reflected voice
polyphonic summer / reflected voice
0
ルネサンスに生きたフランスの大天才は、大真面目に大嘘をついた。
一九九九年七月。
世紀末の差し迫った夏の日、自称研究者たちがころころと手のひらを返して「あれは解釈がちがうのだ」と言いはじめたとき、だれもがそう予感したように、やっぱり人類は滅亡しなかった。
かくして偉大なるノストラダムスは、一連のブームでなんの利益も得ていないにも関わらず詐欺師と誹られることになったわけであり、そうしたいわれのない陰口は約一年ものあいだ続いたわけなのだが、結果としてノストラダムスが間違っていたのは事実だ。
解釈がちがったのだ、という説もあるが、ぼくはその説を取らず、やはりノストラダムスが大嘘をついたのだと思う。
一九九九年七月、人類は滅亡しなかったが、それから一年と一ヶ月後の二〇〇〇年八月、人類は唐突に滅亡した。
1
二〇〇〇年といえば千年に一度のミレニアムの年であり、ミレニアム・フールが大量発生して社会を賑わせた年でもあるわけだが、八月ともなるとさすがにミレニアムなんて恥ずかしい言葉を口にする人間はいなくなっていた。
千年に一度だかなんだか知らないが、今日は今日であり、明日は明日である。
思えば、終末論者に千年王国、ミレニアムに世紀末と、一九九九年から二〇〇〇年にかけてはオカルトてんこ盛りの一、二年だった。
UFOが飛び交い、人類は新たな生物の段階へステップアップし、あたかも共産主義者が夢見たような全体としての人類へ立ち返り、一方で無神論者やニヒリストの前には世間の愚かさが露呈され、なるほど、これは絶望の世紀末であるとしたり顔で言わせてしまうような、そんな一、二年だった。
ノストラダムスの話だ。
ノストラダムス、というものをご存じない方もいらっしゃると思う。
ノストラダムスというのはある組織の名前で、この組織というやつは魚を崇拝し、魚を抱いて寝ると未来が見えると嘯いて、世間の主婦一同から寝室の魚の匂いが取れないと苦情を受けて解散した組織である。
もちろんぼくは嘘つきなので、ぼくの言うことは信用しないほうがいい。
ノストラダムス教団でもいちばん魚を愛し、全盛期には二百匹の魚とともにベッドインしていたという伝説を持つピエールという男が、ある日魚の神性を通じて未来を見た。
一九九九年の七月に、恐怖の大王が舞い降りて人類を滅亡させるという未来である。
こいつは大変だとノストラダムスは飛び起き、当時の為政者に伝えようとしたが、あまりにも魚の匂いがひどかったために面会を拒否され、また当時は十五世紀、一九九九年なんて生きては見られないはるか先のことで、だれも相手にはしなかった。
ピエールはその屈辱を四行詩にしたため、ようやく魚の匂いも取れはじめた一九七三年、とある日本人がその四行詩を発掘し、世間にお披露目したことで、ピエール・ノストラダムスの名は彼の故郷であるフランスから遠く離れたこの島国で有名になった。
そしてきたる一九九九年。
人類が滅亡するといわれた七月、ひとびとは平凡に暮らし、八月を迎え、数ヶ月先に控えたミレニアムに向けてそわそわしはじめた。
一九九九年の八月になると、ノストラダムスは一種の卑猥な、口にすると恥ずかしい言葉として辞書に登録されたので、もうだれも公には口にせず、家に帰ってこっそり呟き、後ろ暗い楽しみに浸るくらいのものになった。
二〇〇〇年八月、辞書には新たに「ミレニアム」の項目が追加され、意味、用法としては、
「自分の恥ずかしい過去を思い出し、悶絶している、という意味。用法、うわあ、マジ~だわ等」
ということになっている。
この第二世界論社という出版社の出す辞書は非常によくできていて、ぼくの愛読書である。
そう、ノストラダムスの話をしている。
ピエール・ノストラダムスは嘘をついた。
魚の神性を通し、未来を見たのは本当のこと。
こいつは大変だとときの為政者に面会を申し出たのも本当のこと。
