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第二法章 海鳥と共に来る季節

 秋の朝は、肌寒い。雪の降っている冬のほうが、暖かいんじゃないかなって、わたしは思う。

 わたしが、そんな朝なのに遅刻せずに教室にいられるのは、昨日と同じようにアズリが起こしてくれたからだ。

 寮に帰った時には、もうアズリはご飯の用意を始めてて、すぐにおいしい鶏肉のソテーが食べれた。ちゃんと話せたし、笑顔を見せてくれた。

 それでも、わたしは勉強の話題だけは避けてた。

 学校に着いてからは、アズリのまとう雰囲気は寮の時と違くて。

 ぴりぴりと、空気が静電気をためこんでるみたい。

「みんな、おはよう」

 朝の教室に居心地のわるさを感じてるころ、ライル先生が教室に入ってきた。先生は教壇に向かいながら生徒たちを席に着かせると、慣れた様子で出席を確認する。

 若いけれど、意外に頼りになる先生なのかもしれない。

 欠席者がいないことを確認したライル先生は、今日の日程を軽くおさらいして、朝のホールルームを終わらせた。

「なぁ、なんで一時間目は先生の授業なのに、わざわざ職員室に戻らないといけないんだろうな?」

 帰りぎわにライル先生はそんな冗談を残して。

 クラスメイトが何人かくすくす笑うけれど、わたしは笑うことができなかった。

 たった十分だけの休み時間。

 みんなそんな短い時間でも、それぞれにおしゃべりに花を咲かせ始める。

 わたしも、席を立って。

 ほんのすこしだけの期待を胸に抱いて、アズリのところまで行ってみた。

「あ、アズリ」

 呼んでみると、アズリはちらり、とわたしに黒い瞳を向けてくれた。

 だけど、それは黒髪が音を立てないくらいの動きで。

 その視線が刺さるようで痛い。

「どうしたの、セア。なにか用事?」

 凛とした響きのある声。

 ――優等生――

 そんな言葉が自然とわたしの頭をよぎった。すこしだけだけど、声音が冷たい気がする。

「えっと、用事はないんだけど」

「なら、授業の準備をしなさいな。魔法学、好きなんでしょう?」

 うん、魔法学は好きだよ。

 そう言えば、一晩目にそんな話をしたね。

 アズリは、魔法史が得意なんだよね。

 それだけでも言えたら、よかったのかもしれない。

 でも、わたしののどは、砂がこびりついたみたいに乾ききっていて。

 言葉が出なかった。

「ほら、邪魔になるわよ」

 立ちっぱなしだったわたしは、アズリに腕を引かれてたたらを踏んだ。

「あ、セアちゃん、ごめんねー」

 そうしてできた隙間を、一人のクラスメイトが謝りながら通っていく。

 ああ、わたしは、こんなところにいたら、邪魔なんだ。

「うん、戻るね」

 わたしは、やっとそれだけアズリに言えて。

 おとなしく席に戻ったんだ。

 十分なんて、すごく短くて。

 教科書とノートを出したら、もうライル先生が教室に来てた。

「さて、始めようか。学級委員長、あいさつを」

 ライル先生が教壇に手をかけて待っていても、だれも号令をかけない。ライル先生は首をかしげるけど、わたしを含めて、クラスのみんなはなんで号令がかからないのか、すぐにわかった。

「先生、学級委員長なんて、決めていません」

 そう、アズリの言う通り、昨日はそんな話し合いはしてなかったんだ。号令をかけられる人なんて、だれもいない。

 教室に沈黙の幕が降りる。

「……そうだっけ?」

 その幕を引き裂いたのは、ライル先生のとぼけた疑問だった。

 うん、まだ出会って間もないけれど、今、確かにわたしたちクラスメイト全員の心がひとつになった。

 この先生、ほんとにだいじょうぶなのかな?

