喰家〈四〉
空気の揺らぎを感じてとっさに振り返った悠は、眉をひそめた。
すぐ後ろにいたはずの流星がいなくなっていたからだ。
「連れていかれるとか、最悪」
何のためにお守り渡したんだか、と呟きながら、刀を抜く。
場所は何となく掴めている。物理的に行ける場所ではないだけで、行けない場所ではない。
「んー……この辺でいいか」
悠は廊下の壁を見つめ、刀を一閃させた。
とたん、空気が一変する。薄暗いがある程度清潔に保たれていたのが、壁も床もほこりがこびり付いた、生臭い臭気の漂うものへと。
場所も全く違う。先ほどまで廊下にいたのに、今いるのはリビングである。
悠はすぐに廊下に飛び出した。
「流星!」
悠が踏み出した瞬間、目の前を黒い巨大な物体が通り過ぎ、壁に叩き付けられた。
唖然として振り返ると、それは長い黒髪に覆われた頭部だった。
胴体は無く、異様に白い顔が苦悶の表情を浮かべている。耳まで裂けた口が血にまみれているのを見て、悠は飛んできた方を見た。
玄関辺りでうずくまる人影。薄暗闇で解りにくいが、平均を越えた長身にTシャツとジーンズを着た姿は、間違いなく流星だった。
ただその右腕は、血まみれな上にあらぬ方向に二回ほど折れ曲がっている。血は止まっているようだが、早々に処置しなければならないのは明らかだった。
「りゅ」
呼びかけようとした悠だったが、すぐに後ろに跳んだ。
流星が、座り込んだ状態からは考えられないスピードの突進を行ったからだ。
間一髪リビングに戻っていた悠と違い、頭部はまともに流星の突進を受けた。ぐしゃりと潰れた頭部は、壁にめり込んだまま動かなくなる。
一方流星は頭部から距離を取ると、長い脚でその顔面を踏み潰した。
鼻を踏み抜かれ、顔の原形が解らなくなってしまう。辺りには血飛沫が舞い、壁も床も真っ赤に染まった。
「流星?」
たまらず声をかけた悠を、流星は振り返る。そこで初めて、悠は流星の顔を確認した。
表情は無い。瞳は焦点が合っておらず、口は半開きで、意識があるのか疑問を覚える。だがそれ以上に目を引くものが、彼にはあった。
額に突き出た、黒い一本の角、目は金色に輝き、唇の下からは鋭い牙が見え隠れする。
それを認識して、悠は思わず怒鳴った。
「馬鹿! 正気を失うんじゃ……」
だが、全てを言い切る前に、流星がそのまま飛びかかってきた。
振り下ろされた拳を刀で受け止め、悠は後ろに跳んで勢いを殺す。受け止めた拳は黒く硬質な肌に変質していた。
「ぐ、うっ……!」
──あの時と、同じ。
悠は流星と初めて出会った時のことを思い出した。
───
華鳳院流星の家は、本人の平凡さとは裏腹に非常に古く、また裕福な名家だった。大きな屋敷に何人かの使用人を雇って、両親と祖父と一緒に暮らしていた。
立派な体躯とは違って普通の感覚や能力を持つ流星を、両親も祖父も愛してくれた。せいぜい家業を継ぐのは無理だな、と苦笑したくらいで、流星の好きなようにさせてくれた。
過ぎた贅沢はしたことない。広い家と使用人はいたが、良家の息子だという意識は流星には薄かった。どこにでもいる子供として、当たり前の小さな幸福を享受しているだけだったが、それ以上を望んだことはなかった。
それが壊れたのは、一ヶ月前のこと。
部活から帰ってきた流星を待っていたのは、血の海だった。
父が、母が、祖父がばらばらになって、肉片として迎えた。
そして、見知らぬ異形に出会った。
狼と人間をかけ合わせたようなそれは、流星にも襲いかかった。否、実際のところ、異形の目的は流星で、家族はついでだった。
肩に爪を食い込ませて、異形はそう言った。流星の家族は、不幸にも居合わせただけだと。
流星のせいで、そうなったのだと。
そこからのことを、流星はよく覚えていない。
気付けば自分は異形を引き裂いていて、それでもなお生きていた異形を見て怖くなった流星は、その場から逃げた。そして逃げた先で、椿悠に出会っていたのだ。
怒りと痛み、恐怖に支配されるあまり、ほとんど意識の無かった流星に、悠は言った。
生まれつきなんて、初めて見た──と。
───
流星は自分がやらかしたことに気が付いた。
右腕は刀にはばまれ、左腕は細い肩に爪を立て、食い込ませている。
「やっと正気に戻った? この馬鹿」
