本物はだあれ
ガタガタと揺れるバンが、山道を登っていく。
私は腕時計で時間を確認する。かれこれ十五分はこうしてバンに揺られている様だ。
時刻はもうすぐで午後六時を回るところだが、猛暑日となった八月真っ只中の今日は夕方と言うには空が明るすぎる。けれども、先ほどまで五月蠅いくらいに響いていた蝉しぐれが嘘のように、バンが山道を揺れながら登っている音だけが今は聞こえている。
「結構登って来たけどかなり揺れるな。こんな山奥だとは思わなかったぜ」
運転席の後ろの席に座って窓の外を眺めながら、安斎はやれやれといったように呟く。暗めの赤に染められた短髪に沢山のピアスといった、ビジュアル系バンドでもやっているかのような風貌をしているが、その整った顔は常にだらしのない笑みを浮かべている。
「確かに思ったよりもきつい道だったが、もう少しで着くはずだから我慢してくれ」
運転席から心地いいバリトンボイスの穏やかな返事が返ってくる。運転をしているのは今回のリーダーであり最年長の小倉という男で、三十五歳には見えない紳士的な若さの溢れる、そのまま男性向けのファッション誌などにモデルとして出ていてもおかしくないルックスの持ち主だ。
「それにしても揺れ過ぎだ。小倉さん運転上手いのにこれだけ揺れるんだ、そりゃ誰も立ち入らなくなるだろうよ。なあ、お嬢?」
安斎は先端にピアスを付けた舌を悪戯っぽく出して笑い、隣に座る私へ話を振ってくる。
「まあここまで道が悪いのは想定外だけれど、私はこの依頼を受けたときに自分である程度情報収集しておいたから、それ程驚いてはいないわ」
資料を最終確認しながらそう答えると、安斎は面白くないのかさらに話をし始める。
「そうか。お嬢だもんな、そりゃ優秀だから勉強くらいしてるよな。俺の後輩のくせに格上になりやがってさぞかしいい気分だろうよ。しかもランクはこのメンバーの中で一番上ときた。組織の第二位の地位じゃ眺めも金も相当いいんだろうなお姫様よ」
安斎がそう皮肉を言うが、私は聞こえないふりをして資料を読み進める。すると安斎は私との距離を詰めてなおも皮肉を言い始めた。
「なんだ? 無視か? 俺みたいな下っ端の言葉なんて聞く価値もないってか? 一体どれだけ俺たちを見下せば気が済むんだよこのお嬢様は。しかもこんな車の中でまで勉強してますアピールかよ。本当嫌になるよな、こういう人間がいるとさ」
安斎がそこまで言った瞬間、後ろの席からとてつもなく冷ややかな声がピシッとその場の空気を切り裂いた。
「そこまでにしなさい安斎。お嬢を怒らせない方がいいわよ」
そう言い放ったのは、私の後ろの席に座っているもう一人のメンバーであり安斎よりも格上でスタイルも抜群の女性、莉緒だ。
「なんだよ莉緒姉さん、お嬢の味方かよ」
「そういう問題ではないでしょう? 安斎あんたね、どれだけのことをお嬢に言っていると思ってるの?」
「莉緒、いいの。それ以上は言わなくていいわ」
このままだ莉緒と安斎が喧嘩をしかねないので、仕方なくため息交じりに莉緒を止める。
「いいって言われても……お嬢何とも思わなかったの?」
明らかに不服そうな声で莉緒が言う。
「何とも思わなかったと言ったら噓になるわね。けれど言わせておけばいいのよ莉緒。なぜ自分が年下であり後輩であるはずの私よりも劣っていると判断され格下にいるのか、安斎はそれが分からない可哀想な人なのだから仕方ないのよ。せめて負け犬の遠吠えくらいさせてあげなさい」
私がそう言うと莉緒は少し満足したのかクスクスと笑いながら、安斎の頭を一度だけ小突いた。
「いてっ! 何するんだよ! というかお嬢、俺が負け犬ってどういうことだ!」
そう喚く安斎から出来るだけ距離を取ってから、私は安斎のカラーコンタクトで赤く彩られた瞳を見つめて口を開いた。
「どうして負け犬なのか本当に分からないのね。ならば教えてあげるわ。どうして私のほうが格上なのかも。安斎、貴方はこの組織に入ってどのくらい経つのかしら?」
「あ? えっと俺が今二十五だから……十年くらいか。それがどうした」
「十年。まあ特別長い方でもないわね。それに比べて私はまだたったの三年。でも私は貴方の上にいる。それは力の差と努力の差よ。私は貴方と違ってこの組織の創設者直々にスカウトされてこの世界に入った。まずそこから違うのよ。でもそれは仕方のないこと。莉緒や小倉も同じように私のこの立場に驚いたわ。でもいくらスカウトされて入ったからと言って、私はこの地位に胡坐をかくつもりもないし権力を振りかざす気もないわ。でも努力した。私にこの地位を与えてくださった王の期待に応えるために」
私がそこまで話すと、安斎は少し冷静になったのか大人しく座席に体を沈めた。
「王様直々にスカウトかよ。最初から俺らとは違うんだなお嬢は。いいよな、たったの十五歳でたったの三年で権力第二位までコネで登りつめてよ」
しかしその口が静かになることはなく、今度はどこか悲しそうにそう呟いた。
「安斎、貴方はそれだからいつまで経っても下っ端なのよ」
「お嬢………言いやがったな!」
「さっきから何度も言っているわ」
私のその一言で安斎は悔しそうに顔を歪ませる。
「どうして下っ端が嫌なのに努力をしないのか、私はずっと疑問だったけれどようやく分かったわ。私に簡単に追い抜かれて何もかも諦めたのね」
「それがどうした! 俺はこの力を使って俺を捨てた親を見返してやりたかったんだよ!それなのにこんなガキに抜かれるなんて笑いもんじゃねえか!」
安斎が勢いのままに叫んだ言葉が、虚しく車内に響く。
「安斎、よく聞いて」
「なんだよ、まだなんか」
「良いから聞いて頂戴。一度しか言わないわよ」
目を合わせてそう言い聞かせると、安斎は大人しく頷いた。
「私が王直々にスカウトされたのは、私が自らの力によって殺されそうになっていたからよ」
「は? どういうことだよ?」
「私がこの年齢でこの地位にいること。そして王の右腕として存在していること。その全ては私を守るために王が考えた方法なの」
安斎は意味が分からないというふうに首を傾げながら、私をじっと見つめる。
「私の本当の力を安斎、貴方は知らないのよ。想像してみて。自分の力がとてつもなく強くなって、自分の体や精神、魂さえも飲み込もうとする様を」
赤いカラーコンタクトが光る安斎の瞳に自分を映しながら、少しだけ力を安斎の体に流し込む。
「うわっ!?」
想像したことが恐ろしかったのか流し込まれた力の大きさに驚いたのか、安斎は大きくのけ反り車の窓に後頭部を勢いよくぶつける。
「い、今のなんだ? お嬢の力か?」
ぶつけた後頭部をさすりながら、そのままの態勢で私を見据える。
「そうよ。しかもただ一瞬。蝋燭の火を軽く吹き消す程度のね」
「それでこの威力かよ……嘘だろ……」
衝撃を隠せない安斎は、畏怖の表情を浮かべて私を舐めるようにして見る。
「私は先天的にこの力があったの。けれども家系にそういう人間はいない。突然変異とも言えるわね。最初はこんなに強くなかったのだけれどどんどん強くなっていって。そして王に出会う頃には自分でも抑えきれない程の強さになっていたの。そうなると、様々な困難に見舞われたわ。霊視の力はもちろん強いから四六時中視えているし、この力を欲して悪霊や悪魔の類にも狙われるようになり、何回も殺されかけたわ。王と出会ったのも、とても強い悪霊の集団を王自らが出向いて祓おうとしていたところに、その集団に襲われていた私がいたの。その時の王の顔は今でも忘れないわ。あんなに驚いたあの人の顔を」
「そうだったのか……」
「ええ。本当に偶然だったけれど、運命だったと私は思っているわ。そこで付いて来いと言われて付いて行ったら、この組織に行き着いたの。まずは護身術を身につけなければということになったけれど、誰も私に近づけなかった。ご存知の通り、私の力は強大な闇の力。全く制御していない私の力に、皆苦しんだの。その時自分はここにいてはいけないと思ったわ。けれど、王が、私が面倒を見ると言ってくれた。だから今こうして生きていられるの」