 かぎりない不安が、ライル先生のお茶目にも笑えない心情を生み出してる。

「先生、私がやります」

 ひとつ、ため息を吐いて手をあげたのは、アズリだった。

 落ち着いた表情で先生に向かうその姿勢は、とても頼りになって。

「お、おお。いいのか?」

「かまいません。こんなことで、授業の時間を取りたくないですし」

 はっきりと言い切るアズリに、ライル先生はクラスのみんなに同意をとって、学級委員長を任命した。

 すぐに、アズリはポニーテールをさらり、とゆらして立ち上がる。

「起立」

 朝もやを追い払う朝日のように、透明感のある声が教室に響いた。

 すぐにみんなが立ち上がる。

 がたがたと鳴る椅子の音が止むのを待って、アズリが先生に礼をする。

「礼」

「よろしくお願いします」

 みんなキレイに声を合わせてたのに、わたしはアズリのポニーテールを見つめていたせいで、タイミングを外してしまった。

 けれど、だれもそんなことを気にする人はいなかったから、よかった。

「着席」

 アズリは淡白に、それでも優雅に思える仕草で、一連の動作を行っていた。席に着いた後も、その姿勢は背筋がのびていて、キレイだった。ただでさえ、わたしよりおとなびてるアズリが、なおさら凛々しく見える。

「あー、みんな、ごめんな。すっかり学級委員長とか忘れてたんだ」

 ライル先生はほんとうに申しわけなさそうに謝るんだけど、みんなそんなことはぜんぜん気にしていない。

「先生いいから、授業始めなよー」

 一人の男子生徒がみんなの気持ちを代弁してくれて。

 ライル先生もやっと、教科書を開いたんだ。

「ああ、すまないな。じゃ、みんな教科書の六ページを開くんだ」

 ライル先生は、わからないことがあったらすぐに手を上げて質問するように言ってから、授業を始めた。

 魔法には、いくつか大事な分類がある。

 例えば、わたしたちの魔法学科は、『心を豊かにする芸術・伝統文化』としての魔法――Sorceryを学ぶための場所だ。

 それに対して、誓暦で大きく発展した情報魔法技術のように、『人々の生活や技術革新』を支えるものを魔術――Wizardryと呼ぶ。

 そしてそれら二つを包括する概念が魔力――Magicだ。

「この魔法学はMagic――つまり、利用法に関係なく魔法の原理を勉強していく。まぁ、Magic・Wizardry・Sorceryという名称と内容はきちんと覚えるように」

 ライル先生の板書はていねいでわかりやすい。

 Magicから別れた線に結ばれたWizardryとSorceryには、それぞれ『技術』『芸術』と核心的な言葉がそえられてる。

 わたしはその黒板に書かれたものを、そのままノートに書き写す。

「それで、Magicには三つの系統がある。わかる人はいるか?」

 ライル先生の問いかけに、何人かが手を上げる。もちろん、わたしとアズリもだ。

「じゃ、ティン」

 ライル先生に指された男の子は、すくっと立って質問に答える。

「マナ制御に、純粋詠唱、それから、えっと、真理……変換、じゃないな。真理改変だ! じゃなくて、です」

 最後のひとつがなかなかでなかったけれど、彼はちゃんと正しい解答ができた。

 ライル先生も満足そうにうなずいて、彼の言った三つの魔法系統を黒板に書いていく。

「それじゃ、今度はみんなに魔法系統を訊くな。自分の系統が言われたら手を上げるように。まずは、自分の系統がわからない人!」

 ライル先生の勢いに乗せられるように、クラスの半数くらいが手を上げた。

 ていうか、さっき答えられた男の子も手を上げてるよ。

「まぁまぁ、例年通りかな。みんな心配しなくていいぞ、これからちゃんと勉強するんだからな」

 だれだって、始めてはあるもの。特に魔法なんていう特別な技術は、両親から自然と学べるようなものじゃない。

 そういう意味では、もうすでに魔法が奏でられるわたしやアズリはとっても特殊な存在だと思う。

「じゃ、次は純粋詠唱はどうだ?」

 わたしを含めて、クラスの残り半分くらいが手を上げた。

 純粋詠唱は最も古い魔法の形態で、詠唱詩によって世界の『命』に直接呼びかけて、魔法を起こす。

 世界のあらゆるものには、『命』が宿っている。

 人はもちろん、動物や植物たち、それに一粒の砂や一滴の水にだって。その声が聞こえるかどうかは、才能と努力によるけれど。

 その『命』の声が聞こえるのが、純粋詠唱の魔法使いで、わたしたちは、相手の心と自分の心をつなげて、お願いすることで動いてもらうの。その結果、起こる現象が魔法なんだ。

