memory's end of worlds end
polyphonic summer / memory's end of worlds end
0
もともとこの町に海があったかどうかは、あまり重要な問題とは言えない。
ここが山間の町であろうと、あるいは海の真ん中に作られた人工都市であろうと大した問題はなく、海というものはいうなれば高負荷な情報の集積体であり、リソースを自由に扱えたころのように広大な海など作りようがないわけだから、海というよりもそれは塩辛いプールのようなものだった。
横幅二十メートル、縦方向へは一応五十メートルほどあり、手前から奥へ向かってメートル一度で傾斜している。
ぼくたちはそれを海と呼んでいた。
いみじくも以前博士が言ったように、ぼくたちはリソースの節約という重要な問題についてある程度の妥協を率先して行なっていて、たとえば空、青々と澄みきった宇宙のような空の代わりに、天井にでかでかと「空」と書いた紙を貼り付けておけば、演算能力のいくらかは温存させることができる。
同じ要領で、ぼくたちはそれを海と名付けることにより、世界のリソースを節約し、演算を最低限に抑え、なおかつ夏の風物詩を楽しめるわけだ。
これはいわゆるひとつの水着回というやつなのである。
1
世界が終わるとき、思い出は死にたくないと答えた。
だから思い出は世界が終わったあともぼくたちといっしょに生きている。
2
博士は白衣の下に海水パンツを穿くという変質者スタイルに固執し、即席の砂浜で腕組みして、水平線の向こうから母国に攻めてくる戦闘機の大軍を望むように憂鬱な顔でじっと前方を見つめていた。
「疑問があるのだが」
いつものように用心深く、博士は言った。
「昨日、この場所を通りかかったとき、海はなかったように思うのだが、いったいこの海はいつできたのだろうか?」
幸いにしてぼくはその答えを持っていたから、パラソルを組み立てる傍ら、答える。
「今日の朝、三島が言ったんですよ。海に入りたいって」
「ふむ、そうか」
「あとはまあ、お察しのとおり、鶴の一声ならぬ神の一声で海ができたわけです」
神が世界を作るとき、光あれ、と言ったかどうかは知らない。
たぶん、言ったのだろうと思う。
ただ、それは儀式的な意味合いが強く、神が光あれと言ったときには光のプログラムが完成していたのだし、そもそも神が演算空間上に存在していたということは、そのときはすでに世界シミュレーションがはじまっていたということになる。
この場合、神の一声というのは、シミュレーションの責任者の「ゴーサイン」のような気もしなくはないが、シミュレーションの責任者は、神ではない。
宇宙人と呼ばれるたぐいの、まだ見たことがないぼくたちの父であり、神はやはり神なのだから、その「ゴーサイン」を神の一声と呼ぶのは不適格だろう。
パラソルが完成する。
砂浜にビニールシートを敷いて、その上に腰を下ろし、波打ち際を眺める。
「いやあ、すばらしい景色ですね」
思わずぼくが言うと、博士はうむとうなずいた。
「非常に示唆に富んだ景色ではあるね。あり得ない海、あり得ない海水、そう、すべてはまさに幻のように」
もちろんぼくが言っているのはそんなロマンチックな話ではなく、もっと下世話な、三島以下女性陣の、一部女性といっていいのかわからない部分はあるものの、ともかく女性陣の水着姿を指して言っているのである。
波打ち際には、全部で五人の女性陣がいる。
ひとりは三島蜜子。
赤地に白いドット柄で、胸と腰のところにふりふりとしたフリルがついた水着を着ている。
さすが、運動部出身だけのことはあり、身体はきゅっと引き締まり、とくにふくらはぎあたりがたまらなく魅力的だった。
三島はキュリオシティと手をつないでいる。
キュリオシティは猫のわりに昔から水を怖がらず、いまも子ども用の水着を着て果敢にばしゃばしゃと波打ち際で暴れていた。
ほかに魔法使いと死神が仲良く水遊びをしていて、それらを見守るように神がうんうんとうなずきながら浜辺に立っている。
微笑ましいような、参加しているメンツを見るとどうも微笑ましいだけでは済まないような、そんな八月の風景だった。
3
意地悪い蛇はにやにやと笑いながらぼくの足元でとぐろを巻く。
「考えてみろよ。あの水着、全部データなんだぜ? つまり、やつらはデータをまとっているだけなのさ。布なんかつけてないんだ」
「うるさいなあ、あっち行けよ。それともひと泳ぎしてくるかい」
「よせよ、おれは海蛇じゃない。あんな蛇もどきといっしょにされちゃ心外だぜ」
どうやら蛇界にもヒエラルキーというものがあるらしく、その蛇は自分がそのヒエラルキーの頂点に君臨しているのだと信じて疑わないらしい。
まあ、アダムとイブをそそのかしたのはおれさ、と嘯くくらいだから、そのくらいの大言壮語は言って然るべきなのだろう。
彼の言うことには一理ある。