私がそこで言葉を切ると、安斎は皮肉を言ったことを素直に謝罪してくれた。
「それに、王は夜羅を本当の娘のように可愛がってらっしゃるから、皆が自然にお嬢って呼ぶようになったのよ」
後ろの席から再び顔を出した莉緒が、私の頭を愛おしそうに撫でながら言う。
「だからお嬢は特別なんだよ。貴重な人材という意味でもな」
運転席からは小倉が陽気に笑いながら言う。
「分かったよ。俺が悪かった。お嬢、改めてごめん。これからよろしく」
「あら、そういうかしこまったことも言えるのね」
私がそうからかうと、安斎のうるせぇ! の一言で車内は笑いに包まれた。
しかし、和やかな雰囲気もここまで。
「見えて来たぞ、目的地の看板が」
小倉の一言で全員が身を引き締めそれぞれ準備に取り掛かる。
「安斎、頼んだ」
「あいよ」
莉緒からカメラや機材を手渡された安斎は、てきぱきと機材をリュックサックに詰めていく。それを見届けてから、莉緒はお札や道具をしっかり装備しているかチェックを始めた。
「お嬢はなんか準備するのか?」
カメラを首から下げた安斎がちらっと私を見て訊く。
「そうね。私はこれだけで十分よ、今のところはね」
黒いスカートのポケットから数珠のブレスレットを出して左の手首へ通す。
「それだけでいいのかよ? 今回結構やばいって話だぜ?」
心配そうな安斎に、ご心配なくと断ってから笑顔を見せる。
「これは私の力を押さえるリミッターみたいなものなの。これを正しい手順で外せば、私は自分の力を自由に操れる」
「お嬢は基本的に武器は使わないの。いざとなれば簡単にその現場にあるものを武器にできるから必要ないのよ」
莉緒がそう言ってお札をひらひらとさせる。それを見ながら意味が分からないというような顔で安斎が、
「なんか……これ以上お嬢の秘密を知ってももう驚かなくなってきたな」
と笑った。
「そう? これからもっと驚くかもしれないぞ」
ゆっくりとバンのブレーキを掛けながら小倉が言う。
「着いたわね」
莉緒が緊張した面持ちで長い髪を掻き上げる。
「行きましょう、闇が待つ場所へ」
私がそう呼びかけると皆は笑って、だがどこか覚悟を秘めた瞳で頷いた。
一斉にバンから降りると、目の前には崩れかけた遊園地の入口がそびえ立っていた。
「廃園になって随分経つと聞いていたけれど、それにしても廃れてるわね」
莉緒が辺りを見渡しながら言う。
「そうだな。これじゃ遊園地全体がお化け屋敷みたいだぜ」
安斎が呆れたような声で言いながらその風景をカメラに収めていく。
「確か、ここの土地の持ち主が待ってくれているはずなんだけど……あ、あの方かな?」
小倉の視線の先には、こちらに向かって軽く会釈する小太りな男性の姿があった。
「あなたがこの土地のオーナー様ですか?」
小倉が声を掛けると、はち切れそうな腹を揺らして小走りに近づいて来た。
「はい。オーナーの犬塚義隆と申します。今日はよろしくお願いいたします」
犬塚はそう言って薄くなった頭を下げた。
犬塚義孝。この廃園した遊園地が残された土地とこの山の持ち主で、今回の依頼者だ。資料では年齢が四十五歳となっていたが、見た目のせいで実際よりも老けて見える。だが相当な資産家であることは確かなようで、身に着けているもの全てが高級感を放っている。
「今回は我が心霊研究機関妖霊会にご依頼くださいましてありがとうございます。私がこのグループのリーダー、小倉です。どうぞよろしく」
マニュアル通りの挨拶で余所行きの笑みを浮かべたまま、小倉は犬塚と握手を交わす。
「グループということは、そちらの皆さまも?」
「はい。妖霊会のメンバーです。今回はその中でも腕のある者を集めましたのでご安心を」
小倉の言葉に犬塚はほっとしたような笑みを浮かべたが、私を見て驚きの表情へと変わっていく。
「あの、そちらのお嬢さんももしかして……?」
「もちろんそうですよ。しかも彼女は妖霊会の中でも一位を争う実力者ですからご心配はいりません」
「こんな若いお嬢さんが……」
小倉が説明しても犬塚は信じられないといった顔をしている。
「犬塚さん初めまして。妖霊会のメンバーで悪霊専門の調査団団長も務めております、夜羅と申します」
私が握手を求めると、犬塚は疑いの目を向けながらも手を差し出した。そしてしっかりと握手を交わしてから、私は真っ直ぐに犬塚を見つめて、
「犬塚さん、貴方はとても良い人でその人柄も手伝って有名な資産家となったとお聞きしていますわ。そのような方のお役に立てるなんて、私はとても嬉しく思っております。まだまだ若輩者の子供ですが、ここにいるメンバーには負けたことはございませんのでご安心を。私たちにどうかお任せくださいませ」
とやや冷たい声で言ってから丁寧にお辞儀をして見せる。それだけでも犬塚には十分効果があったようで、
「いやいやこちらこそお任せしますのでどうぞよろしくお願いいたします。若いのに優秀なあなたがいらしてくれて本当に、相談して良かったですよ」
などと言いながら再び私と握手を交わす。
「本当に幸運ですよ、犬塚様は。我が妖霊会にとって最大戦力である夜羅様が直々に調査してくださるんですから。あ、申し遅れました。私は夜羅様の側近の莉緒と申しますわ」
元々纏っている妖艶な雰囲気とともに莉緒がそう名乗り出ると、犬塚は途端に満面の笑みで莉緒と握手を交わし始めた。莉緒は美人である上に、大きな胸と透き通るような肌でスタイル抜群ときている。そんな莉緒に接近されて余程嬉しかったのか、犬塚は頬が緩んだまま莉緒と何やら話している。なんとも分かりやすい男だ。
「おい、おっさん。いつまで莉緒姉さんにくっついてんだよ」
重たい機材を持って待たされていることに腹を立てたのか、安斎が呆れた声を上げる。
「おっさんだと? 君、依頼主に失礼だろう!」
犬塚は突然安斎に詰め寄って声を荒げる。しかし慣れている安斎は怯むどころか笑って見せて、
「今回は依頼ありがとうございます。俺は安斎だ。よろしくな、おっさん」
と犬塚の肩を軽く叩き、悠々と入口へ向かって行った。
「なんだあいつは!」
先程まで莉緒に鼻の下を伸ばして嬉々として話をしていたのに、犬塚はあっという間に別の意味で顔を真っ赤にして怒鳴った。
「申し訳ありません。彼は仕事上辛い思いをして来たあまり、あんなふうに……。彼に悪気はありませんし、本当はしっかりとした青年なのですがどうも仕事となると情緒不安定になってしまって……。ですが調査の腕と長年の実績は確かですし、私たちも一目置いている人物ですのでどうかそう怒らないであげてください」
莉緒が縋る様に言うと、犬塚は握っていた拳をすんなりと開いた。
「君が言うなら……まあ……。」
「ありがとうございます! でも彼、実は私よりも年上なのですが私の方が位が高いので姉さんと慕ってくれる、優しい人なんです。ただ少しだけ大人になりきれていないだけなのよ」
莉緒は女性にしては高身長なので目線的には犬塚を少し見下ろす感じになるが、流石に仕事で色仕掛けをすることもあるだけあって男性の扱いには慣れた様子だ。
「さて、世間話はこのくらいにして。そろそろ本題に入りましょうか。暗くなる前には何とかしたいの」
私が促すと、皆仕切り直しとでも言うように静かに頷いた。
「犬塚さん、貴方のご依頼だとこの遊園地の中で異変がたびたび起こるということなのだけれど、どの様な異変なのか詳しく話していただけますか?」
私がメモを取るよう準備したのを確認してから、犬塚は静かに口を開いた。
「最初に異変が起きたのは、この遊園地が閉鎖されてから二十年目となった一昨年のこの時期でした。私はその頃からそろそろこの遊園地を壊して新しくホテルを作ろうかと思っていたので、その計画の構想を練りによく訪れるようになったんです。初めは風か何かだと思っていたのですが、そのうち明らかにおかしいことに気が付いたんです」
「それは一体どうおかしいんです?」
