沈罠〈二〉
気付けば、日はどっぷり暮れていた。ゾンビの姿はとうに消え失せており、静まり返った周囲に猛の読経が響いている。
「…………………………………………………………………死ぬかと思った」
流星は呟きと共に、ぱったり地面に倒れた。
一体あれからどれくらいたったのだろうか。ここに来たのは十一時過ぎだったから、日が完全に落ちたところを見るに、最低でも六時間か七時間は経過しているはずである。
無限増殖するゾンビを、よくぞ何時間もさばけたと我ながら思う。自分はそこまで体力があっただろうかと首を傾げ、しかしすぐに気が付いた。
──鬼童子になった影響か。
もともと人より高い身体能力だったが、流星は最近、それが人外染みていることに気が付いていた。治癒力もそうだが、体力も力もどんどん人間から遠ざかっている。
ただでさえ並外れた巨躯の自分がとうとう人間の規格にさえ外れていっている事実は、流星の気持ちを沈ませた。
だが、人間の規格内にいるのか微妙な人物は、もうひとりいた。
──そういや、また唱えてんだよな。
起き上がった流星は猛を見やった。
流星がゾンビを必死で倒している間、猛は経を唱える声を乱さず、姿勢を崩すことも無かった。そもそも想定外の襲撃にすら動揺した様子は無く、ただひたすら自分の役割を全うし続けている。
肝が据わっているというレベルではない。恐怖が存在しているのか疑問に思うほど揺らぎが無かった。
その事実に今更ながら戦慄していると、突如、上着の内ポケットが震動した。
「わっふ!?」
間抜けな悲鳴を上げた後、それが自身のスマフォであることに気が付いた。
思わず猛を振り返るも、彼は一切反応していなかった。笑いを堪えている様子も無く、却って羞恥心を煽られた。
「……もしもし」
しかめっ面で電話に出ると、鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
『やあ流星。元気?』
その言葉にすぅ、と息を吸い、そして叫んだ。
「死ぬわあ!」
『生きてるじゃない』
「奇跡的にな!?」
一呼吸置いて、流星はスマフォを持ち直した。
「何で今電話したんだよ。ゾンビと戦ってるって思わなかったのか?」
『思ったよ』
「思ったん!?」
『──というのは冗談で』
悠は声を改めた。
『遠隔でそっちの状況は把握してる。で、ゾンビの反応が消えたから、電話したの』
「おまえのできること、ちょいちょい謎だな……で? 何か解ったのか」
わざわざ電話したということは、ゾンビの発生理由が解ったからなのかと思ったが、悠の返答は歯切れが悪かった。
『解ったというか……一応、ダムに沈んだ部分が大きな墓地だったってことは判明したけど、それが今回に直接関係あるかは微妙かな』
「そうなのか?」
『記録上、遺骨の移動は問題無く済んでるし、そもそも今になってっていう部分が解決してない。そこを解消しないことには、同じことが繰り返されるだけだからね』
「ふうん……」
『猛はどうしてる?』
問われ、改めて猛を見た。
彼は未だに経を唱え続けている。電話していることは気付いているはずだが、振り返りもしない。
「ずっと経唱えてる。凄いな、どんな集中力と体力だよ」
『その気になれば二日は唱えていられるよ、あいつ。なるほどね……ねぇ、来た時と今のダムの雰囲気で、変わったとこある?』
「変わったとこ……あ、そういや空気が綺麗になってるような……?」
言われて気付いたが、来た時はあれほど淀んでいた空気が、今は清澄なものに変わっていた。まだ若干重苦しいが、それでも随分変わっていることには違いない。
流星の言葉に、悠はそう、と答えた。
『なら鎮魂はうまくいきそうだね。問題は原因か……』
「今んとこ一切出てこないんだよな」
『うん。ここまで無いとなると、もしかしたら人為的なものかも』
「人為的って……一体何のために?」
『さあね。本当にそうかも解らないし。でも、それならゾンビが突然現れた理由も、日中なのに現れて君達を襲った理由も、説明できる──かも、しれない』
悠はため息をついた。
『いずれにせよ、日が明けるまではそのまま警戒すること。こっちも調査を続けるから』
「りょーかい」
流星がそう返すと、かすかな笑い声と共に通話は切れた。
スマフォを見つめ、流星は思案する。このまま一晩とのことだが、本当に猛は一晩経を唱え続けられるのだろうか。悠曰く、二日は問題無いとのことだが──