「純粋詠唱は感性が豊かでないと、命の声が聞こえなくなるから、よく注意するように。自然や他人に対して心を開くことが大事なんだ」

 ライル先生は最後にそうまとめて、今度はマナ制御の説明を始めた。

 マナ制御の生徒は、残りの半分くらいで。

 魔法を使えない人間にも理解しやすい形態が、マナ制御だ。

 マナとは、物理学でいう粒子のひとつで、存在を安定させている。魔法はどの系統も、最終的にはマナの状態を変化させることで、存在に変化を生じさせる現象だと、ライル先生は説明した。

 そのマナの流れを、自分の魔力によって直接操ることができるのが、マナ制御の魔法使いだ。

「さて、と。うん?」

 そこまで説明して、ライル先生は急に首を傾げて手元の資料を確認し始めた。

 それから、なにかを計算したと思ったら、また顔をあげて。

「あー、自分の系統がわからない人、もう一回手をあげてくれ」

 また始めからわたしたちは手を上げさせられた。

 手を上げている人の数を、先生は注意深く数えて。

 それから、また計算して。

 やっぱり、数が合わないらしく、ブロンドの髪をかき始めた。

「先生、まだ一つ魔法系統が残っています」

 そんなライル先生に言葉を発したのは、アズリだった。

 ライル先生は、一瞬、アズリの顔を見たまま硬直していて。

 わたしも、アズリのポニーテールが下がった後ろ姿を見つめていた。

 まさか、アズリって――。

 わたしの考えている通りだとしたら、アズリはほんとうにすごい魔法使いだ。

「――真理、改変の生徒」

 意を決したように、ライル先生はその言葉を紡いで。

 すっ、とアズリはまっすぐ右手を高く掲げた。

 何人か、魔法に詳しいであろう生徒たちがざわめき始める。

 それは、そうだ。

 だって、真理改変の魔法使いなんて、全体の一パーセントにも満たない人数しかいないのだから。

「本当なのか、アズリ?」

 ライル先生の念押しに、アズリは静かにうなずいて。

「そうか。真理改変は、むずかしいから流そうと思っていたんだが、ちゃんと説明しないといけないな」

 先生はアズリに向かいあい、説明を始める。

 その説明は、このクラスでアズリにしか必要ないものだから。

「真理改変は、哲学者によって定義された魔法系統だ。全ての事物、全ての存在には『真理』が宿る。真理がなにか、という点を解明することは哲学にゆずるが、魔法に関していえば、それは現象もしくは存在を規定するものだと言える」

 全てのものにあるそれぞれの『真理』。

 その『真理』を理解し、それを書き換えることで存在そのものを変化させる魔法――それが真理改変の魔法だ。

 しかし、真理を理解できるような人間は非常に少ない。哲学に一生を捧げた大賢者でも、素質がなければ一つか二つの真理にしか辿り着くことはできなかった。

 けれど、ほんとうにまれに、全ての真理を理解できる才能を持った人間がいる。真理改変とは、その限られた人間のみが実行できる魔法で、さらに言えば、その限られた人間にしか理解できない魔法だ。

 真理改変の魔法使い、そして魔術師はそれだけでエリートだと言える。

 だって、アズリは、物事の本質が見ただけで理解できてしまうのだから。そんな人間が、優秀じゃないわけがない。

 けれどそれは、ふつうの人たちからは決して理解されないんだ。だって、わからないものを、わかれって言われても、ムリだもの。

 魔法や魔術を使える人は、使えない人から多かれ少なかれ、そういう目で見られるけど。

 純粋詠唱の魔法は、イヌさんやネコちゃんとかとコミュニケーションが取れることから、納得ができて。

 マナ制御は、元素とか化学反応とか、そういう科学的な考えから導き出せて。

 だけど、真理改変の魔法使いや魔術師は、そういうふつうの人がわかるとっかかりがないんだ。

 あのアズリのおとなびた雰囲気や落ち着いた性格は、もしかしたら、大人にも理解できないものが理解できてしまったために、身に着いたのかもしれない。

 わたしがそこまで考えた時、電子音で合成されたチャイムが授業の終わりを告げた。

 ライル先生の説明も、ちょうど終わっていた。

「時間だな。明日の授業では属性の話をするから、教科書の二十五ページから予習しておくように。特に天海地の三つの属性はむずかしいから、よく読んでおくこと。それじゃ、アズリ、号令を」