小倉が予め起動させていたボイスレコーダーを犬塚に近づけて質問をする。
「それは……ある場所から声が聞こえるんです」
「声?」
安斎がいぶかしげに聞き返す。
「はい。女の子が泣いているような歌っているような……何とも言えない切ない声が聞こえるんです」
私たちは顔を見合わせてから、再び犬塚に向き直った。
「その声はどこから聞こえるか分かりますか?」
莉緒の問いに犬塚は、少し怯えたような表情で頷き、遊園地を指さしてこう言った。
「この遊園地の奥の方にある、ミラーハウスです」
「ミラーハウス?」
私が首を傾げると、犬塚は話を進めながら説明してくれた。
「建物の中の壁や天井が全部鏡になっていて、合わせ鏡のような錯覚を起こせたりして迷路のようになっているアトラクションなんですが、ただシンプルに鏡だけではつまらないので、いたるところに日本人形などを飾ってあるんですよ。なのでちょっとしたお化け屋敷のようでして……」
「なるほど。そのミラーハウスから女の子の声のようなものが聞こえるということですね。では、その声のようなものが聞こえ始めてから、ミラーハウスには入りましたか?」
小倉が訊くと、犬塚は何か恐ろしいことを思い出したように顔を青ざめさせて頷いた。
「誰か入り込んでいては困るので、ここへ来るたびに点検も兼ねて入りました。ですがほとんど何も起こらなかったのです。あの日までは……」
「あの日と言うのは?」
私が問うと、さらに血の気が引いた顔で早口に喋り始めた。
「あの日です。あなた方に依頼する三日前、そして今日から一週間前です。その日は別の仕事があってミラーハウスに入るのが今よりもう少し遅い時間になってしまったのですがそれが間違いでした。入った途端ミラーハウスの奥から女の子の笑い声が聞こえたんです! それで誰か入り込んでいると思って行ってみたら人形が一体宙に浮いていて笑ってたんですよ! それで驚いて慌てて逃げようとしたら追いかけてきて! もう必死で外へ出ましたよ追いつかれなかったからよかったものの! でも外へ出てもミラーハウスの中から笑い声が聞こえてきて! そうしたら電気が通っていないはずの他のアトラクションが勝手に動き出して!」
そこまで一気に話すと犬塚は過呼吸でも起こしたのか荒い呼吸を繰り返した。慌てて莉緒が介抱してしばらくすると落ち着きを取り戻しまた話を聞かせてくれた。
「私はそこまでしか覚えていないんですよ……。気が付いたら朝になっていて息子と妻が私に必死に呼びかけていて……。一応見たことを話しましたが信じてはもらえず……。医者に連れていかれましたが暑さにやられて幻覚を見たんだろうと言われました。でも本当に私は体験しました。この目と耳で見て聞いたんです。お願いしますどうか調査をお願いします……」
体験が余程恐ろしかったのだろう、犬塚は震えながら私たちに頭を下げた。
「分かりました。調査させていただきますので、そのミラーハウスまで案内していただけますか?」
小倉がそう言うと犬塚は渋々といった感じで頷き、ズボンのポケットから鍵の束を出して先頭に立って歩き始めた。
犬塚が古びた鍵でゲートを開けると、錆びた金属音を鈍く唸らせて鉄の柵が口を開けた。
「なんか臭うな」
眉間に皺をよせて安斎がそう呟く。安斎は霊の存在を香りで認識するという特殊な能力がある。
「ここで臭うということはこの近くにいるのか」
「いや、もっと奥だが……この場所自体がくせぇ」
小倉の問い掛けに首を振って答えながらも、安斎は顔をしかめる。
「安斎がここまでの顔をするということは、相当悪い子なのかしら」
私がそう言うと、安斎はそうかもなと言いながら廃園の中へ歩を進めた。
「犬塚さん、この様子では貴方の案内は必要ないかもしれません。鍵を預けていただければここからは私たちだけで調査させていただくことができますが……そういたしますか?」
「え……それならもう、はい! どうぞよろしくお願いいたします!」
犬塚は私の手に鍵束を握らせると、心底ほっとしたような顔を見せた。
「ありがとうございます。お預りいたします」
「はい。……皆さまどうかご無事で……」
丁寧なお辞儀をした後で、犬塚は入り口の日陰に置かれていたベンチに腰かけた。そこで待っているつもりなのだろう。
「何かありましたら、すぐにここへ連絡してください。いいですね?」
小倉が仕事用の携帯の電話番号が書かれた名刺を渡すと、犬塚は何度も頷きながら大事そうに胸のポケットへしまった。
「さて、行きましょう」
私の声掛けで皆一斉に頷くと、安斎を先頭に廃園の中へと進んでいった。
遊園地の中は、廃園と言うのにふさわしいほど所々が壊れていて、少し薄暗くなってきた辺りと相まってとても不気味で怪しい雰囲気を醸し出している。
「なんでこんな山のてっぺんに遊園地なんて造ったんだろうな」
香りを頼りに先頭を歩く安斎が呟く。
「さあ? お金持ちの考えることなんて分からないわ」
と答えた私の返事に同意しながら、安斎はどんどん奥へと進んでいく。
私たちは心霊現象を対象にした調査やお祓いなどを行う組織で、それぞれ能力の違いや個人差はあるがかなりの霊能者たちが集まっている。
私は先程安斎に話をしたようにイレギュラーな存在だが、安斎は霊を嗅覚で認識するほか機材の扱いに長けている。小倉はその紳士的な姿からは想像しにくいが呪術による戦闘を得意とするし、莉緒はお札を使った結界や降霊、道具に霊気を送り込み武器にするなど戦闘能力は高い。
「あったぞ。ここが一番臭う」
しばらく歩いていくと安斎がそう言って立ち止まった。その前には例のミラーハウスが姿を現していた。
「結構大きいのね」
「そうか? 他の遊園地とそんなに変わらないだろう」
私の一言に安斎が答える。
「そんなこと知らないわよ。私、こういう普通の遊園地なんて行ったことがないもの」
「お嬢、遊園地行ったことないのか」
「ええ。父親がジェットコースターが駄目だからなのかわからないけれど、遊園地という場所にはあまり縁がないの」
そう言って肩を竦めて見せると、今度は小倉がこちらへ近づいて来て、
「ということは、ミラーハウスも入ったことはないのかい?」
と訊いてきた。私がこくりと頷くと、優しい笑みを浮かべて私の頭をよしよしと撫でる。
「一体なんのつもり?」
「なんか可哀想になってな」
「ミラーハウスに入ったことがないというだけで同情されるようなことなのかしら?」
小倉の手を避けながら私がそう言うと、そうではなくてと前置きしてから、
「人生初のミラーハウスがこんな危険な仕事でなんて可哀想だと思っただけだよ」
と避けられた手を手持ち無沙汰にひらひらと振りながら言った。
「別に同情されるようなことではないわよ? むしろこんな仕事で初めてのミラーハウスなんて貴重だもの。少し楽しみなくらいだわ」
私の言葉に皆が笑い、少し緊張がほぐれたところで、小倉が無言で鍵束の中からミラーハウスの鍵を捜し出して錠を開けた。
「こっから先は打ち合わせ通りでいいよな?」
安斎がカメラを構えて確認する。
「ああ。二人組になって進んでいこう。安斎と莉緒、先頭を頼む」
「了解」
莉緒が短く答え、安斎はオッケーと手で表して無線を装着し始める。
「私は小倉と二人で戦闘準備をしてから中へ入るわ」
呪術で使う道具を装備して頷く小倉と共に、安斎と莉緒を見守る。
「何かあったらよろしく」
そう言い残して、安斎は莉緒と連れ立って慎重にミラーハウスの中へ消えて行った。
「あまり危険な目に遭ってもらっては困るんだけど」
そう言って苦笑する小倉は、被害を最小限に抑えるためか呪術でミラーハウスの周囲を結界で固めた。
「お嬢、大丈夫かい?」
私の顔を覗き込みながら心配そうに小倉が言う。
「大丈夫よ。これよりも危険な現場へ行ったこともあるのよ。これくらいで怖がっていたら王に怒られてしまうわ」
「そうか、そうだったな。お嬢と一緒に仕事ができて光栄です」
そうおどけたように言って、小倉は丁寧にお辞儀した。