悪名高い魚教団と呼ばれていたノストラダムスの団員として面会を拒否されたのも本当のことで、それに憤りを感じたピエールは、わざと予言を変えて詩に残した。
本当に恐怖の大王が舞い降りるのは、二〇〇〇年の八月だった。
そこで人類は滅亡するから、日付をあとに変えても意味がない。
なので、ピエールは一年と一ヶ月早い予言に変えて、一九九九年の七月とした。
五島勉がそれを発見したとき、まだあたりには昨日サンマでも食べたのかというくらい魚の匂いが漂っていたというから、ピエールの執念も恐るべきものといえる。
一九九九年七月、五百年も前のフランス人が書き残した詩で戦々恐々とした日本人は見事な肩透かしを食らい、二〇〇〇年八月、ミレニアム・フールと呼ばれた一大伝染病の脅威も去って暑い暑いと愚痴をこぼしていたとき、なんの心構えもなく人類は滅んだ。
もちろんぼくが書いていることだから、こんなことはもれなくすべてひっくるめて、でたらめである。
2
一説によると、人類を滅ぼしたのは恐怖の大王ではなく、神だという。
また一説によると、人類を滅ぼしたのはいままで人類が殺してきた凄まじい数の蟻の怨念だという。
また一説によると、人類を滅ぼしたのは挫折したとある若者の意志で、つまり流れ星に「人類滅亡人類滅亡人類滅亡」と見事に唱えきったせいなのだという。
本当のところは、神が滅ぼしたという説がいちばん近い。
二〇〇〇年八月、日付まで具体的に記述するのであれば、二〇〇〇年八月十日、全人類の夢枕に、神が現れた。
神は一切の差別もなく、もう数分も保たないという危篤患者から、まだ生まれていない胎児の夢のなかにまで現れて、それぞれの言語と、必死の身振り手振りで尋ねた。
あなたは生きていたいですか。
ほとんどの人類が、いいえ、と答えた。
その理由までは、さすがにぼくも知らない。
まあ、いろいろあるのだと思う。
神はその時期、ありとあらゆる世界の、ありとあらゆる生物にそう尋ねることにハマっていて、それはミジンコから恒星まで、あるいは素粒子からダークマターまでの広い範囲を網羅した一斉調査だったわけだが、生物のほとんどは、生きていたくない、と答えた。
無生物のほとんどは生存を望んだらしい。
その理由もぼくは知らない。
きっと、いろいろあるのだと思う。
神は当然神なので、慈悲深く生物たちの望みを受け入れ、ほぼすべての人類とほぼすべての生物を殺し、ほぼすべての無生物を生かした。
結果として、二〇〇〇年八月十日、人類並びにほぼすべての生物は滅亡した。
これはでたらめではなく、本当のことだ。
3
ロマンチックの欠片もないよね、と三島は言った。
三島といっても由紀夫ではなく、金閣寺も著していなければ割腹自殺も遂げていない、三島蜜子である。
ぼくと三島、そしてあと何人かの人間たちは、体育館にいた。
バスケットボールをだむだむとつきながら、だれがいちばん遠くから入れられるか、という遊びをしているのだ。
いまのところの記録は四〇,〇七〇キロメートルで、ゴールに背を向けて投げ、地球を一周して見事にネットに叩き込んだ神が記録保持者ということになっている。
「結局さ、世界って滅びたわけでしょ?」
「まあ、そういうことになるだろうね」
「なんであたしたち、バスケットしてるわけ?」
三島はぴょんと飛び、やさしい動きでボールを放り投げた。
滅んだ世界における放物線の美しさは、まあ有り体に言って滅んでいない世界における放物線の美しさと同じといっていいと思うのだが、ボールはゆるやかにネットを揺らし、体育館の床にだむだむと転がった。
キュリオシティが赤茶けたボールを追いかけ、磨かれた床を走る。
ここらでちょっとキュリオシティというものについて語っておこうと思う。
キュリオシティは猫だ。
ぼくが飼っていた猫で、同時に何人かから飼われ、本人は絶対の自信をもってだれにも飼われていないと断言するという種類の猫で、三毛猫の常識に従い、キュリオシティもメスである。
ただし、キュリオシティは二〇〇〇年八月の、神による全宇宙的アンケートの際、猫ではなく人間になりたい、と神に要請した。