 先生にうながされて、アズリはまたキレイな動作で授業を閉めた。

 それにしても、アズリが真理改変の魔法使いだなんて、おどろいた。

 アズリのほうを盗み見れば、次の魔法史の準備をしていて。

 お話ししたいけど、声をかけられるような雰囲気じゃなかった。

 そんなふうに気後れしていたら、すぐにチャイムが鳴って。

 深いしわが刻まれた白髪の先生が教室に入ってくる。

 先生を包んでいる黒いローブがいかにも魔法使いっぽくて。

 ただ、その細い視線がすこしだけ、こわい。

「学級委員、号令を」

 枯れた声が短く空気を打って。

 授業が始まった。

「さて、諸君の魔法史を指導するオルド・ソーサラーだ。質問があるならば、職員室に来てこの名を出しなさい」

 この先生は魔法使いっていうより、魔術師っていう感じだと思う。名字は自分で選べるものじゃないけど。

「早速だが、諸君に一つ発問をしよう。何故、諸君は歴史を学ばなければならないのかね」

 突然の問いかけに、だれもすぐには反応できなかった。

 一秒。

 二秒。

 沈黙が続いていく。

 オルド先生も黙ってわたしたちを見渡し、発言をじっと待っている。

 きっと、だれも手を上げなかったら、オルド先生は授業終わりのチャイムが鳴るまで待ってたんだろう。

 その中で、あげられたすらりとした手はアズリのもの。

「カミセ」

 オルド先生は短くアズリの名字を読んで、答えをうながす。

「歴史は民族や人種、伝統などに起因する人々の行動の結果だと考えます。よって、歴史を学ぶことは民族や人種、伝統など、人間性とその違いを学んでいくことだと思います」

「ふむ、よろしい。君の意見は確かに正しい」

 オルド先生はアズリの言ったことを黒板に書いていく。そのチョークが鳴る音は、ライル先生より静かで、繊細で、それでいて、どこか無機質に聞こえる。

「他には?」

 今度は、違う女の子が手をあげた。

「スミス」

 オルド先生に名前を呼ばれて、彼女も自分の考えを話していく。

「歴史は教養です。当たり前の知識として社会で恥をかかないために勉強するのだと思っています」

「なるほど。そういう一面も確かにあるだろう」

 アズリの意見の隣に、今の発言がつづられていく。

「歴史は、魔法の背景を知るために必要です。時代ごとの流行や思想、紡法家への影響を知ることで、魔法をより深く理解する手助けになると思います」

 また違う男の子の意見に、オルド先生はすこし口元をあげた。

「それは、魔法史や魔法使いだけに言えることだな。その考えは間違っていないが、私の質問とは意図がずれている。まぁ、書いておこうか」

 彼の言葉は、かっこつきで黒板に残された。

「さて、他に意見はないのかね。まだ私の求めている意見は出切っていないのだが」

 まだ、他に言うべきことがある。

 みんな、オルド先生の言葉に頭をひねっているが、なかなか手が上がらない。

 まだ、出ていない意見――。

 わたしも黒板の文字を眺めて、考える。

 あれ?

 そういえば、昔、母様が言ってたことがまだ出ていない。

 母様はとても深く物事を考える人で。

 どうしてとか、なぜとか、わたしも兄様もエアルスも、何度も聞かれて、それから教えられた。

 母様の考えかたは、学校で習うものとはすこし違うんだけど。兄様はそれがとても大事なんだよって言ってた。

 母様の淹れる紅茶の香りを、わたしは思い出して。

 わたしは気づいていたら、手をあげていた。

 まっすぐにオルド先生の目がわたしに向けられ、それから細められる。

 まるで、待っていた、と言われているようだった。

「アウロラ」

「あの、歴史には、事件があります。ひどい事件も、いい事件も、解決できた事件もありますし、そうじゃない事件も、あります」

 そこまでで、わたしは一度息を吸い込んだ。

 母様の言葉を、ゆっくりと心で繰り返して。

 制服の下のペンダントを、そっと握りしめる。

 エアルス、あなたの賢さと言葉と、そして勇気を貸して。

 正しい答えを、声に出して伝える力を。

「その事件は、これからも、起きるかもしれません。歴史は、わたしたちが生きている限り、ずっと続きます。だから、わたしたちが、問題を目の前にした時、歴史を参考にすれば、いい解決方法が考えられます。えっと、歴史は、昔のことを学ぶんじゃなくて、その、これからのことを考える学問……だと、思います」