「そんな冗談をこんな場面で言える貴方も相当よね」
「ばれましたか」
「バレバレだわ」
二人して笑い合った時だった。無線に焦ったような莉緒の声が入った。
「早く来て! 安斎が消えたわ!」
「わかった今行く」
小倉とアイコンタクトを取り頷き合ってから、勢いよく中へと飛び込んでいく。
「くっ……なんなのこの空気!」
入った瞬間明らかに重たい負の力をたっぷり含んだ空気に一瞬だけ圧倒される。
「お嬢!」
「大丈夫よ! それより早く莉緒の所へ!」
心配した小倉が立ち止まるが、私の叫ぶような指示で弾かれたように走り出す。
「ここまでの空気を作り出すなんて……一体何がいるの?」
思わず独り言を呟きながら必死に走る。
「莉緒!」
すぐにその場にしゃがみこむ小倉の背中に追いついた。
「どうしたの!」
小倉の前へ回り込むと、そこには腰を抜かし震えている莉緒の姿があった。
「莉緒! 何があったの……?」
私が声を掛けると、莉緒は私に勢いよく抱き着いてきた。
「安斎が……鏡に映らなくなったと思ったら……これが落ちていて安斎がどこにもいないの!」
莉緒が震える手で差し出したのは、安斎のカメラと小型のビデオカメラだった。
「映らなくなったってどういうこと?」
小倉が優しくも緊張した声で尋ねると、莉緒は自分で呼吸を落ちつけながら話し始めた。
「ここへ来る途中、安斎は私の姿もカメラで撮るくらい落ち着いていたわ。けれどいきなり大声を上げたの。先を歩いていた私は驚いて安斎の方を振り返ったら、安斎が震えながら鏡を指さしていた。何か映っているのって近づいたら……鏡に私しか映っていなかった……。いえ、違うわ。正確に言うなら、安斎の姿だけが映っていなかったのよ……」
「それで……安斎は?」
私の問いに、莉緒は力なく首を横に振る。
「怖くなったのかいきなり走り出して……私はすぐに追いかけたけれど、突然女の子の笑い声がして……そうしたら目の前で安斎の姿がこの中へ消えたのよ」
「この中に……?」
莉緒が指を指したのは私たちの正面にある、丁度ミラーハウスの中央に当たる場所で、大きな鏡の柱が一本立っていて二手に分かれてぐるっと回り、その先で合流してさらに奥へ進めるようになっている鏡の柱だった。
私は莉緒を小倉に預け、そっとその柱に触れてみる。なんの変哲もない、多少埃がついた巨大な鏡だ。
「肉体がどうやってこの中へ?」
「安斎の無線もつながらないの」
私が鏡を調べていると、落ち着いたらしい莉緒が隣に立ち無線をいじる。
「無線が繋がらないなら……私が安斎の気を探ってみるわ」
そう言って二人に向き直ると、莉緒と小倉は強張った顔のまま頷いた。
「私の力を抑えるもの。今我が意志により取り払わん。解放」
祈りを込めて左手の数珠を外す。途端に私の周りを暗く重たい空気が包んでいく。
「安斎……どこにいるの?」
目を閉じて全神経を安斎の気を探ろうと集中させる。探る範囲を手で触れている鏡の柱からミラーハウス全体へ広げようとした時、一瞬だけ微かに安斎の気を感知した。それだけで私はあることを悟る。大きなため息をついて目を開くと、鏡越しに二人と目が合った。
「いたわ」
私のその一言で二人は安堵の表情を一瞬浮かべたが、恐らく私の顔が強張っていたのだろう。すぐに不安を表情に表した。
「どこに……いるの……?」
恐る恐る莉緒が訊く。
「鏡の中だけではないわ。鏡の中にいるのは安斎の魂だけ。体は恐らくこの奥よ」
「そんな……あんな一瞬でそんなことができるわけ……あ……」
途中まで言いかけていた莉緒がハッと気づいて口元を手のひらで押さえる。
「そう。安斎は嗅覚が優れているだけでもなく機材の扱いに長けているだけではないわ。彼の本当の能力は自由に幽体離脱を操れること。ただ危険すぎて実戦で使うのは禁止されているだけなのよ」
震える莉緒の隣で小倉は青い顔をしたまま固まっている。
「幽体離脱を自在に操れる。つまり元々魂が体から抜けやすい体質ということよ。だからこそ一瞬で魂をこのミラーハウスの中に閉じ込めらてしまった。そして魂の器である体は、ここに置いておくと安斎が自力で魂を戻す可能性があるため、敵が自分の本拠地へ引きずっていったということだと思うわ」
私の話を黙って聞いていた二人は、私が何をしようとしているのか既に察していて戦闘準備を完璧にした状態でしっかりとした目で私を見据えた。
「流石は私の部下ね。行きましょう。乗り込むわよ、敵の本陣へ」
三人で頷き合い気を引き締めると、ミラーハウスの最奥を目指して走り出した。
「安斎の体を見つけ次第その体が無事なら、莉緒、すぐに強力な結界を張って」
「分かったわ」
「小倉は莉緒が結界を張っている間、敵の動きを出来るだけ止めておいて」
「承知した」
それぞれに指示を出しながら走っていると、あっという間に奥へ辿り着いた。
「安斎!」
莉緒がいち早く横たえられている安斎の体を見つけて駆け寄る。そこへ、莉緒の行動を阻止するかのように日本人形が一体莉緒の目の前に落ちてくる。
「莉緒! 頭を下げて」
私の声とほぼ同時に莉緒が姿勢を低くして身を守る。
二体目の日本人形が落ちてきた瞬間、私はその人形が落ちてきた天井めがけて思い切り霊気を放つ。
「きゃああ!」
悲鳴が聞こえ、莉緒の近くの鏡が大きな音を立てて割れる。
「莉緒! 怪我は?」
「大丈夫よ! 安斎の体は確保したわ! 今のところ無事!」
莉緒が小走りで安斎に近づきその体を抱きかかえる。
「莉緒、全力で守るから結界を!」
「了解!」
莉緒が手にしたお札に力を込めると安斎の体が白い光に包まれる。それを見届けてから、私は電気の消えた真っ暗な奥に向かって声を掛ける。
「そこにいるのは分かっているわ。姿を現しなさい、悪霊」
小倉が素早く移動し、莉緒と安斎を庇う様に立ち構える。
突然、周囲の鏡に次々に亀裂が入り、ビリビリとした恐ろしいほど冷たい空気が辺りに満ちる。そして、暗闇の中から小さな女の子が姿を現した。さらさらと長い金髪をなびかせ、可愛らしいピンクのフリルがたっぷりついたワンピース姿の小さな体は宙に浮いていて、ボロボロのテディベアを抱えた色白な肌には無数の痛々しい傷跡が見える。見た目の年齢は六歳くらいだろうか。幼い顔つきだが整った美貌と気品をまとったその顔は、邪悪な笑みを浮かべていた。色素の薄い青い瞳が私たちを視界に捕らえる。
「どうして……こんなことを?」
小倉が警戒しながらも優しく問いかける。すると少女はクスクスと笑い子供とは思えない程の低い声でこう答えた。
「私の遊びを邪魔するな!」
「遊び? こうして人を苦しめることが貴女にとっての遊びなの?」
私の近くまで浮遊してきた少女は、にっこりと笑っている。
「そう! これはお遊びなの。だって遊ぶって人を蹴ったり叩いたりすることでしょう?」
何の疑いも持たずさも当たり前のことのように言ったその声は少女の声だった。
「どこでそんな遊びを教わったのかしら? お嬢ちゃん」
「パパとママが教えてくれたの。私はいつも痛くて泣いちゃうけど、パパとママは遊んであげてるのになんで泣くんだって悲しい顔するの。私はそう教えてもらった。それに私はお嬢ちゃんじゃないよ、シンシアっていう名前がちゃんとあるんだよ」
無邪気に笑うシンシアは、大好きな両親のことを話す子供そのものだ。しかしその話が本当ならば、シンシアはとても辛い日々を送っていたことになる。
「シンシアちゃんは、どこで生まれたの?」
結界を張り終えた莉緒が、小倉の隣に並んで訊く。
「ロシアだよ! 遠いところからまだ私が歩く前に日本に来たんだってパパとママが言ってた」
「そう……パパとママは今どこにいるのか知ってるかな?」
莉緒が優しく訊くと、少し警戒を解いたのかシンシアは地面へと降りてきた。
「それが分からないの。私が死んじゃってからはパパとママに会ってないの」
悲しそうにシンシアが言った言葉に、私は驚いた。
「貴女……自分が死んでいるって分かっているの?」
