喰家〈三〉
『思った以上に疲れた様子だね』
悠の声は呆れとも哀れみとも取れる色だった。流星はうるせぇ、と力無く返事をする。
電話が鳴った時、流星はすぐに取ることができなかった。コール音が終わるまでスマフォを手にすることができず、そこから更に時間をかけて画面を確認し、ようやく本物の悠だと確信して折り返し電話をかけることができた。
『まあ何にせよ、無事でよかったよ』
「そうかよ……それで? まだ何かしなきゃいけないのか」
わざわざ時間を言い置いていたし、何より渡された荷物には塩以外のものも入っていた。昨日言っていたこと以外に何かあるのではと思ったのだが、それには答えず、悠は尋ね返した。
『四隅の塩、どうなってる?』
「どうって……」
視線を向けると、盛り塩は変色していた。
たった一晩で、そのほとんどが黒くなっていたのである。
流星が息を飲んだことで状況を把握した悠は、直接触らないように、と前置きした。
『まず、盛り塩を台所か洗面所──できるなら台所に持っていって。繰り返すけど、絶対塩に直接触らないこと』
「わ、解った」
スマフォをスピーカーにした流星は、盛り塩をひとつずつ台所に移動させた。
「運んだぞ。次は?」
『昨日渡した荷物の中に、ペットボトルがあると思うんだけど』
「えーっと……あ、あった。これ何?」
『神酒だよ。それで塩を流すんだけど、それにも手順と注意点がある』
二リットルのペットボトルを片手に台所に戻ると、悠は塩をシンクに落とすよう言った。
触れないように慎重に塩を落とすと、生臭い臭いが鼻についた。一瞬ではあったが、それはあの家に蔓延していた臭いによく似ていた。
「それで、手順って?」
『神酒を流す前に"祓いたまい、清めたまえ"と言うこと。簡略的な祝詞だね。流す際はゆっくりね。そしてその間は無心になること』
「無心?」
『数字でも数えてればいいよ。とにかく何も考えず、塩を流し切ること。何なら私が数えるから、それに合わせて神酒を流せばいい』
「頼む」
『じゃあまず祝詞を唱えて』
「えっと……祓いたまい、清めたまえ」
『よし、流して。一、二、三……』
悠の声に合わせて流星は神酒を流していく。悠の数える数字に集中しながら、流星はぼんやり流れる塩と神酒を見つめた。
『──はい、おしまい』
言われて初めて、流星は塩と神酒がすっかり流されていたことに気が付いた。いささかぼんやりし過ぎていたらしい。
しかし電話越しにも関わらず、どうやって察知したのだろうか。
いぶかしく思う間も無く、悠は話を進めていく。
『じゃ、次に軽くシャワーを浴びて、残った穢れを流しておいで。で、すぐ出かけられるように着替えておくこと。食事も軽く済ませて……ああいや、やっぱり持っていくよ。じゃ、また後で』
「ちょ、おい」
呼びかけ虚しく、通話は切られてしまった。しばし電話を眺めていた流星は、慌てて浴室に向かった。
───
烏の行水でシャワーをして、Tシャツとジーンズに着替えた頃、悠はやってきた。
「塩にぎりと味噌汁だけだけど、いいよね。どうせまた動き回るし、入れすぎるときついでしょ」
「まだ何かすんのかよ……」
タッパーと魔法瓶を受け取りながら、流星はげんなりと呻いた。
流星の文句などどこ吹く風で、悠は台所を掃除し始める。
「……掃除って、そんなに重要?」
「重要だね」
持ち込んだ掃除道具を操りながら、悠は答えた。
「理由は色々あるけど、今回の一番の理由は穢れを溜め込まないためだ。君は穢れに影響を受けやすいから、家の掃除はこまめにした方がいいよ」
「穢れ……そんなにまずいか?」
「耐性自体はあるけど、現状機能してないって感じかな。コントロールできるようにならないと、また変異するよ」
「…………」
そう言われてしまっては、流星は黙り込むしかない。
悠の言う変異が原因で、流星は彼女の元にいるのだから。
流星が食べ終わるのを確認して、悠は掃除の手を止めた。
「じゃ、あの家に行こうか」
「今度は何をするんだ?」
「とどめを刺しに行く」
勇ましくも不穏な発言だった。流星の不安が否応なしに増していく。
「なあ……呪いってやつ、まだ終わってねぇの?」
「終わってたら、君はあんな目に遭うわけないでしょ」
悠は肩をすくめた。
「あの家の穢れをあらかた払って、呪いの元を潰して、私達に降りかかった呪いも追い払ったから、だいぶ弱体化してるとは思うけど……それでも、油断はできないね」
「放置って方向は……」
「死にたいならそうしてもいいけど」
「……行キマス」
選択肢は無いようだった。
───
呪いの家に再突入する前、流星は悠からふたつの物を渡された。
ひとつは紅瑪瑙の数珠。もうひとつは鍔の無い短刀だった。短刀は柄も鞘も朱色で、金の装飾が施されている。
「とうとう俺も銃刀法違反者か……」
「丸腰で挑む気か、君は」
熊に素手で突貫するようなものだよ、と言われては、受け取らないわけにはいかなかった。
「最終的に必要無くなるかもだけどね、君の場合」
「……そうなりたくねぇよ、俺は」
ともあれそうして再び訪れた呪いの家だが、入った瞬間にまずい、と感じた。
玄関に足を踏み入れたとたん、視界が横転したのである。
慌てて体勢を立て直そうとした流星だったが、自身の身体は倒れるどころかふらついてもいないことに気が付いた。
ただ、視界だけがぐるりと──否、ぐるぐると回っている。
「何、だ、これ……は……!?」
前に後ろに右に左に──めまぐるしく変わる視界に、次第に酔っていく。直立しているのも難しくなって、流星は膝を着いた。
「ゆっ……」
顔を上げた流星は、回る視界の中で少女が映っていないことに気が付いた。声をかけようとしても声が出ず、喉に張り付いて出てこない。
それでも何とか手を伸ばして──次の瞬間、その手が消えた。
「……え?」
代わりに現れたのは、巨大な顔だった。
真っ白な肌に、だらりとたれた黒髪、本来目がある場所はぽっかり空いて何もない。
そして耳まで裂けた口には、流星の腕をくわえ込んでいる。
「な……あが!?」
流星は自分の腕に食い込んだ歯に苦悶の声を上げた。
視界は安定しているが、代わりに巨大な顔しか映らない。ぎりぎり食い込む歯が皮膚を破り、骨を砕こうとしている。
一体何が起きているのか解らない。悠はどこに行ったのか、この顔は誰なのか。
自身にかかる血を感じながら、流星の意識はふっと遠のいた。