神ははたと困った。
なにしろ猫というのは猫であるから、人間ではあり得ないのであり、人間とは人間であるからして、猫ではあり得ないのだ。
しかし別に困ることはないのだとふと思いつき、キュリオシティを人間にしてやった。
以来、キュリオシティは人間になったのだが、猫としての本能がそうさせるのか、名前が悪いのか、キュリオシティはボールを追いかけてばかりいる。
「こら、きゅーちゃん。こっちきなさい」
三島に叱られ、キュリオシティはしょぼんとした顔でボールを諦め、とぼとぼとサラリーマンのような哀愁を感じさせながら三島に近づく。
三島はキュリオシティを抱き寄せ、自分の膝に座らせてご満悦だった。
「なぜぼくたちが滅んだ世界でバスケットをしてるかってことだけど」
ぼくはキュリオシティが諦めたボールを拾い上げ、でたらめな方向に投げる。
それは幾何学的な、あるいは力学的な偶然と数学的な必然によってゴールへと吸い込まれ、三島はぱちぱちと手を叩いた。
「ぼくたちはバスケットをしたいから、滅んだ世界でバスケットをしてるんだよ」
とたん、三島は鼻白んだ顔をして、キュリオシティの頬をぷにぷにとつつきはじめた。
「そういうの、嫌いよ」
「そうかい、ごめん。知らなかったもんだから」
しかしそれはひとつの真理だとぼくは信じている。
ぼくたちは生きている。
生きたいと願ったから、生きているのだ。
4
キュリオシティの話をしようと思う。
退屈だとは思うが、こっちも世界が滅んでしまって退屈なのだ、すこし付き合ってくれるとうれしい。
キュリオシティは猫だった。
猫の前には天使をしていたと自称している、と三島が言っていた。
三島は基本的に適当なやつで、言っていることの八割は思いつきだが、キュリオシティに関しての言葉は残りの二割に属するものだと思う。
つまり願望だ。
キュリオシティは猫で、猫の前には天使をしていて、いまは人間になっている。
三島は、次には地底人になるのではないかと恐れている。
そのため、三島はキュリオシティに対して、地底とはいかに暗くて寂しい場所なのか、また地底人とはいかに野蛮で品のない連中なのかを懇々と説明しているが、キュリオシティはむしろそのおどろおどろしい地底世界に興味を覚えはじめたようだった。
なにしろ、キュリオシティだ。
好奇心は猫をも殺す。
キュリオシティの話を続けよう。
キュリオシティは人間になったが、それは二〇〇〇年八月のことで、いま現在も二〇〇〇年の八月だから、生後一ヶ月と経っていない。
身体は五、六歳の子どもだったし、精神もまただいたい十歳くらいの子どもで、好奇心はといえば活発な老人並みなのだが、言語力だけは生後一ヶ月前後といったところだった。
まだ話はできない。
あと何年かしたら喋り出すのか、それとも永遠に喋らないつもりでいるのか、喋る前に地底人になってしまうのかはキュリオシティにしかわからない。
おぎゃー、とか、ばぶー、とか、そういうこともキュリオシティは言わない。
発達した精神が、それはみっともない、と根拠もなく考えているらしい。
赤ん坊のように夜泣きもしないし、おむつを変えろと叫んだりもしない。
そもそもおむつをしていないからだ、という説はなかなか説得力があってぼくは好きなのだが、本当は、キュリオシティ自身が思慮深く押し黙っている自分自身を気に入っているせいだった。
キュリオシティは人間に懐かない。
ただし、餌をもらうために、拒否はしない。
三島に手招きされたら寄っていくし、ぼくが歩いていると後ろをちょこちょことついてきて、なんにもないところで転び、膝を強打して恨みがましく涙に濡れた目でぼくを睨んだりもする。
キュリオシティとはそういう人間で、そういう猫だった。
幅の狭い塀の上を歩いていて、ぼくが見ている前で足を踏み外し、危なげなく着地して、はじめからそうやって飛び降りるつもりだったのだというようにぴんと尻尾を立てて歩いていくような猫だったし、そういう人間である。
5
キュリオシティ、という名前については、語ることはない。