シンシアはこくんと頷く。
「だってオバケって普通の人は視えないんでしょう?」
「そうね。普通の人たちには視えないわ」
莉緒が優しい眼差しで答える。
「私、パパと遊んでいるときにすごく苦しくなって、気がついたら誰も私の事見てくれなくなってたの。パパとママもいない、お家にいても誰もお話してくれない。挨拶しても皆に聞こえていないみたいなの」
そこまで話してから、シンシアは再び宙に浮き私たちと距離を取った。
「私寂しくて寂しくて。いろんなところへ行ったよ。こうやって飛べるから。でもやっぱり誰も私を視てないの。悲しくて悲しくて。そうしたらここを見つけたの。ここには私を見つけてくれた人がいたんだよ! それにお友達もいっぱいいっぱいできたんだよ! ほら!」
シンシアがそう言うが早いか、十体以上はあろうかという日本人形がシンシアの周りに浮き出してきた。
「シンシア、もう少しだけ聞かせて? 貴女を見つけてくれたというここにいた人は誰なの?」
「お姉さんだよ!」
「お姉さん? どんな人? シンシアちゃんみたいに可愛い人?」
莉緒が背後にお札を隠しながら問う。
「ううん! とってもキレイなお姉さんだよ! 優しくて、一緒にお人形さんで遊んでくれたの」
「お人形さんって君の周りにいるお友達の事かな?」
小倉が訊くとシンシアは元気よく頷いた。
「髪の毛引っ張ったり、捕まえて投げ飛ばしたりしてとっても楽しいの! お姉さんもやってくれたんだよ!」
「そのお姉さんは今どこにいるのかな? 私も会いたいな」
一緒に遊びたいといった感じに莉緒が訊く。しかし、あれ程無邪気な笑みを浮かべていたシンシアは、途端に目に涙を浮かべ始めてしまった。
「お姉さん、いなくなっちゃったの」
「いなくなった? シンシアちゃんを置いて?」
「うん。気がついたらお姉さんいなくなってて、私はお人形さんともっと遊べるようになってたの」
シンシアが告げた言葉に、私たちはある可能性を思い付き顔を見合わせる。そして意を決して三人でシンシアに対峙した。
「シンシア。よく聞いて。貴女も自分で分かっているようにもう死んでいるの。そして私たちは幽霊が視える人たちのグループ。貴女が連れ去ったこのお兄さんも私たちの大事なお友達なの。だから、お願いシンシア。このお兄さんの魂を返して頂戴。そして、貴女もここからさようならしましょう?」
私がそう言うと、シンシアは少し考えるようなそぶりを見せた後、困ったように顔を上げた。
「私、ここから出られないの。お姉さんと約束したから。お姉さんが戻ってくるまで絶対にここから出ちゃだめだって」
私たちはシンシアの言葉を聞いて、思い付いた可能性が確信へと変わった。アイコンタクトで真実をぶつけることを決断し、私は少しだけ霊気を自分にまとわせてからシンシアと向き合った。
「シンシア。お姉さんは戻ってこないわ」
「え……どうして?」
「理由を今から教えてあげるわ。さあ、貴女の記憶を見せて」
私は霊気を鎖状にしてシンシアの細い体に巻き付けると、意識をそれに集中させた。
「やだ……なにこれ……やめてよ……」
「大丈夫よシンシア。痛いことはしないから大人しくして。そうすればお姉さんに会えるわ」
「お姉さんに会えるの……? 本当に……?」
シンシアの警戒が少し緩んだその隙に、私はシンシアの魂の記憶を読み取っていく。
その記憶は衝撃だった。洋風の大きな屋敷にロシア人の優しそうな両親とメイドたち。ところどころロシア語が混ざっているので会話などはすべては分からないが、シンシアが遊んでもらっていたと言っていたものは、予想通り壮絶な虐待だった。父親は特に酷くシンシアに当たり、その幼い体に淫らな行為まで強いていた。そして母親も、シンシアの日本語が下手だと罵り、食事を与えず部屋に閉じ込めたりなどしていたことが、シンシアの記憶から明らかになった。メイドたちはシンシアに虐待は行わなかったが、両親を止めることもせずただ黙って見ているだけだった。シンシアが泣くと両親はさらに過激な虐待を加えていき、結局最期は母親の留守に父親がシンシアの体を弄んでいたところシンシアが悲鳴を上げたことに激怒し、枕で顔を押し付けられ息の根を止められてしまった。
と、突然シンシアの記憶以外の記憶が流れ込んできた。それは霊感があることで忌み嫌われ虐待されていた日本人の少女の記憶だった。やはり私たちの思った通り、シンシアの言うお姉さんも過激な虐待により死に至った、哀れな幽霊だったのだ。そしてその少女は辛い虐待を受けてきたシンシアに自分を重ねているうちに、シンシアの純粋さにつけこんでその魂にとり憑き浸食した。つまり、シンシアの言うお姉さんはいなくなったのではなくシンシアの魂にとり憑いていたのだ。
私はそこまでの記憶を読み取り鎖をシンシアの体から外して消した。シンシアは自分の過去を思い出したのか或いはお姉さんと慕っていた人物が幽霊で、いなくなったのではなく自分の中にいるという事実がショックだったのか、声を上げて泣きじゃくっていた。
「シンシア。貴女が遊んでもらったと思っているあの行動は、お遊びなんかではないわ。あれを日本語で虐待というの。両親など家族から受けるいじめのことをそう呼ぶことが多いわ。貴女はパパとママにいじめられていたのよ」
私がそう言うと、シンシアはひっくひっくと嗚咽交じりに口を開いた。
「……本当は知ってたの、お遊びなんかじゃないって。だってあんなに痛かったし悲しかったんだよ? ……パパもママもやめてって言ってもやめてくれなかった……。だからずっと我慢してたけどあの日はパパがすごく怖かったから叫んじゃったの……。オバケになってパパとママがいないって分かった時、少しほっとしたの。もうあんな痛いことされなくていいって……。でもやっと痛い事されなくなったのに今度は一人ぼっちになっちゃった……。でもお姉さんに会って楽しくて……。お姉さん……私と何しようとしてるの……?」
シンシアの告白に皆がやりきれない気持ちで彼女から目を逸らした瞬間、一番最初に聞いた低い声が突如辺りに響いた。
「勝手に人の記憶を見るな! あんたたちまで私たちをいじめるのか!」
急いでシンシアを見ると先程まで無垢な顔で泣いていた面影はどこにもなく、鬼の形相でこちらを睨む姿がそこにあった。
「貴女は……由加里さんね?」
読み取った記憶の中でその少女が呼ばれていた名を確かめる。
「そう、私は由加里。あんたと同じく力を持ってた。けどそのせいで私は酷い目にあって生きて来たんだ。そんな力であんたたちは私をどうするつもり?」
挑戦的な態度で私たちを見下ろす由加里は、勢いよく左腕を振り上げた。
「皆死んでしまえ!」
由加里がそう叫んだ瞬間、日本人形たちが一斉にこちらへ向かって飛んでくる。しかしただの日本人形ではない。悪霊の僕となった日本人形には邪悪な力が込められている。
「これではきりがないな」
呪術で避けながら小倉が言う。その隣で安斎を庇いながら結界で日本人形をかわす莉緒の姿が見える。
「由加里、いい加減にしなさい。私たちを攻撃しても貴女の苦しみは何も変わらないわ」
右手に溜め込んだ霊気を一気に由加里へと放つ。逃れられず直撃した由加里は悲鳴をあげて床へと落下する。
「止めたか?」
「これで少しは大人しくなってほしいわね」
小倉と莉緒が安斎の体をさらに安全な位置まで運びながら言う。
「いいえ。まだ終わりではないわ。むしろこれからよ」
私がそう言った途端、再び辺りに邪悪な空気が漂い始める。ビリビリと肌を焼くような感覚に耐えながら、黒い霊気をまとった少女を見つめる。
ふわりと宙に浮いた少女は、けたたましく笑い声をあげると両手を開いてから私たちを睨みつけた。
「やっぱりいじめにきたんだな! それなら容赦はしない! 復讐してやる! うわああああああああ!」
由加里の叫びに合わせて私たちの周りの鏡が次々に割れて崩れ始める。
「これじゃ近づけないわ!」