 わたしがしゃべっている間、オルド先生の視線はゆらぐこともなく、わたしに向けられていた。

 だれも音を発しない中で、自分だけしゃべるのは、すごくこわくて。

 それでも、なんとか、話しきれた。

 母様の考えを、うまく伝えられているかは、ぜんぜんわからないけれど。

「素晴らしい。それこそ、私が諸君に最も言いたかったことだ。歴史を、前人の軌跡と思うな。終わったものと認識するな。諸君の人生に、諸君が先導する時代に、役立てるために前人はいたのだ。アウロラ、座ってよろしい」

 先生の言葉が終わって、やっとわたしは緊張の糸が切れて、椅子に落ちるように座れた。

「では、教科書の七ページを開きなさい。そもそも魔法とは、かの十六の創世神の一柱、ルナエルが、同じく創世神であるロキエルに対して想いを伝えたものが始まりと言われている」

 創世神の中でも、主神と言われるほどの力を持ち、秩序と慈愛と絆を大切にしていたルナエル。

 そして、文献によってはルナエル以上の知恵と魔力を持っていたと言われながら、混沌と邪悪と孤立を引き起こしたロキエル。

 ロキエルは神を滅ぼし、神暦を終わらせ、その後の混乱によってほとんどの記録を失った暗黒期へと人間が入るきっかけを作った。

 しかし、ルナエルはそんなロキエルに深い想いを抱いたらしい。

 なぜなのかは、暗黒期の混乱によって現代には伝えられていない。

 だた、ルナエルの魔法だけが、心ある魔法使いたちの間で、細々と受け継がれてきただけ。

 逆を言えば、魔法だからこそルナエルの想いはこの世に残ったんだ。その魔法がなければ、誰もルナエルがロキエルのことが好きだっただなんて想像もしなかっただろう。

 ルナエルは、始めての魔法をロキエルだけに見せたくて、みんなの前からいなくなった。

 ロキエルは、世界を巡り、十六の兄弟たちの知恵と記憶を集めて、ルナエルを一生けんめい探したんだ。

 そうやって、世界のどこかで、ロキエルはルナエルを見つけて。

 ルナエルは愛しさを魔法で奏でた。

 あふれる想いをそのままに。

 技術もなく、気取りもしない、そんな魔法。

 純粋な想いだけの、ただそれだけの最高の魔法が、最初の魔法だったんだ。

 今日の魔法史は、オルド先生がそんな神話時代の魔法について語り尽くして終わっちゃった。

 でも、その話、そんなにくわしく教科書に書いてない……。

 わたしはものすごく好きなお話だから、うれしかったんだけどね。

 最初の授業を終わらせて、オルド先生はすぐに教室を出ていってしまった。

 それと入れ替わりに、ライル先生が教室に入ってきた。

 今日の授業はこれでおしまい。

 これからは健康診断が始まるんだ。

「よし、じゃあ、まずは視力検査からやるぞー。その後は男女で分かれて、好きな順番で健康診断を回ってくれ」

 先生から診断カードを受け取って、みんな視力検査を手早く終わらせていく。

 丸の欠けてるとこを指で差すだけだから、簡単な検査だよね。

 わたしの視力は。まあまあ、いい感じかな。

「アズリってメガネっ娘だったんだね」

 検査が終わってもまだ眼鏡をかけっぱなしのアズリに声をかけてみる。

 細いフレームの黒ぶち眼鏡が、アズリの切れ長な目を強調してて、よく似合ってる。

 でも、授業中はかけてなかったよね?

「少し弱いだけよ。後ろの席じゃないかぎり、かけなくても大丈夫」

 指摘されたイヤだったのか、アズリはサッと眼鏡を外してケースにしまっちゃった。

 なんだか、もったいない。

「女子は全員終わったわね。じゃ、保健室で身長と体重を計ってきましょうか」

 アズリの指示にみんなてきぱきと動いてくれる。

 実はこのクラス、優秀な子ばっかり集まってる?