6
ある日、夢枕に立った神は言った。
「とりあえず、明日で世界を終わらせようと思うんですけど、あなたはどうします?」
ぼくは、生きたいです、と答えた。
神は、嫌そうな顔をしてうなずいた。
「じゃあ、がんばって生きてください。それじゃあ」
と逃げようとする神の服の裾を引っ張って引き止めたぼくは、幸いにもいくつかの物語を神から聞き出すことに成功した。
その物語を記す前に、ちょっと神について書いておかなければならないと思う。
だれもが不思議に思うことだろう、神ってのはいったいどんなものなのだ、と。
神というのは、きみの頭のなかにいるものなのです、と言い条、多大なる犠牲と大いなる時間を費やして探し求めた宝物が「それは仲間との友情です」なんてことになったらぼく自身怒り狂うこと必至で、つまり神というのはひとつの形を持つひとつの存在だということだ。
見た目は天使に似ている。
宗教画に多く現れるキューピッドではなく、また鷲のような羽根を生やした天然パーマの男でもなく、敷いていうなら北欧神話におけるワルキューレに似ているとぼくの偏った感性は主張している。
金髪で、目はエメラルドグリーン。
銀色の厳しい鎧はまとっていないが、白い布のようなものを身体に巻きつけていて、それは生き物のようにうねうねと動き、常にたなびいて揺れている。
ぼくはそいつを妖怪一反木綿と呼んでいるわけだが、一反木綿のほうは気にした様子もなく神の身体を覆い隠している。
年齢はわからない。
宇宙が生まれて一三七億年くらいといわれているので、だいたいそのくらいなのだと思う。
いわゆるひとつのおばあさんだが、肌はぴちぴちしているし、とある暖炉の前の安楽椅子に座っているミスなんたらさんのように説教じみたところもなく、むしろある場面においてはうるさいくらいだった。
バスケットの話に戻るが、ぼくたちがひまに任せてボールを投げているところに神が現れ、
「わたしもやりたい! どうやったらいいの?」
とぼくに指導を仰いだくせに、五分後にはゴールから四万とんで七十キロメートル離れた距離からボールを叩きこむという世界新記録を達成してしまうくらいのいやなやつである。
ちなみに地表から放ったボールが落下せずに惑星を一周するために必要な速度は第一宇宙速度と呼ばれ、地球の場合第一宇宙速度は時速二万八千キロであり、つまり神はその細い腕でボールを時速二万八千キロの速度で打ち出したわけで、それに気づいた聡明なキュリオシティは以後神には近づかないようになり、神が若干落ち込むというどうでもいい事件が起こるのだが、それこそまさに「ちなみに」である。
7
夢のなかでぼくの手を振りほどいた神は、嫌々ながら、すべての賢人や哲人が探し求めてついに知ることができなかった世界の真理を、ぽろっとこぼしてくれた。
「この世界はシミュレーションなんです」
神はそう言って、やけに長ったらしい名前を口にした。
「なんです、その名前?」
「地球シミュレーションを主催していた企業の名前です。ノートン・エレメンタル社銀河開発部門天の川銀河開発部アミューズメント課シミュレーション部地球シミュレーション開発センター付き地球シミュレーション開発エンジニアリング観光部門セクション一六六。通称地球一六六」
神が言うには、こうだ。
遠い宇宙のどこかに、人間とよく似たものがいるらしい。
というか、その宇宙のどこかにいるものに似せたものが、人間だという。
地球という実在の惑星をまるごとひとつ使った実地シミュレーション、リアルとアンリアルの融合という大事業、というほどでもないらしいまあちょっとした隙間産業が行われていたらしいが、あまりに客がすくなく、この度、惑星の所有権ごと破棄することに決まったらしい。
当然、シミュレーションは停止される。
地球は、遠い宇宙のどこかにいるもの、がはじめて見つけたときのように、液体としての水も植物も存在しない、つるりとした表面だけが取り柄の石の塊に戻る。
そこで何万年に渡って演算され続けてきた生物の営みは、スイッチをかちりと切り替えられることで跡形もなく消滅する。