莉緒が破片から身を守ろうと露出した腕を自身を抱きしめるようにしながら前かがみで一歩下がる。
「どうやってこんな力持ったんだ……!」
小倉も鏡から距離を取りながら由加里に向かって術を放つ。由加里の両手に鎖が巻き付けられるのを確認すると小倉は念を込める。
「私の腕を封じようというのか! 出来るものならやってみろ!」
由加里が渾身の力で両手を振り上げると、ミシミシと音を立てて鎖が腕に食い込んでいく。
「小倉待って! 体を作っているのはシンシアの魂よ! このままではシンシアの魂が傷つくだけだわ!」
「そうか! くそっ!」
小倉が慌てて鎖を解く。由加里は満足そうな笑みを浮かべゆらゆらと浮遊しながら黒い塊にした霊気を次々にこちらへ放ってきた。
しかし私たちはそういった攻撃には慣れているため、それぞれのやり方で由加里の霊気をかわしていく。
「核を……由加里の魂の核を見つけないと倒せないわ!」
莉緒が強力な結界で防御しながら声を張り上げる。
「分かっているわ! だから少しだけ由加里の隙を作って頂戴!」
自分の目の前に防御の壁を作りながら私が言うと、莉緒が結界から飛び出してお札を数枚由加里に投げつける。
「ぎゃああああ!」
結界から出た莉緒を狙おうとしていた由加里は避けるのが追いつかずにお札をシンシアの小さな体で受け止めてしまう。
「莉緒感謝するわ!」
私は悶え苦しむ由加里と一気に距離を詰めると、左手で黒い霊気の塊を作り由加里の魂とシンシアの魂を繋いでいる鎖へ解き放ちその鎖を断ち切った。その途端、辺りに耳を劈くような悲鳴が二種類響きわたった。
「シンシア! 聞こえたら返事をして!」
巻き起こった風のような黒い霊気にあてられないように自分に結界を張りながら、千切れた鎖の両方を掴む。
「シンシア! お願い! 答えて!」
必死にシンシアに呼びかけていると、右手に握った鎖がほのかに温かくなる。
「シンシア! 私よ! 貴女はこんな風になっては駄目なのよ!」
莉緒が結界を張り小倉と一緒に私を補佐しながら様子を見守っているのが気配で分かる。そして二人も一緒にシンシアに呼びかけてくれている。
「ううっ……」
右手に握っている鎖の温度が上がり少し熱さを感じた瞬間、シンシアの苦しそうな声が微かに聞こえた。
「シンシア! 意識をしっかり持って! 大丈夫、貴女ならできるわ!」
もう一度呼びかけると、シンシアの魂へ繋がる鎖が消えて痛々しい痣も消えた綺麗な姿のシンシアが姿を現した。きっと由加里の魂に支配されている間ずっと泣いていたのだろう。その綺麗な青い瞳を赤く腫らした顔で、私たちに視線を向ける。
「ごめんなさい……私、お姉さんに……」
目に涙を浮かべたままシンシアが口を開く。
「私は誰も傷つけたくないよ……でもお姉さんの気持ちもわかるの……。なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだろうって私も思ってたから……」
泣きながらそう告げるシンシアの魂が少しずつ光始める。
「もういいのよ、シンシア。貴女は悪くないの。だからもう泣かないで、その光に身を任せなさい」
「いいの……?」
不安そうに訊くシンシアに、私たちは温かな笑みで頷く。それを見て安心したのか、シンシアはようやく子供らしい可愛い笑顔を見せてくれた。
「お姉ちゃんたち、私を助けてくれてありがとう……。お礼にお姉さんの居場所を教えるね……」
もうすでに成仏仕掛けた体でシンシアは例のガラスの柱を指差してこう言った。
「お姉さんはこの中で眠ってるの……。お願い、お姉さんも助けてあげて……?」
「教えてくれてありがとう。約束するわ、シンシア。必ず助けると」
私の言葉に莉緒と小倉もしっかりと頷く。
「ありがとう……。怖い思い沢山させてごめんなさい……。もう、逝くね」
「ええ。シンシアがもし次生まれ変わったら幸せな女の子になれるよう祈っているわ」
シンシアはにっこりと笑い、一筋の涙を流すとゆっくりと消えて逝った。
「シンシアちゃん、魂が綺麗だからきっと次は幸せになれるわ」
莉緒がもらい泣きしたのか少し目を潤ませながらそう呟く。
「そうだな。あんな純粋な子は幸せにならなくちゃだめだ」
小倉が柔らかい笑みを零しながら言う。
「そうね。シンシアはきっと次こそ幸せを手にできると思うわ。でも……私は嘘を吐いた。こっちはもう助けられない、残念だけれど」
左手に握って押さえていた魂を空中に向かって放り投げる。すると由加里が自身の姿で現れた。長くぼさぼさの黒髪に猫背がちの瘦せ細った体にはシンシアよりも酷い傷跡がくっきりと浮かび上がっている。
「今この魂は空っぽの状態。シンシアが教えてくれた通り、この魂の核はこの柱の中にある。それは何故か。それは由加里の記憶が教えてくれたわ」
莉緒と小倉は私の言葉に耳を傾けながらも、いつ襲われてもいいようにと身構える。
「由加里、彼女は鏡が嫌いだった。自分の体にできた無数の傷跡を見るのが嫌だった。そして鏡に映る霊の姿も嫌いだった。ではどうして大嫌いなはずの鏡だらけであるこのミラーハウスにいるのか。それはまだ虐待が始まる前、幼い時にここへ両親と来ているからよ。記憶のなかで由加里はとても楽しそうだったわ。両親と手を繋いでこのミラーハウスの中を歩くのがとても楽しかった。けれど幸せはすぐに壊された。由加里が霊が視えると両親に言い始めたのはその後よ。生まれ持った霊能力はとても高く、由加里は霊障に悩まされていたみたい。それを助けようとするどころか両親は気持ち悪いと虐待を始めた。その結果、由加里は自ら死を選んだわ。割れた鏡の破片で頸動脈を切り裂いて」
莉緒が悲しげな表情で宙に漂ったまま動かない由加里を見つめている。小倉は何とも言えない様子で呆然と柱を見ていた。
「由加里はずっと、なぜ自分だけが酷い目に遭わなければならないのか考えていたわ。やがてその考えは歪んだ方向へ転がっていった。周りを憎み、自分さえ憎みながら自ら命を絶った由加里はその恨みから悪霊と化した。そして彼女は自分の両親を呪い殺した」
莉緒と小倉が息を飲んだのが伝わってきた。まさか由加里がそこまでしていたとは思っていなかったのだろう。
「由加里の霊力は強いだけではないの。私と同じなのよ」
「まさか……」
莉緒が驚きで目を見開く。
「お嬢と同じ地獄の力を持っていたのか……」
小倉は肩を落とし、哀れみを含んだ瞳で由加里を見上げた。
「ええ。私ほどではないけれど、由加里は確かに地獄の力を持っていたの。そのせいで余計霊障に悩まされ、霊障に怯えるたび虐待されて……の繰り返しだった。それは死んで悪霊になってからも同じだったみたいだわ」
「力のせいで悪霊を自然に呼び寄せてしまっていたのね」
「それで怯えれば他の悪霊に虐げられる……逃げ場はどこにもなかったんだな」
「そうね。現実から逃げたくて自殺を選んだはずなのに、さらに力は増して更なる苦しみを味わうこととなって、由加里はさぞ驚いたでしょうね。そして両親を呪い殺したことで完全に由加里の能力は覚醒してしまった。でも他の悪霊に目をつけられるのは相変わらずで、それから逃げるために霊力はなくても同じように虐待されて亡くなったシンシアの純粋さにつけこんで隠れ蓑にしたんだわ」
張り詰めた空気から皆が同情から怒りへ感情が移り変わったのが分かる。私はゆっくりと両手で柱に触れて、思い切り嘲笑う様に言葉を言い放つ。
「純粋な小さな女の子を隠れ蓑にした卑怯者、いい加減に出てきたらどうなのかしら? もうあの子はいないわよ。貴女は一人ぼっち。でも私たちは貴女をこれっぽちも可哀想だなんて思っていないわ。いくら憎くても自分の両親を呪い殺すような人……そんな人を救う価値なんて私たちにはないわ」
そこまで言った瞬間、私が触れていた鏡の柱から黒く圧倒的な霊気が一気に溢れ出す。綺麗な霊気しか持っていない莉緒と小倉は苦しそうな表情で結界を張り柱から離れた。
「ごめんなさいお嬢……私たちでは由加里に勝てない。でも全力でサポートする!」
