喰家〈一〉
「はい、これ」
「何これ」
事務所に入ったとたん、あいさつもそこそこに渡されたものに、流星は顔をしかめた。
紙袋に詰め込まれているのは、雑巾に洗剤、スポンジなどなど──つまり掃除用具である。顔を上げると、同じような紙袋がソファーに置かれている。中身はおそらく同じだろう。
「……俺、仕事だっつって呼び出されたんだよな。おまえ、いつの間に掃除屋に転職したわけ?」
「してない。これも立派な除霊の道具だよ」
「……前にネットで消臭剤で除霊できるって聞いたけど、あれ事実とか?」
「できるわけないじゃない。頭おかしいんじゃないの」
「言ったの俺じゃねぇよ」
ならなぜ、自分は掃除用具を持たされているのだろうか。
流星の疑問に、悠は髪をまとめ上げながら答えた。
「掃除って、馬鹿にならないんだよ。掃除するだけで家にたまった悪い気や弱い浮遊霊なら払えるし、住んでる人間の運気も上がる。それ以上のことをするにしても、前準備として掃除することは悪い手段じゃない。今回は後者だね」
「本格的に除霊する前に、掃除してやりやすくするってことか?」
「そういうこと」
鏡も見ずに器用にシニヨンを作った悠は、もうひとつの紙袋を抱えた。
「ところで君、ホラー映画は見るかい? 小説や漫画でもいいけど」
「……見ねぇ」
さらされた白いうなじから目をそらしながら、流星は呻くように返した。
「あれ、あんまりよくねぇ。寄ってくる」
「そうだね」
答えは解っていたようで、悠はあっさり頷いた。
「まあ私も詳しくはないけど。あれって呪いの家っていうの、よく出てくるらしいよ。一度入ったら出られないとか、必ず死ぬとか」
「へえ……ん?」
くるり、と流星は視線を戻す。
「おい、まさか呪いの家を掃除すんのか? 今から?」
「季節外れの大掃除だ。わくわくするね」
「するかあぁ!!」
流星の絶叫が、事務所中に轟いた。
───
その家は郊外にあった。いかにも日本家屋──などではなく、ごく一般的な、二階建ての一軒家である。
「一時的だけど水道と電気は通してもらってるから、掃除に支障は無いよ」
鍵を開けながら、悠は微笑んだ。とても綺麗な笑みである。
流星に、それに見とれる余裕は無かったが。
「何で入ったら最後、みたいな家を掃除しなきゃならないんだよ……」
「必要だからに決まってるでしょ。ほかにあると思う? この家、取り壊されるのに」
「だったら余計に意味解んねぇよ」
「さっき説明したでしょうが。そのまま別の家建てても呪いを引き継ぐからだよ」
事前に用意したスリッパに履き替え、マスクをしながら、悠はずんずん奥に進んでいく。それにならいつつ、流星は尋ねた。
「掃除してたら死亡、とか、気付いたら出られなくなってた、とか、そういうのにならねぇの?」
「大丈夫、今は」
リビングに入った悠は、カーテンがかかったままの窓を開けた。たてつけが悪いのか、がたがたと引っかかりながらも、窓は普通に開く。
「まずは換気だよ。一階全ての窓を開けていこう」
「一階だけ?」
「ひとまずはね」
そうして始まった大掃除は、悠の効率的な指示のおかげでスムーズに終わった。隅から隅まで、ではなく、目立つ埃や汚れを落とすだけだったから、というのもあるが。
そうして昼過ぎまで続いた掃除を終え、ふたりはひとまず庭にシートを敷いて腰を下ろした。
庭は雑草だらけであり、抜かなくてもいいのかと問うと、建物の中だけでいいらしい。
「そろそろ、この家のことを話そうか」
悠は手をウェットティッシュでふきながら、家を仰ぎ見た。
「築三十年、本来ならこの家は、古いながらもまだ住めるはずだった。だけど十年ほど前、突如呪いの家になってしまった」
「……事故物件になったのか?」
「結果的にはね」
持参したおにぎりを食べながら、悠は肩をすくめた。
「誰かが呪いをかけたのさ。どういう理由で、一体どこの誰がやったのかは、今となっては解らない。解るのは、ある程度知識がある人間がやったってことと、最終的に家主一家が怪死したってことだけ」
「怪死……」
「郊外とはいえここは都市の中だし、野生動物なんて鳥や猫ぐらい。なのにここの一家は中身を貪り喰われていた」
「貪り喰われて……」
「そう」
悠はとん、と流星の胸──心臓の上をつついた。
「腹を喰いちぎられ、内臓を引きずり出されたんだよ」