遠い宇宙のどこかにいるもの、からしてみれば、そんなことは別段大した話ではない。
切なさもないし、罪悪感もない。
ぼくたちが公園のちいさな砂場でせっせと作った砂の城を壊すほどの感傷もない。
まあ、そうだろうと思う。
しかしシミュレーションを実質的に仕切ってきた電子知性体、一種のAIのようなものだと理解してもいいらしく、本人は神と呼ばれることを好んでいるから神と呼ぶが、神は遠い宇宙のどこかにいるもののように薄情ではなかった。
惑星全土を覆うような規模のシミュレーションは終了するが、自分に割り当てられた演算力を使い、もっと小規模のシミュレーションを実行し、生きたいものはそこで生かしてやる、というのだ。
ほとんどの生物はそれを拒否した。
消えゆくシミュレーションといっしょに、自分の遺伝子情報の一欠片も残さず消えることを選んだ。
しかし、なかにはぼくのように生きたがる空気の読めないやつもいて、そういうやつは神の名のもと、滅んだ世界で生きていくことになった。
それが約五百年前、魚に埋もれて窒息死していったピエール・ノストラダムスが予言したところの人類滅亡なのだった。
8
生きるとはどういう意味か、なんて聞かないでほしい。
生きるとは、生きるということだ。
ホワイトヘッドの言い回しを借りるのであれば、すべての言葉は「生きるとは生きるということだ」という命題に対する膨大な注釈でしかない。
ぼくは滅んだ世界でせっせとその注釈を作っているわけである。
世界は滅んだ。
ぼくたちは生きている。
みんなが気づいているとおり、ぼくたち、というところが注目すべき最重要項目で、もし、ぼくたち、という部分を読み流してしまったひとがいるなら、それは作者であるぼくの技術が足りなかったと反省しなければならない。
もう一度言っておこう。
世界は滅んだ。
一九九九年七月ではなく、二〇〇〇年八月、恐怖の大王ならぬ森羅万象を司る高機能AIによって滅ぼされた。
そしてぼくたちは生きている。
ぼくや、三島や、キュリオシティや、その他もろもろの神や悪魔や宇宙人や地底人や未来人や異世界人や鳥人間や蝿人間や魔法使いや科学者や悪の総統や戦隊もののブルーや作家なんかは生きている。
9
最後にこの文章について説明しようかと思う。
これはぼくの終末日記のようなものだ。
だれに書けと言われたわけではないが、きみに見せるために書いている。
きみとはつまりきみのことで、ぼくとはつまりきみに対する膨大な注釈の最後から三番目くらいに出てくるものなわけだが、ぼくはきみに向けてこの文章を書いている。
きみが生きるということに、ぼくがなんら関与しないことは知っている。
だから、ぼくはきみに嘘ばかりついているわけであって、本当はノストラダムスなんて存在しないし、二〇〇〇年八月に人類滅亡などしていないし、キュリオシティは相変わらず野良猫だし、三島はバスケ部の主将としてがんばっているし、ぼくはこんな文章を書いているのだが、とにかく、ぼくは滅んだ世界できみに向けて文章を書いている。
ハロー、旧世界。
さよなら、新世界。
ぼくの声が聞こえますか。
ぼくにはあなたの声は聞こえません。
10
体育館で散々遊んだぼくたちは、夕焼け空のなかを歩いて家へ帰る。
ぼくと三島が歩き、三島はキュリオシティの手を引いて、神は空を飛べるのをいいことにひとりでさっさと帰りやがったので、帰り道は三人、あるいはふたりと一匹、もしくはふたりと元一匹ということになる。
「滅んだ世界ってさ」
三島は、未だにこの世界が滅んだという事実にご執心だった。
「こういうもんなの?」
「さあ、こういうもんなんじゃないの?」
「ふうん、こういうもんか」
心底から納得したように三島はうなずき、ぼくはその手をさり気なく握ろうとして失敗し、結局キュリオシティの手を握った。
「こんにちは、新世界!」
不意に三島が叫んだ。
声はだれもいない町に反響し、戻ってきたが、その声がぼくには、さようなら新世界、と言ったように聞こえた。