 なんだか、わたしがいるのが場違いに思えてくる。

「セア、行くわよ」

 ほら、今だってぼうっとしてて、アズリに呼ばれちゃうし。

 わたしはアズリに腕を引かれて転びかけながら、保健室に連れていかれた。

「アズリって、真理改変だったのね」

 保健室へ行く廊下で、アズリに話を振ってみる。

 周りでは他のクラスメイトも、それぞれおしゃべり中で、すこしざわめいていた。

「ええ。生まれつき、分かるのよ。存在の理由が」

 不思議な感覚。

 でも、魔法が使えない人にとっては、マナでさえ不思議でしかたないんだ。

 それを、わからないで、すませたくはなかった。

「わたしの弟も、真理改変の魔力を扱えるのよ」

 アズリはちょっと驚いた顔をわたしに向けてきた。きっと彼女も、自分以外に真理改変の魔力を持った人の話なんて、始めて聞いたんだろう。

「セア、弟がいるの?」

「うん。ちょっとひねくれてるけど、優秀でとっても頭のいい自慢の弟だよ」

「セアの弟は、悩んでなかった?」

 そう訊ねてくるアズリの顔は、真剣そのもので。

「えと、エアルスは魔法はしてないの」

 エアルスはだれかに想いを伝える『魔法』じゃなくて、心なくても人を助けてくれる『魔術』を選んだの。

 それに、エアルスは人の心よりも、世界の真実のほうが興味があったから。

「そう――そうなの」

 でも、わたしはアズリが望んでる答えを返せなかったみたいで。

 アズリはなにかを言いたげにしながらも、話を途切れさせてしまった。

 もう目の前に保健室があったのも、その原因かもしれない。

「失礼します。魔法科の一年A組です」

 保健室の中は白いカーテンで仕切られていて、そのむこうからは、女子特有のにぎやかな雰囲気があふれている。

「魔法科? すこし待っていてもらえるかしら」

 奥から、大人の女の人からそう言われて。

 わたしたちは前のクラスがみんな測り終わるまで、待たされた。

「べつに、いっしょでもいいのにね? 服も脱がないといけないんでしょ?」

「ええ、そうね。なんなのかしら?」

 やることもなくて、アズリとそんなことを話しているうちに、カーテンの奥から白衣を着た女性が出てきた。きっと、先の声の人。

 ゆるやかなウェーブの髪が優しい感じ。

「アミュレット、着けている人はいる? ただのアクセサリじゃなくて、魔力を封じ込めている、ほんとうのアミュレットよ」

 アミュレットはお守りのこと。昔から、悪いことが来ないようにとか、いいことが来るようにとか、そういう意味を持たせた装飾はたくさんあって、ただのアクセサリでしかないものもたくさん出回っているし、魔力を持ったほんとうに効果があるものもある。

 それから、大きな魔力を持った人は、それだけで周りに影響を与えることがあるから、本人の魔力を打ち消す魔力を持ったアミュレットを着けて、それを抑えてることもある。たとえば、わたしがエアルスにもらったペンダントなんかが、そう。

 わたしのほかにも、ちらほらと手をあげてる子がいる。

 それを確認すると、白衣の人は保健室のドアを開けて、外にあった標識をひっくり返して、鍵を閉めてしまった。そしてその鍵に白衣のポッケから出したお札を貼った。たぶん、魔力がもれ出したり、最悪の場合、暴走したりした時にこの中に閉じ込めるものだ。すこしだけ、空気が押しつぶされてる感じがするもの。

 アミュレットを持ってる子は、その形状が測定の邪魔になるかを確認されて。

 わたしのペンダントは、外すように言われて、その代わりに、手首にタグを巻かれた。

 なんだか、実験されてるみたいな気分になる。

 そんなことを思いながら、カーテンをくぐると、身長計と体重計、それに魔力計が見えた。

「ここでは、身長と体重を計って、内科検診と魔力検診をします。みんな、制服の上着を脱いで、ブラジャー外してください」

 ちゃんと、制服をかけるためのハンガーは用意されていて、ブラジャーもそこにいっしょにつるせた。

 みんなてきぱきを服を脱いでいくから、わたしも急いで制服のそでをひっぱったんだけど。

 身支度の早いアズリは、わたしがブラウスのボタンを外すのに手間取ってる内に、もう検査を始めてた。

「アズリ・カミセ。身長一六三.二、体重五六.一」

 やっぱり、アズリって背があって、それでいてすらっとしてて、ほんとにうらやましい。こうして数字で見せつけられると、どうしても自分のと比べちゃうよ。

「魔力は、九六一メガマナ」

 気づいたら、アズリはもう魔力を計ってた。

 水晶玉みたいな測定器に左手を当てて、意識を集中させるだけの簡単な検査で魔力が測れるなんて、便利な世の中だね。

「アズリ、すごいねっ」

 普通の魔法使いだったら、魔力は七十二くらいだけど、アズリはそれこそケタがひとつ違う。

「ありがと、セア」

 振り返って、微笑んでるアズリは、ブラウスのボタンがまだ閉められていなくて。

「なんか、はだけたブラウスって、どきどきするね」

 思ったままに言葉にしてみたら、思いっきりアズリにほっぺをつねられた。

「セアは何を言っているのかしら?」

 アズリの笑顔がこわいっ。ていうか、目が全然笑ってないよ!