そのままつう、と指を下ろす。食道や胃、腸をなぞるように。
「…………」
流星は青ざめた顔で食べかけのおにぎりをラップに包み直した。
「一階は綺麗になったけど、二階は無理だろうね。死体はみんな、二階で見付かったし」
「無理って、何が」
「血痕が残ってるんだよ。専門の業者が入ったけど落ちなかったらしいし、その業者は死んじゃったし」
「…………」
流星はこれ以上の食事を断念した。
「解呪の第一段階はひとまず終了ってことで、そろそろ第二段階に入ろうか」
自分の分のおにぎりを食べきった悠は、楽しそうに笑った。紅い唇がつり上がり、弧を描く様に、流星は神経を直接撫でられた気分に陥る。
「じゃ、じゃあ俺ここで」
「食べないんならさっさとしまってくれる? 引きずっていくよ?」
「あ、はい」
拒否権は無かった。
───
二階に上がった瞬間、全力で拒否しなかったことを激しく後悔した。
一階とは別空間なのでは、と思うほど酷い臭いだったのである。
一階の異臭は掃除をしていないゆえのこもった臭いで、マスクで充分に防ぐことができた。
だがここの臭いは、それを煮詰めたような、鼻どころか脳さえも麻痺させる悪臭。吸い込んだとたん、肺がただれたように痛み、気管さえもうかまく動いてくれない。
首を締められるよりは僅かにまし、というありさまに、流星はマスク越しに鼻と口を押さえ、酸欠で倒れそうになりながら、悠の後ろを付いていく。
掃除用具から竹刀袋に持ち替えた悠は臭いなど感じていないというように、軽やかな足取りで奥へ奥へと進んでいった。そう広くない家だ、目的の部屋にはすぐ着いたようである。
扉を開けた悠に、流星は続くことができなかった。開けたとたん、悪臭が耐えがたいものになったからだ。
「う゛、おっえ」
流星は口と喉を押さえ、嘔吐感をこらえた。膝こそ着かなかったものの、正直倒れ込みたい気分である。
「我慢せずに降りた方がいいよ」
平素と変わらぬ悠の声にも、流星は顔を上げられなかった。その言葉を幸いに、転げるように階段へ走っていく。
やがて見えなくなった巨体に、悠は肩をすくめた。
「瘴気には耐えられない、か。あいつにとっては今はいいのか──やれやれ」
さて、と顔を部屋に向ける。そこには十畳ほどの空間が広がっていた。家具のたぐいはほぼ無いため、より広く見える。それだけならただの一室だが、壁や床に残ったものが全ての印象を塗り替えていた。
ほこりが積もった、あるいは黒くくすんだそこには、変色した血痕が大量にこびりついていた。
無事なところがほとんどない、それどころか天井にまで及んでいるそれらは、ひとりふたりではきかない。本当に家族全員ここで──と思う悠の心は、揺らぐことは無かった。
こういう仕事をする時、悲惨な事件や場に行き合うことは珍しくない。常と言っていい。残酷さ、おぞましさは、当然のように存在する。
だから悠は、慣れた。悠だけではない、こちら側に身を置く以上、皆慣れねばやっていけない。でなければ、身体が死ねばまだましで、文字通り、生きたまま地獄に行くなんてことにもなりかねない。
はたして流星はそこまで行きつけるのかと思いつつ、悠は部屋で唯一残った家具へと歩み寄った。
それは鏡台である。鏡がひとつ、引き出しがひとつの、シンプル極まりないもの。ほこりをかぶっている上にすっかり日焼けして変色してしまっているが、汚れらしい汚れがひとつも無い、ほこりを払えばそのまま使えそうだった。
こんな血だらけの部屋で。
血まみれで、汚れていない場所なんてひとつも無い場所で。
まるで後から置かれたように──それでいて、血の跡は鏡台の周りだけ途切れているのに──
「鏡の向こうは異世界──だなんて話をよく聞くけど、鏡そのものが異物だっていうのも、よくある話だよねぇ」
悠は呟きながら、背負った竹刀袋から刀を取り出した。すらりと刀を抜き、無造作に振るう。
左下から、右上へ。
ななめに切っ先を動かして、鏡台を斬った。
空気を斬るように、抵抗も無くあっさりと。
鏡台は斬られた場所を沿うように、真っ二つになって崩れた。
「これで第二段階終了っと」
悠は刀を収め、髪をほどいた。
「後は明日に、いや、まずは今夜を乗り越えなきゃだね。さて、流星を回収しないと」
悠は軽やかな足取りで部屋を後にした。
その後ろで鏡台が血を流していることなど、気にもしないで。