三島たちはいま水着を着ているが、この世界がすべてデータでできている以上、その水着も所詮データでしかない。
しかしさらに言えば身体もデータなのだから、データがデータを着ているわけで、要はデータの階層、レイヤーの問題だ。
さすがにぼくもレイヤーのちがいに興奮できるほど訓練は積んでいない。
蛇はしゅるしゅると浜辺を這い、神の足元に近づいた。
神はわっと声を上げ、慌てて逃げる。
「にょ、にょろにょろしたやつはだめなんですよう!」
逃げ惑う神が愉快なのか、蛇はそのままにょろにょろと追いかけていたが、つい油断をしたらしい。
「あ……」
騒動に気づいたらしいキュリオシティが蛇を鷲掴みにし、ぷらりとぶら下げた。
キュリオシティはそのくるくるとよく動く好奇心旺盛な瞳で蛇を眺める。
蛇は細い舌をちろちろと出し、キュリオシティに笑いかけた。
「はじめまして、お城ちゃん。まだまだ食べごろにはほど遠いな」
キュリオシティに意味が理解できかどうか。
すくなくとも、キュリオシティと手をつないでいる三島にはわかったらしい。
三島はキュリオシティから蛇を奪い取り、尻尾を掴んでぶんぶんと振り回すと、持ち前の腕力と遠心力で海の彼方に放り投げた。
そして、にっこりとほほえむ。
「さ、遊ぼっか、きゅーちゃん」
終わった世界は今日も平和だった。
4
基本的なことだが、一般的な動物というものは人間の言葉を喋らない。
それを多様性と呼ぶこともできる。
多様性とはすなわちデータ量が多いということだ。
重複している部分がすくなく、同一データの使い回しができないということ。
正常に運転されている世界ならなんの問題もないが、神の一存で運営されているこの世界では、どうしても節約を心がけなければならない。
蛇が喋るのは、そういう理由による。
別に彼が特別優れた蛇というわけでもなく、ぼくが蛇語を理解できる選ばれし魔法使いというわけでもない。
蛇が喋って、コンクリートが喋っちゃいけないという法はない。
コンクリートも喋りたいときがくれば喋るのだろうが、偶然か、それともコンクリートの特性ともいうべきものなのか、コンクリートには無口が多い。
いまのところ、ぼくはコンクリートの声というものを聞いたことがない。
木は喋る。
風も喋るし、ときには空も喋る。
思い出だって。
5
まっ黒なビキニを着た死神は、砂遊びに飽きたようにするするとパラソルまで戻ってきて、ぼくに預けていた鎌を受け取った。
「なあに、憂鬱そうな顔して。死にたい? 殺してあげよっか?」
「いえ、結構です。暑さに弱いもんで」
「あー、わかるわー。あたしも暑いのだめ。なんていうか、申し訳なくなるのよね。あたしみたいなのがお天道さまの下を歩いてごめんなさい、みたいな。いっそ死にます、みたいな。そういう感じでしょ? 殺してあげよっか?」
「いえ、結構です。そこまで自虐的じゃないもんで」
死神はつまらなさそうな顔をしてビニールシートの上に寝転がった。
死神といっしょに遊んでいた魔法使いは、箒にまたがって空中へ舞い上がり、そのまま狩りをする鳥よろしく水中へ飛び込むという遊びをはじめて、きゃっきゃと黄色い声を上げている。
「三島ー、あんたもやるー?」
「だれがそんな自殺みたいなことすんのよ。あと、水着ずれてるから」
「あはは、気にしない気にしなーい」
「気にしろ!」
三島はなぜかぼくをきっと振り返った。
慌ててぼくは視線を逸らし、その先には博士がいて、博士は眉根をぎゅっと寄せながら、ぽつりと呟く。
「いや、実によい景色だ」
もちろん、他意はないのだと思う。
6
ドラゴン使いの少年は、魔法使いとは別のタイプの魔法使いらしく、その能力はドラゴンに関係することに限定されている。
たとえば、ドラゴンは基本的に人間を主食にしているのだが、あんまりばりばりと食べられると人間が絶えてしまうので、少年の魔法によって偽人間を作り出し、そいつをドラゴンに食べさせている。
偽人間といっても、意識がないこと以外は人間とほとんど変わらない。
だからドラゴンの食事風景はあまりじっくりと観察したくなるようなものではない。
腹を空かせていないドラゴンはいいやつが多い。
そう考えると、ドラゴンとはかわいそうな種族だ。
自分の意志とは関係なく町を破壊し、嫌いでもない人間を食べなければ生きてはいけないのだから。
「魔法使いって、要は、わたしみたいなものなんですよ」
神はひとしき遊んで満足したらしく、パラソルに下に戻ってきて言った。
「データにアクセスできるっていうか、この世界の法則にアクセスできるっていうか、そういう感じで。まあ、魔法は限定的で、わたしは非限定だから、わたしのほうがすごいんですけどね」
ほめてくれてもいいですよ、というように神はぼくを見たが、ぼくはそれを無視してうなずく。
「なるほど、それで理解できます。魔法使いってなんだろうって思ってたんですよ。変人なのは間違いないにしても」
