一間の部屋という土の中から出ればたちまちに私は焼き尽くされてしまうだろう。


私は土の中で眠り、土の中で息をする、光を感じることも出来ない螻蛄だった。

太陽は光は、外界に対しての門番か土の中という監獄から脱獄するものを刎ねる衛兵か、いや光は人々信仰の域にさえ達していた、光の中暮らす住民に対しては優しく微笑み土の中の私のような存在を見下し踏み付けるソレは死神だった。

だから、私が外を歩けるのは草木も眠る丑三つ時。光が差し込む時間は人々の雑踏に押し潰されるような場所でも誰に会うこともない、死神さえも眠る時間が私に許された時間だった。


逃げるだけで戦う事もせず怠惰に過ごす土の中は快適だったか、そんな事、よく聞かれるが日々の気を失うような暴力や喜びもない奴隷のような監禁に近い生活でもよければ代わって差し上げたい。

表で息をする人々は短絡的だ、土の下1センチがどうなっているかすら実際には分かっていないクセに知った気でいる。


悪には悪の憩いが必要であると共に悪には悪を裁く法がある。それは決して悪法ではない。君達はいつも土の中で踏みつけられている螻蛄を哀れんだ事はあるか、気にした事はあるか。嫌悪さえすれど、君達は救おうとしない、そんな君達は誰も救えないと知るがいい。私は今日この日、それを宣言する為にこの事件を起こしたと言っても過言ではない。


謝罪の言葉か、いいな。謝罪の言葉、私は到底許されない事をしてしまった。償いは言葉ではなく刑罰として重く受け止めるつもりだ。


あぁ、でもそうだな。彼にだけは謝っておきたかったな。もう動かない彼女に覆い被さり、最後までどかなかった彼。彼に私は初めて本当の誰に対しても平等に注がれる大いなる光を見た、そしてトドメを躊躇ってしまうほどの私の心を突き刺した権威も老若男女も貧富問わず平等に押し潰してしまうような敵意、悪意に惚れてしまった。

彼女が呟いていたが、なんていう名前だったか。

そうだ、阿形、阿形だ。彼に伝えてくれ、君は最高の。


悪になれる。


突拍子もないというか結局、何も分からない話であった。社会が歪ませた異常な精神性といえばいいのか。

だが、この男には明確な欲望、思想がありその思想に基づいた行動の結果が先の事件だったのだろう。


かと言って、大切な人を亡くした人々の悲しみを、異常性にあてられて眠っていた異常を目覚めさせた事を、そして凪の笑顔を奪った事を、ありとあらゆる狂気と恐怖の種を植え付けた事を許すわけにはいかない。


この一年で触発されたとされる事件は国内で数百件を超していた。

よくある失うモノがない人によるものではなく、普通のサラリーマンが、普通の主婦が、突然その心の中に眠る悪意に手を染めてしまった。

正義は難解で高尚である、しかし悪とは陳腐で月並みなのだ。

悪の芽は摘まなくてはならない、花を咲かせればやがて種を蒔く。一つも残してはいけないのだ、しかしそれはつまり何も残さないのだ。それほどに悪はありふれていた。


佐々木はひとしきり話尽くしたところで、手に持っていた花束を阿形の胸に押し付けた。

そうか、ここは慰霊の意味も込めて作られた一つのモニュメントだったのか。この鐘は、鎮魂の為に作られたあの世との窓口とでも称せばいいのだろうか。

長い灯籠の階段はそのあの世により近い場所へ行く為に少しでも明るくする為に作られたモノなのだろうか。


鐘のある展望台の小脇には小さな石碑があり、そこには数多くの花が献花されていた。

阿形はフラフラとその石碑へと近付いて膝から崩れ落ちるように、その石碑の前に座り込んだ。そして、犠牲者の名前の羅列を一人一人小声で読んでいった。


『…葉桜 凪 以上13名ここに眠る』


石碑の最後の最後で凪の名前が刻印されていた。私は冷たい石碑に抱きつくような形で、子供のように泣きじゃくってしまった。


ポツリポツリと雨が降り注ぐ。雨夜に彼の悲痛な泣き声が響き渡った。


どれほどこうしていたのだろうか、既に霧雨となっている世界には佐々木と私しか既に残ってはいなかった。


「なぁ、佐々木。彼女は醒めることのない夢を見ているのだろうか」


「あぁ、きっと。幸せな夢を見ているさ。こんなにも愛してくれているお前みたいな人がいるんだ、幸せな夢を見ているはずさ」


佐々木も石碑の前に座って目を瞑り手を合わせていた。阿形は素直に佐々木のような本当の意味で優しさを持つ人間に憧れを抱いていた。

佐々木もまた阿形の誰かを自分が壊れるほど愛する真摯さに憧れを抱いていた。


「なぁ、佐々木。死ってなんだろうな」


「おい、早まったことを考えるんじゃねえぞ」


阿形は長い溜息をついた。そして、違う違うと首を横に振った。


「彼女は俺の中で生き続けている、死んでいるのに、だ」


「そういうことな。そうだな、不思議だな」


「愛されていなかったということは、生きていなかった事と同義である。逆に今なお愛されている彼女はまだ生きているってことなのかもな」


「ルー・サロメの言葉だっけか。本当の死は忘れられた時だっていうし、彼女を二度目も死なせる事のないように毎週、いや毎日だってここに手を合わせに来よう」


阿形はその佐々木の返答を聞いて、やっと笑った。

持つべきものは友とまでは言わないが、心置きなくなんでも話せる相手というのは代え難い存在なのだろう。


別に、彼女の死を乗り越えたわけでも犯人を許したわけでもない。しかし、今日この日で気持ちに一区切りがついた。そんな気がした。


これから、何週間、何ヶ月、何年たっても私は彼女という私にとっての太陽を忘れる事はない。

しかし、犯人を裁くのは司法であって私ではない。私が仮に犯人に手をかけてしまった時、彼女に向こうで合わせる顔もなくなってしまう。


今まで雑音で感覚が壊れてしまっていた世界は、正常な状態を取り戻し、私は一年ぶりにみた世界を反芻するかのように何度も肌で感じていた、目で耳で、感じていた。


ふと、寒くなりポケットの中に手を入れた。中に身に覚えのないものが入っていた。

手にとってそれを見た。


それはあの日、凪のくれたネックレスだった。それを私は一度握り締めてから意を決したように自らの首につけた。


「さ、帰ろうぜ阿形」


「仕方ないな、帰るか。じゃあな、凪愛してるぞ」


そう言って2人は石碑に背を向けて立ち去った。

2人とも今日に限っては振り返ることはなかった。

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