喰家〈二〉
酷い目に合った。流星はたどり着いた自宅のベッドに倒れ込んだ。
あれからめっきり体調を崩した流星は、吐きこそしなかったものの悠に肩を貸してもらわなければ歩けないありさまになってしまった。
なんとか自宅マンションまで帰った流星は、悠から幾つかの注意事項を言い渡された。
「君の体調不良は瘴気にあてられたことによるものだ。だからまず、シャワーで穢れを洗い流すこと。本当は神酒を飲んだり、清められた塩をなめたりした方が手っ取り早いんだけど、君の場合は例外だからね。どうなるか解らない」
例外とは何なのか、流星は勿論解っていた。解っていても早く楽になりたいと思う。
「……それができれば、そもそもこんな苦労しねぇよなあ」
流星はだるい身体を引きずって、シャワーを浴びに向かった。
シャワーを浴びている間に、これからすることを反芻する。
シャワーを浴びた後は、清潔な寝間着に着替えること、食事は控えること、するとしても肉や魚介類、卵は口にしないこと、寝室の四隅に盛り塩をして日付が変わってから夜明けまでそこから出ないこと、その間インターフォンや電話など外部からの接触には一切応じないこと。
「私は夜明け以降に電話するけど、それ以前には全部反応しちゃ駄目だからね。大体七時くらいに電話して、反応が無かったら三十分ごとに連絡入れるから。いい? 七時だからね。それ以前に私から電話がかかっても、絶対に答えちゃ駄目だよ」
そう強く念押しして、悠は帰っていった。ちなみに帰り際、部屋を見回してため息をつかれた。
別に部屋が散らかっていたことに呆れたわけではないだろう。そもそも散らかっていないのだから──シャワーから出た流星は、脱ぎっぱなしの服を洗濯機に入れながら思う。
シャワーを終えた身体は、驚くほど軽くなっていた。まだ気怠く、頭が重いが、それでも動かないというほどではない。食欲は依然無いが。
寝室に悠から渡された塩で盛り塩を設置し、部屋を軽く掃除すると、電気を落とした。何かを口に入れる気分ではないし、いい加減起きているのがしんどくなってきたのだ。
ふとんをかぶって目を閉じると、ほどなく眠気が訪れた。
───
どれほどの時間がたったのだろうか。流星はふと目を覚ました。同時に、寝室の扉が軽くノックされていることに気付く。
誰だろうと思考を巡らせ──凍り付いた。
流星はひとり暮らしである。こんな夜中に上がり込む身内なんていないし、そもそも合鍵を持つ者自体いない。
つまり、寝室の扉を叩く者などいるはずないのだ。
誰だ──そう言いかけて、流星は口をつぐんだ。
応えてはいけないという悠の言葉を思い出したからである。
しばらく横になったまま、目を閉じてノックの音を聞いていた流星だったが、次の瞬間ひゅっ、と息を飲むことになる。
「流星」
鈴を転がすような澄んだ声。耳に馴染むその声は、悠のものである。
流星は窓の外を見た。カーテン越しの真っ暗な窓は夜明けがほど遠いことを示している。
「流星、開けて」
悠は七時に連絡を入れると言っていた。時間を確認するまでもなく、七時ではないことは明らかである。
「ねぇ、開けてったら」
それに悠は合鍵を持っていないのだ。なら部屋の中まで入ってくるわけないし、そうでなくとも予告無くこんな時間に来るわけがない。
「開けて、ねぇ開けてよ」
ノックは依然続いている。遠慮がちだったのが、徐々に強くなっていき、とうとう扉を叩き割らんばかりの音になった。
おそるおそる扉を見つめていた流星は、あることに気付いて目を見開く。
今にも壊れそうな音にも関わらず、扉は一切揺れていないのだ。音は確かに扉から聞こえているのに──そもそも扉の前にいるのに、鍵のかかっていない扉を開けようとしないのはなぜなのか。
聞こえている声も変化している。最初は悠の声だったものが、どんどん低く太くなり、獣の呻きのようになっていった。それなのに言葉自体ははっきりと聞き取れる。
開けて──と。
「開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて、開けて」
機械のようにくり返される要求と、音だけの打撃。ただ耳にのみ届く異常が、流星の精神を削っていく。
気付けば止まっていた呼吸を意識して行い、ひたすらその数を数えた。そうしなければ、気が狂って扉を開けてしまいそうだった。
それから、一体何時間たったのだろうか。時間を確認する余裕は無かった。窓の外が白んじていることすら気付かず、ひたすら己の呼吸を意識していた流星は、不意に全ての音が止んでいることを認識した。
ああ、よかった、終わったんだ──そう思って、全身の力を抜く。そこでようやく夜が明けていることにも気が付き、ゆるゆるとベッドに沈み込む。
再び眠気に身をゆだねようとしたが、それは叶わなかった。
「開けてって、言ったのに」
耳元に聞こえた最後の言葉に、流星は悠からの電話が来るまで硬直したまま動くことができなかった。