肩は悠のものだった。壁に押し付けられた彼女は、目を細めて流星の腹を蹴った。強いものではないが、流星の腕はあっさり外れる。
反動で尻餅を着いた流星は、周囲を見回した。
壁や床が破壊され、穴だらけでぼろぼろになっている。記憶は朧気だが、自分が暴れた結果なのは理解した。
「う、あ……ゆ、悠……」
流星は青ざめた。
華鳳院流星という青年の人間性は、間違いなく平凡なものだ。だが肉体の性質は、生まれついての怪異である。
悠曰く、流星は鬼童子と呼ばれる存在なのだという。
ごくごくたまに、怪異の因子を持って生まれる人間がいる。怪異の血を引く者、生まれる前に何らかの形で怪異に触れた者。そういった人間が、人間から怪異に反転する可能性を秘めている。
流星は鬼の因子を持って生まれた人間だった。肉体の奥底、遺伝子の核に、鬼の怪異がひそんでいた。
本来それは、目覚めることのない力だった。多くの人がそうであるように、流星もまた、それを目覚めさせることなく一生を終えるはずだった。
だが、彼は本物の怪異に目をつけられてしまった。彼を引きずり込もうとした怪異に家族を殺され、激しい怒りや憎悪、恐怖を呼び起こされた結果、覚醒してしまった。
その怪異にとって不幸だったのは、怪異としての位階は流星の方が上だったことだろう。とどめこそ刺されなかったが、一方的にやられてしまったのだから。
自分の変化に気付かぬまま、しかし自分がなしたことに気付いて逃げた末に、流星は悠に取り押さえられた。そして自分の変化とその意味を指摘されたのである。
最初、悠はふたつの道を示した。その場で悠に狩られるか、肉体の機能のほとんどを犠牲に因子を取り除くか。前者は言うまでもなく後者も死ぬ可能性があり、生き残っても寿命は大幅に削られることは確実だった。
つまり、怪異として死ぬか、人間として死ぬかの選択を迫られたのである。
だが、流星はどちらも選ばなかった。
流星は悠に頼んだのである。自分も退魔師にしてほしい──と。
家族を殺した怪異に対する憎悪があった。そして悠の口振りからして、それを指示する存在がいた可能性があり、その存在に対する憎悪もあった。
だがそれ以上に、こんなところで死ぬものかという意地があった。
家族は死んだ。自分を狙った存在のせいで──自分のせいで、死んだ。
なら自分は生きねばならない。家族の分まで、家族のために、必死で生きなければならないのだと。
悠は最初、驚いていた。表情を改めて、本当にそれでいいのかと確認した。流星の意志が変わらないのを察して、手を差しのべてくれたのだ。
差しのべてくれた──のに。
「ゆ、悠……」
流星は手を伸ばそうとして、自分の手が異形のままなのに気付き、慌てて戻した。
悠が流星を退魔師にする条件として、鬼童子の力をコントロールすることがあった。利用するにしても抑え込むにしても、コントロールできないことには話にならない。だからまずは暴走しないようにすることを第一にしていた。
なのに暴走したあげく、悠を傷付けてしまった。悠の信用を裏切ってしまった。
次に暴走したら、容赦無く斬ると言われていたのに──
「……うん、まあ」
悠は片腕でやりにくそうに、しかし器用にも刀を収め、ため息をついた。
「許容範囲だね」
「…………は?」
──許容範囲とは?
「確かに怪我はさせられたし、凄く痛いし、というかぶっちゃけ肩外れちゃってるんだけど」
「重傷じゃねぇか本当にごめん!」
「はいはい。でも君、自力で意識取り戻したしね。襲いかかってる間も、無意識に加減してたし」
「え──え?」
「というか、君最初からそうだったよね」
流星と対面するように座り込み、悠は微笑んだ。
「初めて会った時も、ぎりぎり踏みとどまったからこそ逃げたんでしょ。とどめ刺す寸前に自意識を取り戻したみたいだし、かと思えばここの呪いにはきっちりとどめ刺してるし。本当、君ってさあ」
「え、あ……待て、待って、俺は……俺のこと、殺さないのか?」
「殺されたいの?」
「違ぇよ! 違ぇけど……」
「じゃあ、この話は終わり。それより肩はめたいからほっといて。……んー、というかこれ、ひび入ってるかも」
「え、じゃあはめない方がいいんじゃ……」
ごきり。
「はめたぁ!?」
「うるさ」
結局流星の暴走はうやむやにされ、呪いの家のことも言及は翌週の土曜日に持ち越されてしまった。