血族〈一〉
鬼童子になった当初、一時的な怪物化以外に人外となったことの実感は無かった。だが悠曰く、そのうち素のままでも人から離れていくらしい。
「徐々にではあるだろうから、コントロールはできるとは思うけどね。でも油断はしないこと。それと、君はすでに人間ではないという自覚を持つこと」
悠は笑みを消し、真剣な表情で言い募った。
「繰り返すけど、君が鬼童子というだけで殺すに足ると考える退魔師は、一定数いる。相手によっては、向こうが認識しただけで狩りにくる奴もいる。そういう連中は会話をしても無駄だよ」
だから、と念を押すように言った。
「そういう連中からは、すぐ逃げろ」
───
正面には悠の兄・椿刀弥。右側には悠の友人・橘猛。
場所は椿家の屋敷である広大な日本家屋。その奥にある客間。畳敷きで、開かれたふすまから日本庭園が楽しめるようになっている。目の前の机には玉露が淹れられた湯呑みが三つ。
そして空間を支配しているのは、沈黙である。
──……気っっっまず!!
流星は内心吐きそうになった。
ダムから離れた三人は、椿家と橘家、それぞれの車で東京に戻ってきた。そのまま解散──などにはならず、この屋敷に連れられてきた。
刀弥は帰宅、猛は捕らえた少年の尋問、流星は傷の手当て。理由はそれぞれ違うが、そろって屋敷に来たことは必然だったのである。
流星の手当ては、滞りなく終わった。元より血は止まっていたし痛みも無かった。加えて椿家の使用人は手際よく手当てしてくれたので、負担も無かったのである。流星が鬼童子と知ってか知らずか、客人として接してくれたのも嬉しかった。
少年の尋問はその間に終わったらしく、戻ってきた猛は苦い顔をしていた。少年がどういう扱いになるかは、今後話し合うという。
刀弥は尋問が終わってすぐ、また出かけた。橘家に猛が泊まることを含めて説明しにいったらしい。その時点ですでに深夜と言える時間だったのだが、刀弥はお構い無しだった。事前の電話もしてる様子が無かった。
「何、ちょっと話すだけだ。ちょっと、な」
そう言う刀弥は笑顔だった。流星はなぜか背筋が凍ったし、猛はあからさまに青ざめた。
流星も椿家に泊まることになったため、悠に連絡を取った。こちらは時間をはばかってメッセージアプリである。
翌朝六時に電話がかかった。相手は勿論悠である。
『まだいるの?』
恐ろしいほど冷たい声だった。刀弥の笑顔並に背筋を凍えさせながら、はい、とぼそぼそ返すしかできない。
悠は地面にめり込みそうなほど深いため息をつくと、
『迎えに行く』
とだけ言って電話を切った。
その後猛と一緒に朝食を摂り、悠の電話のことを話していると、刀弥が帰ってきた。そのままなぜか流星の向かいに座り、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべたまま無言を貫く。自然流星と猛の口も閉ざされた。
そして、冒頭に至るのである。
──俺何かしたかな……
流星は遠い目になった。視線どころか、意識も遠くなる思いである。
確かに、ダムでの質問は失言だった。車に乗る前に必死で謝った。刀弥はけろっとした顔で気にしてないと言っていたので、これが理由ではないはずである。根に持っているにしても、猛を巻き込む理由は無い。
ならほかに理由が、と考えても、そもそも刀弥と顔を合わせたのは、今で二度目である。何かをすると言っても、そもそもする暇は無かった。
意味も解らずただただ怯える流星に、刀弥はくつくつ笑った。
「心配しなくても、取って喰いやしないよ」
「は、はあ」
「ちょっとな、面白いと思って」
刀弥の言葉に首を傾げると、彼は肩をすくめて笑みを困ったものに変えた。
「お、面白いって、何がですか」
「君の存在だよ。悠はここ一年ぐらい、人を寄せ付けなかったからな。傍にいるのは朱崋ぐらいだった。……実は俺も、一年あいつの顔も声も、見てないし聞いてないんだ」
「そう、なんですか」
悠が家族と縁が薄いのは、何となく察していた。いないがゆえだと思っていたのだが、実際は兄がふたりいた。猛曰く、母は亡くなっているが父は存命らしい。
にも関わらず、悠は家族と距離を置いている。義務教育も終わっていないはずの、家族といるのが当たり前の年齢の少女がだ。それは異様だったし、また異常だった。
同じ東京都内にいるのに、一年も会っていないなど、普通の関係とは言いがたい。
「……会わなかったのは、悠がそう望んだからですか? それとも」
「悠の意思だ。そうか、君は知らないんだな」
だからあんな質問したのか、と呟く刀弥に、流星は冷や汗をかく思いだった。今でも昨夜の失言を思い出して肝が冷える。
「悠が話してもいいと言うなら話してもいいが……そもそも俺が言うべきことでもない。訊きたきゃ悠に訊くんだな」
「はあ」
「まあその場合、あいつとの仲が修復不可能になるだろうから、おすすめはしない」
軽い口調で言われたが、声音は真剣そのものだった。言外に訊くなと言われた気がして、流星は黙り込む。それほど無神経な発言をしたという自覚もあった。
「ところで、刀弥さんは何でそんなに不機嫌なんですか」
流星が黙るのと入れ替わりに、猛が口を開いた。
あ、やっぱ不機嫌だったんだ──と流星が思っていると、刀弥は頬をかいた。
「あー……実はな。俺もついさっき知ったんだが、あっちの土御門の兄妹がこっちに来るらしくてなあ」
「っはあ!?」
猛は勢いよく立ち上がった。目を丸くする流星を無視して、会話は続く。
「よりにもよって……しかも兄妹って、あの兄妹ですよね? 特に最悪なふたりじゃないですか。悠もこっちに来るってのに」
「もう悠に連絡していたのか。じゃあ、顔合わせないわけにはいかねぇか」
刀弥はため息をついた。
話が見えない流星が戸惑っていると、ふすまが勢いよく開かれた。
視線をそちらに向けると、立っていたのは悠である。悠はしかめっ面で流星を睨み付けた。
「悠?」
「帰るよ」
悠は硬い表情のまま、流星を立たせようとした。だが、刀弥がそれに待ったをかける。
「悠、聞こえていたよな。そういうわけにはいかないのは解ってるだろ」
「……刀兄」
「久しぶりだな──怪我は大丈夫か」
刀弥は先ほどとは違う、優しい笑みを浮かべた。細められた目も穏やかだ。
こうして向かい合ってみると、男女や年齢の違いはあれど、つくづくよく似ている兄妹である。一目で近しい血縁だと解るレベルだ。その上、両者共に隔絶した美貌であるため、視界が現実味の無い代物になっていた。
「大したことない。刀は振るえる」
「そうじゃなくて……あー、いや、それは後でな。それより、だ。あのふたりが来る以上、無視して帰ることはできないぞ。向こうもおまえが来るのは解ってるだろうしな」
「……ちっ」
「舌打ちすんな、行儀悪ぃ」
刀弥は頭をがしがしかいて立ち上がった。
「とりあえず、顔だけ出しとけ。親父も待ってる」
「……解った」
悠は不承不承頷くと、流星を睨み付けた。
「流星、君はこの部屋から出るな。私が戻ってくるまで待つこと、いいね」
「お、おう」
「猛、色々ありがとう。話はまた後日ね」
「ああ。無理すんなよ」
猛の言葉に、悠は僅かに力を抜いたようだった。そのまま刀弥と共に部屋を出ていく。
残された流星は、しばし呆然と閉じたふすまを見つめていた。