「お嬢! 無茶はするな!」
莉緒と小倉がそれぞれサポートしやすい位置に移動しながらそう声を掛けてくる。
「分かっているわ。二人とも下がっていて」
柱から出た黒い霊気は空中でボウリングの玉くらいの大きさの一塊になり、力なく浮いていた由加里の体へ吸い込まれていく。全ての霊気が吸い込まれると、由加里の体は小刻みに痙攣してからゆっくりと閉じていた目が開いた。その目は白い部分がないほど真っ黒に染まっていて、焦点が分からないような状態だ。
「私の記憶を勝手に覗いておいて、知ったような口を利くな!」
由加里の叫びで柱に大きな日々が入る。
「知ったような口を利くなですって? 私は覗かせてもらった記憶から読み取れたことしか言っていないわよ。貴女の苦しみなんて知る訳がないでしょう。私は貴女ではないもの」
戦闘態勢を取る私に、由加里は苛立ちを露わに言葉にならない咆哮をあげる。
「あんたも同じ力持っているんだろう! それなのにどうして私を攻撃する!」
放たれる霊力波を避けながら、間髪入れずに連続で霊力波を由加里へと放ち続ける。連続技を避けることができずにまともにくらった由加里は、凄まじい悲鳴をあげながら無茶苦茶に鏡を壊し始めた。
「そうやって鏡を割ったって何の脅しにもならないわよ。どうせ割るならこれくらいはしないと」
私は周囲の床に散らばる鏡の破片に霊力を通す。私の霊力によって宙に浮いた破片が一斉に由加里へと突き刺さる。
「ぎゃああああ! お前よくも!」
鏡の破片のシャワーを浴びた由加里は怒り狂い、唯一砕けていない鏡の柱に気をぶつけた。するとそこに現れたのは三人の安斎の姿だった。
「え……どういう事なの……?」
莉緒が狼狽えて私を見つめる。その声を聞いて思惑通り驚かせることができて喜んでいるのか、由加里はいたずらっ子のような笑みを浮かべこう言った。
「お前たちの仲間はどれだかわかるか? 一つだけ本物の本人の魂だ! さあ見せてみなよお前の力を!」
柱に映し出された安斎は、それぞれ口々に助けてくれと訴えている。それは私でさえも驚くほど高度に作り出されており、一瞬自信が揺らぐ。すると隣に莉緒がやって来て、私の肩にそっと触れる。
「大丈夫、お嬢なら……夜羅なら絶対に分かるよ。だって私たちの誇りだもの。夜羅は由加里よりも強い闇の力を持っているのに、それを人のために使えるよう必死に努力してここまでやって来たでしょう? そして沢山の人を救ってきた。沢山の霊も救ってきた。それは夜羅にしかできないこと。それでも夜羅はやって来た。だから大丈夫」
莉緒は私と目線を合わせて私の目をじっと見つめて励ましてくれた。それだけで不思議と自信が湧いてくるのだから、やはり仲間の存在は大きいのだと改めて感じる。
「そうだよお嬢。皆お嬢の力を信じているしお嬢自身を大切に思っている。それは安斎だって同じだよ。性格がああだから素直に認めないし抜かされたのが相当悔しいみたいだけど、安斎はお嬢の部下だって胸を張って言ってるんだよ本当は」
安斎の体を担いできた小倉が、莉緒の手も借りながら私の足元へ安斎の体を横たえて笑う。
「ありがとう、みんな。私を信じてくれて。さあ。寝坊助の安斎を起こすわよ」
私がそう言って笑うと、二人もほほ笑み返してくれた。
「おいおい! 早くしないと三人とも呪いで消してしまうぞ! 本物はだあれだ!」
痺れを切らしたのか私たちが団結している様を見て苛立ったのか、由加里が声を荒げる。
「心配しなくても遊びは終わりにしてあげるわ。私たちは仲間を大切にするの。それが私たちの力の源であり原動力なのよ」
横目で由加里を見上げながら、柱にそっと右手で触れる。本物の安斎だと確信した、真ん中の安斎の前へ。
「この程度で私たちを欺こうなんて、随分と軽く見られたものね。そんなに私たちは弱くないわ。本物の安斎はこれよ!」
右手で霊気を送り込み、霊気が触れた魂を一気に柱から引き抜いて手に持ち、横たわる安斎の胸へと押し付ける。すると安斎の体が激しく痙攣したかと思うと、咳こみながら勢いよく飛び起きた。
「大丈夫? 安斎」
莉緒が背中をさすると安斎は数回深呼吸をしてから、ようやく顔を上げた。
「死ぬかと思った……」
掠れた声でそう言うと、安斎は私たちの顔を一人ずつ見てからそのまま頭を下げた。
「迷惑かけて悪かった。助けてくれてありがとうな」
照れくさそうな言い方が安斎らしくて、私たちは顔を見合わせて笑った。
「それにしてもお嬢、よく俺が本物だって分かったな」
不思議そうな顔で私を見つめる安斎に、私はにっこり笑って答える。
「分かるわよ。貴方は私の大切な部下であり仲間であり友人なのだから。間違えたりなんかしないわ」
「そうか……ありがとうな。やっぱりお嬢はすげぇや」
「褒めてくれてどうもありがとう」
安斎と笑い合うと莉緒と小倉も笑う。そして四人揃って悔しげにこちらを睨んでいる由加里に向き直った。
「さあ。もうこれで終わりよ。由加里、私たちは貴女を許さないから覚悟なさい」
私の言葉を鼻で笑うと、由加里は何やら呟き自らの目の前に自信よりも大きな呪いの力の渦を作り出した。
「なんだあれ……」
「あんな力がまだ残っていたなんて!」
「まともにくらったらひとたまりもないぞ!」
驚きと恐怖で固まる安斎を筆頭に、莉緒も小倉も圧倒的な呪いの力に恐怖で顔を強張らせている。
「お嬢……逃げろ……」
安斎が私の手を取り由加里から距離を取らせようと引っ張る。私はその手をそっと振り払った。
「お嬢! いくらお嬢でもあんなのに勝てるわけがねぇ!」
「どうして勝てるわけがないと言い切れるの?」
もう一度私の手を取ろうとした安斎から距離をとり、私は問いかける。
「だって……あんな呪いの力……いくらお嬢だって……」
尚も大きさを増す由加里の呪いの力は、私以外の全員を恐怖に陥れるには十分すぎるほどの力だった。
私は安斎たちに背を向け由加里に近づいていく。
「お嬢!」
安斎が後ろで叫ぶが、私は振り返らずに静かに言葉を紡ぐ。
「安斎、莉緒、小倉。どうして私が夜羅という名前を王から与えられたか知っている?」
背後で静かに首を振る気配がした。
「夜羅。夜は闇を表し羅は修羅を示す。つまり、闇の果てしない闘いを意味する名前なの。それは私の本当の力を身をもって知った王がつけてくれたのよ」
「王が身をもって知った……? もしかしてあの噂は本当なの……?」
莉緒がハッとしたように言う。
「噂ってもしかして……」
安斎と小倉もハッと息を飲んだのが分かった。
「ええ。本当よ。私は一度だけ王と全力で闘った。そして勝ったのよ。負けた王は、私のことを地獄の姫君とさえ言ったわ」
自分の左手に全力の黒い霊気をまとわせ始めながら、私は由加里のほぼ真下まで来た。
「お嬢……」
後ろで固唾をのんで見守る皆を守るために。そして邪悪にまみれた由加里の魂を救うために。私は渾身の祈りを込めて内に眠る力を呼び覚ます。
「我が魂に眠る闇の力よ。今我が意志のもとこの場に具現せよ」
私の言葉と共に体を包む黒い霊気が巨大な龍の姿へと変わっていく。
「まさか……霊龍を操れんのか……」
安斎の驚きを含んだ声が聞こえる。
「こういう力があるのは知っていたけれど実際に見るのは初めてだわ」
「僕も初めて見るよ……すごい圧力だな」
莉緒と小倉の声を聞きながら、私は黒い龍を体に纏わり憑かせて可愛がるように笑みを浮かべる。
「あはははは! そんな大層な力をもってしても私は止められない! お前なんかに止められるもんか!」
自分の呪いの力に余程の自信があるのだろう、由加里が勝ち誇ったような笑みで私を見下ろす。
「止められないかどうかやってみればいいじゃない。その程度の呪いで私に勝てるかしら? 惨めな悪霊さん」
「ふざけたことを! お前なんか死んでしまえ! うああああああああ!」
由加里は絶叫しながら溜めに溜めた呪いの力を私に向けてついに放った。私は素早く黒い龍に指示を出す。
「喰らいなさい。そして返しなさい黒龍よ!」