「いや、まず俺か」
ゾンビの迎撃のせいで、酷く消耗しているのは事実である。少しでも回復しようと身体の力を抜いた時だった。
ずぶり。
背中からの衝撃。胸を貫く熱。遅れて来る激痛。
「……あ?」
全ての工程が脳に到達する前に、流星は倒れていた。身体に力が入らず、そこで初めて、背中から刺されたことに気が付いたのである。
「悪いな、鬼童子」
流星を刺した何者かは、彼をまたいで猛の元へ歩み寄った。
「殺すなって言われてるから殺さねーけどよぉ……しばらく横になってろよ」
「っ……!」
流星は力無く頭を上げた。
顔は、すでに背を向けているために見えなかった。ただ、細く小柄な体躯は成人のものではないように見て取れた。声も若々しかったから、流星とそう変わらないのかもしれない。
読経はまだ続いている。猛はまだ気付いていないのかもしれない。声を上げたいが、痛みと混乱のせいでうまく声が上げられない。刺された場所が悪かったのか、あるいは毒が塗られていたのか。
そうこうしている内に、その人物は猛の背後に至った。振り上げた手には、剣のようなものが握られている。
「猛……!」
何とか声を上げた直前、剣は振り下ろされた。
そして──
「殺気、隠せてねぇよ」
金属音と共に受け止められた。
猛はいつの間にか振り返り、傍に置いていた長物を手にしていた。
黒い鋼で造られた、武骨な槍である。柄の一部に紅色の滑り止めが巻かれている以外は、装飾は一切無い。だが武骨かつ飾り気が無いゆえの美しさが、それには宿っていた。
猛は槍を振って、相手を剣ごと弾き飛ばした。見た目通り軽い身体は、コンクリートに呆気無く叩き付けられる。
「がっ」
「そっちの人を襲って、鎮魂の儀式を邪魔する──その意味、解ってるか?」
地面の上で悶える相手に、猛は冷酷な声を浴びせながら構えた。
「おまえは俺の敵ってことでいいんだな? なら加減しなくて……いいな?」
「……!」
敵が起き上がると同時に、猛は地面を蹴った。瞳は凍てつくように冷たく、しかし煌々と輝いていた。
───
通話を切った直後、机の上に置いていた水盆に変化があった。
水盆には水が満ち、そこに幾つかの水晶が沈んでいるのだが、その水晶がかき混ぜられるようにぐるぐる動き回り始めたのである。
「これは……流星に何かあったな」
悠の眉間にしわが寄った。
動きからして、死に瀕しているというわけではないようである。だがそれに近い危機に至っているのは間違いなさそうだ。
ダムの周辺は橘家の者が封鎖しているため、一般人は入れない。普通に考えればゾンビが再び現れたと見るべきなのだが、その反応は見られなかった。
そもそも、夜に現れるはずのゾンビが日中に現れ、日の沈んだ今は消えているという事実がおかしいのだ。
「まさかとは思うけど……ゾンビ達自体が罠だったかな」
言って、低くない可能性に舌打ちしたくなった。
件のダムの依頼を受けたのは橘家であり、難易度や日程の関係で猛が請け負うことになった。ひとりではさすがに困難なため複数人で行わなければならないが、橘家の事情で家からは出せない。だから立場上はフリーの悠に話が回った。
本来なら流星も含めて三人で対応するはずが、悠の怪我でふたりになってしまった。にも関わらず追加の人員が無かったのは、その事情のせいである。
もしゾンビの出現が、橘家の事情や悠のところに話が行くことを見越してしかけられていたとしたら──
「……! 朱崋」
「こちらを」
悠の呼びかけに、朱崋は刀を手に姿を現した。
朱崋から刀を受け取った悠は、即座に店の外に飛び出した。
外は、夜であることを差し引いても静かだった。
否、静かどころか──人の気配が無い。
本来あるべき喧騒も、生物の息遣いも、何もかもが一切消えている。
──結界を張ったな。
悠は視線を巡らせ、じっと待った。
やがて。
「ご機嫌よう」
通りを優雅に、場違いなほど華やかに練り歩く女がひとり。
黒地に鮮やかな炎を描いた着物をまとい、豪奢な細工を施した金のかんざしを艶やかな長い黒髪に差している。整った顔には派手な化粧がなされ、ぽってりとした唇を飾る真っ赤な紅が妖艶だった。
吉原からタイムスリップしてきたかのような美女は、悠を見て妖しく目を細めた。
「初めましてね、椿悠」
「そうだね。もっとも、すぐさようならだろうけど──貴女の首と身体がね」
一方悠は、不敵に微笑んだ。相手を見下す傲岸なそれは、しかし凄絶なまでの艶を含んでいた。