ひどいなあ、と魔法使いが嘆く。
「あたし、変じゃないじゃん」
「いや、あんたは変だよ」
と死神が言って、ふたりはむむと向かい合い、鎌と箒をそれぞれ構えた。
「まあ、あのふたりは放っておくにしても、じゃあ基本的に魔法って万能なんですね」
「原理的にはそういうことですね」
神は唇を尖らせ、拗ねた顔をする。
「ただし、個々に割り振られた演算能力には限界がありますから、そういう意味でいうと万能じゃありませんけど。ちなみにわたしに割り振られた演算能力はもちろん世界一ですけどね」
ここほめるところですよ、というように神はぼくを見たが、ぼくはそれを無視して戻ってきた三島に片手を上げた。
「お疲れ」
「お疲れ」
三島は短い髪の先からぽたぽたと海水を垂らしながら広いパラソルの下に入って、キュリオシティは猫のときの名残りか、ぶんぶんと首を振って水滴をあたりに撒き散らした。
ぼくはタオルを使い、キュリオシティの頭部をがっちりと固定する。
そのままがしがしと拭いているとなりで三島も自分の髪を拭き、ビニールシートに座った。
「たしかに狭いけど、もともとひとがいないから、これくらいでも充分楽しめるね」
「そっか、よかったね」
「きみも泳いでくればいいのに」
「いや、ぼくは泳げないし」
「ふうん、そうだっけ?」
三島はじっとぼくを見たが、なにも言わなかった。
ぼくはかすかな心の痛みを感じて、海を見た。
青い海は、目の錯覚で、どこまでも果てしなく続いているように見えた。
7
キュリオシティは野良生活をやめ、三島の家、といっても三島しか住んでいないわけだが、その家で暮らしはじめたらしい。
本人は野良生活に未練もあるようだが、首輪で締めつけられているわけでもないのに三島の家に帰っていることを思うと、三島といっしょの生活も悪くはないのだろう。
この町に夕暮れはない。
あるといえばあるが、ないといえばないのだから、ないと言いきってしまっても嘘ではない。
そもそもこの町には時間がない。
たとえばラジウムがα崩壊を起こすまでを「時間」と呼ぶのであれば、この世界に存在するラジウムは永遠にα崩壊を起こさない。
つまるところこの世界に核兵器は存在しえないということになり、およそ考えうるかぎりもっとも平和な世界ではあるが、残念ながらこの世界はもうとっくに終わってしまっているから、核兵器の有無など問題ではなかった。
ラジウムがなぜα崩壊を起こさないかというと、世界の終わりの際、ラドンと仲たがいしたことによって縁が切れてしまったという説が有力である。
ところで、夕暮れとはなにかといえば、光のスペクトルの問題でもあるし、感傷的な心理の問題でもあるし、擬人化の問題でもある。
どの問題を選ぶかは観測者のお好みだ。
ただし観測者が観測者である以上夕暮れに影響を及ぼさずに存在することは不可能だとハイゼンベルクも言っているし、これはいわゆる観測問題のいちばんわかりやすい例であるからして、観測者は自分の選択に責任を持たなければならない。
ぼくはどんな責任も負いたくないから、夕暮れの正体は追求しない。
そんなものはないものとして、海水浴帰り、住宅街をぺたぺたと裸足で歩いている。
「あのさ」
ぺたぺたとひとりで先へ駆けてゆくキュリオシティを見守りながら、三島は言った。
「さっき、なんで嘘ついたの?」
「なにが?」
ぼくは嘯く。
三島は不機嫌そうに眉をひそめた。
「泳げないって。あれ、嘘でしょ」
「どうしてそう思うの?」
「去年、いっしょに海行ったじゃん。五、六人でさ。そのとき、きみ、泳いでたでしょ」
三島は、自分ではとても鋭くて、周囲に起こっていること、空色の変化から原子の動きに至るまですべて察知できると信じているが、ぼくの心ばかりは理解できないだろう。
「よく覚えてるね、そんなこと」
「忘れようと思っても、思い出が死なないんだもん」
「まさかあのときは、一年後にぼくときみ以外の全員が死んでるとは思いもしなかったけどね」
たしかに、と三島は笑った。
ぼくも笑う。
どうしてぼくたちは死ななかったんだろう、とは、ぼくも三島も言い出さなかった。
それを言ってしまえば最後、ぼくたちが死んでしまうことは明らかだったから。
「また、海行けるといいね」
「今度はいっしょに泳ごうよ。嘘つかないでさ」
「わかったよ、そうする」
「きゅーちゃん、おいで」
キュリオシティはぴたりと立ち止まり、三島を振り返って、ぺたぺたと戻ってきた。
三島は潮の匂いがするキュリオシティを抱きしめた。
抱きしめられながら、キュリオシティはぼくを見上げていた。
8
今日は今日で、明日は明日だ。
でも、明日、などという日は存在しない。
昨日、という日もない。
あるのは今日だけだ。
今日が永遠に続く世界。
ぼくはそんな世界が、決して嫌いではなかった。
もちろん、こんなことはすべて嘘なのだが。