ざああっと音を立てて黒龍が由加里の放った呪いの力へ突っ込んでいく。そして大きな口を開けて黒い呪いの塊を飲み込んだ。
「なっ……」
絶句する由加里の目の前へ一瞬で移動すると、黒龍は飲み込んだばかりの呪いの塊を自身の霊気と共に勢いよく吐き出した。
「ぐあああああああああ!!」
黒龍の地獄の霊気に包まれた自身の呪いの力をまともに正面から受ける形になり、由加里は断末魔をあげる。
私は暴れ狂う黒龍と自分の魂を繋いでいる鎖を手に持ち、黒龍を自分の方へ強く引き寄せた。黒龍は自分の役目が終わったことを悟り、私の魂の中へ帰っていく。黒龍の姿が消えると同時に、ついに鏡の柱が大きな音を立てて割れ、粉々に砕け散った。
「こんな……こんな力を生きている人間が持っているなんて……私は……死んでも敗者なのか……」
ボロボロの体で由加里が息も絶え絶えに呟く。
「そんなことはないわ。私は努力してこの力を操る術を手に入れることができた。貴女はたまたまそれができなかっただけよ。敗者なんかではないわ。あんな目に遭ってきたんだもの……今貴女がこうして悪霊となっているのは仕方のないことだと私は思うわ」
私がそう言うと、どこか吹っ切れたように由加里がほほ笑む。
「これから……私はどうなるんだろう……。沢山の人を傷つけて……私は……シンシアのようにはなれなかったしこれからもなれないだろうね……」
「そうね……両親を呪い殺してしまった時点で貴女が成仏して天国へ逝く道は閉ざされてしまったわ。だからこっちへ逝くことになるけれど……いいわね?」
私は鏡が貼り付けてあった壁に左手を翳し、気を込める。
「我が名において命ずる。獄門よここへ開け。我が名は夜羅なり」
最後に左手で印を結ぶと、そこへ禍々しい霊気を放つ大きな扉が現れた。
「地獄か……私はそれだけのことをしてしまったんだ、逝くよ。そして罰を受ける」
由加里は清々しいくらいの笑みで扉の前へ立った。
「私は地獄の力を使え、そして門も開けることができるわ。だから貴女を地獄に送っても私のはなんの悪影響はないから、もう誰かを傷つける心配はないわ。それに、地獄だって皆が想像するほど酷いところではないのよ。きちんと罪を償ってそれ相応の罰をきちんと受ければ、生まれ変わりを許されることもあるの。私は貴女がそうなって、生まれ変わって、今度こそ幸せを掴めるよう祈っているわ」
「……どうしてそこまで……」
由加里の頬を一筋の涙が伝う。
「私はこの力を神様からのプレゼントだと思っているの。もっと幼い頃は貴女と同じように、普通に生まれてきたかったと思うこともあったわ。けれど私は仲間に出会えた。その仲間たちが私の力で救える命が、救える魂があると教えてくれたの。それなら、私にしかできないことがあるのなら、この力を誰かを救うために使おうと誓ったのよ。だから、こうやって魂を救い続けているだけよ」
私がそう言うと、由加里は私を見つめて
「あんたは強いな」
と呟いた。
「強くなんかないわ……。定期的にこの力を使わないと自分の魂まで飲み込みかねないのよ、この力は。ただそれだけよ」
「そう……」
由加里が同情するかのようにほほ笑んだ。
「それにお嬢は困ってる人を放っておけないのよ。ね?」
莉緒が私を後ろから抱きしめながらおどけた様に言う。
「そうだぜ。おせっかいにも程があるけどな」
「おせっかいと言うか危なっかしくて見ていられないけどね」
安斎と小倉も続く。
「もう、皆して何なのよ……。おせっかいとかそれこそ余計なお世話だわ」
私の控えめな抗議に周囲が笑いで包まれる。
「ほら、あんまり門を長時間出しておけないんだからさっさと済ますわよ」
私を抱きしめたままだった莉緒から脱出し、門の前の由加里に近づく。
「門を開けるわよ、いいわね? ……貴女が本当に生まれ変わって来世で幸せになってくれることを私たち四人とも願っているわ」
その言葉に莉緒、安斎、小倉が温かい笑顔で頷く。
「皆……酷いことをしてごめんなさい……。特に安斎さん、ごめんなさい。ここの……遊園地のオーナーさんにもごめんなさいと伝えてください……皆、ありがとう」
泣きながら深々と頭を下げる由加里には、もう危険な悪霊の面影はなかった。
「伝えておくわ。しっかりと」
私が約束するわと言うと、由加里はもう一度だけ頭を下げた。そして私の目を見て覚悟を決めた顔で頷く。
「我が夜羅の名において命ずる。獄門よ、開け」
気を込めて扉に触れるとゆっくりと地獄の入口が口を開けた。
「本当に……ごめんなさい。そしてありがとう」
由加里はそれだけ言うと静かに門の向こうへ消えて逝った。
「獄門よ、閉じろ。今門をくぐりし者にどうか深い慈悲がありますように」
ゆっくりと門を閉じてからしっかりと門を消す。そして三人に向き直った。
「お疲れ様、お嬢」
莉緒がそっと私を抱きしめる。
「莉緒も……お疲れ様」
抱きしめ返すと、莉緒は嗚咽を漏らした。
「莉緒……」
小倉が私に抱きしめられたままの莉緒の肩に触れる。
「あの二人があまりにも可哀想で……。なんであんな可愛くて本当はすごく優しい子があんな目に遭わなくちゃいけないの?」
「そうね。でもね莉緒、ああいう子に幸せになってほしいと思っているのは私たち皆同じよ。貴女は優しいから苦しかったでしょうね……。でも、きっといつか幸せになってくれると信じているわ。貴女もそうでしょう?」
「うん……。そう思ってるわ……」
「それならここで泣いていても仕方ないわ。ないだろうけれどもしもあの子たちにもう一度出会う機会があった時に顔向けできるように、私たちで一人でも多くの人を救いましょう?」
「そうね。頑張らなきゃいけないね」
莉緒は私から体を離すと、指で涙を拭いながら笑って見せた。
「そうだぜ莉緒姉、俺らは仲間でこれからも頑張るんだからよ。気持ちは分かるがこんな所で泣いてる場合じゃねえぞ」
ずっと黙って様子を見ていた安斎が、莉緒にハンカチを差し出しながら目を逸らせて言う。
「ふふ。安斎、貴方って優しいのね」
「うるせえ!」
安斎が顔を赤く染めながら叫んだのがおかしくて、皆で大笑いしながら四人揃ってその場を後にした。
後日。
犬塚からの感謝の手紙と報酬を受け取った私たちは、報告書などの作業に追われながら組織の事務所で思い出話に花を咲かせていた。
安斎が連れ去られるまでに撮影していた写真や小型カメラの動画は、今後の戦闘方法に活用できそうだということになり、分析などが進んでいる。その一方で私たちは大きな一件を全員一応無事にこなして帰ってきたということで、少し組織の人間に注目されるようになったが当の本人である私たちはそんなことにはお構いなしだ。
ちなみに私個人は、体への負担が大きいため使用が制限されている黒龍を呼び出し操ってしまったので少々王に小言を言われたが、黒龍を使わなければ他の皆が死んでいたかもしれないと冷たく言い放ってしまい王が頭を抱えたことも王に言い返したと話題にされたが、それも聞き流している。
あの件以来変わったことと言えば、安斎が私に対して皮肉を言わなくなったことと莉緒と安斎の距離がぐっと縮まったことだろうか。私が安斎の目標に勝手にされてから、安斎はことあるごとに私が黒龍を使う場面の動画を食い入るように見ているが、そもそも地獄の力を持たない安斎が黒龍を扱うことはできないことに本人はなんと気がついていないので、皆分かってはいてもそのまま放って置いている。
莉緒と安斎が元々仲が良かったが、それがどう変化したのかはまあ言うまでもないだろうが、もし機会があればその話はその時にでも。
とにかく今回の仕事は少し辛かったが、何だかんだ皆この仲間が好きで、このメンバーでの仕事が増えたので忙しくなったこともまたの機会にでもお話ししよう。
「皆、次の依頼よ」
依頼を管理する部署の人間から手渡された依頼書をひらひらさせて私が言うと、
「了解!」
という元気な声が事務所に響き、それぞれに気合を入れてから事務所を後にした。
完