「いひゃい、いひゃいよっ」

 アズリが本気でつねってくるから、涙が出てきた。

「セアの頬って、すべすべで柔らかくて、癖になりそう」

 やっと手を離してくれたアズリは、そんなこわいことを言ってる。

「クセになったらいやだよぉ」

 まだひりひりするほっぺをなでながら、わたしは抗議してみる。

 でも、アズリはいじわるそうな笑顔を浮かべたままで。

 ほっぺに赤いあとが残ったらどうしよう……。

「ほら、次はセアよ。早く行きなさい」

「わたしを引き止めてたのは、だれだよ」

 アズリに聞こえないように、小さく、文句をもらす。

「何か行ったかしら、セア?」

 でも、アズリはしっかりそれを聞いていて。

「はやくいきます、ごめんなさいっ!」

 わたしはアズリから逃げるためにも、一目散に身長計に足を運んだ。

「仲がいいのね、あなたたち」

 お医者さんのそんな一言に、わたしはもう笑うことしたできなくて。

 身長計、きらいなんだよなぁ。

 いや、まぁ、背が低いのは、身長計のせいじゃないのは、わかってるんだけど、わかってるんだけどね?

 わたしは、身長計の台に乗って、かかとを背中の棒につけて、あごを引く。すこしでも、背が高く測ってもらおうと、必死で背筋をのばして。でも、そんなのがむだだって、すぐに思い知らされる。

「セア・アウロラ。身長一五〇.二」

 なんでアズリはそんな慈愛に満ちた目でわたしを見るの!?

 ちゃ、ちゃんと、百五十あるもん!

「はい、早く体重計に乗ってね」

 アズリと目と目で会話してたら、お医者さんにおこられちゃった。

 体重計は怖くないから、すぐに足を踏み出せる。

「体重三八.七」

「えっ!?」

 今度はアズリ以外の女子全員から視線が注がれた。

「な、なぁに?」

 おそるおそる、どうしたのか、たずねてみると。

「うらやましい!」

 いきおいよく、女子全員が口をそろえた。

 でも、うらやましいって言われても、とくになにもしてないんだよ?

「あなた、クラスの人気者ね」

 内科検診のために丸椅子に座ると、お医者さんにそう言われて。

 わたしはやっぱり笑うしかできない。

 そんな人気者になるイベント、さっきまでなかったんだけどな。

 胸に聴診器を当ててもらうから、ブラウスのボタンを外して。

 ひやり、と左胸の下に冷たい金属の感触が当たる。

 それから、すぐに右胸に移って。

 お腹から離れたら、背中を向くように言われた。

 ちょっと、どきどきする。

 知らない人に触れられるのって、緊張するから。

「はい、異常なし。次はここに手をおいて意識を集中して」

 最後は魔力検査だ。この丸いのは、魔力を蓄えこんだ結晶で、そこにマナが通る時の温度変化を測定してるらしい。

 エアルスがそう言ってたから、たぶん間違いないんだろうけど、わたしにはよくわからない。炎属性とか氷属性じゃなくても、温度って変わるの?

 そんなことを考えてたら、手のひらが熱くなってきて。

「エラー? 少し待っていてね」

 あ、やっちゃった。

 余計なことを考えてて、魔力をコントロールするのを忘れてた。

 お医者さんは、機械の不調だとカン違いしてるみたい。

「はい、もう一回お願い」

 今度は、ちゃんと意識して。

 マナの動きを感じ取って。

 そう、アズリよりちょっと少ないくらいのマナだけを、活性化させる。

 だいたい、手のひらがくすぐったくなるくらい。

 慎重に、慎重に、マナを送っていく。

「魔力、九五〇メガマナ」

 うん、今度はうまくいった。

 手のひらの汗をブラウスのすそで拭ってると、アズリが眉を寄せてた。

 行儀悪かったかな?

「魔力測定でそんなに綺麗な数字が出るなんて、珍しいわね。まるで、そうなるように狙ったみたい」

 あ、もっとまずいところに気がついてる。

「あはは、すごいでしょ?」

 とりあえず、笑ってごまかしちゃおう。

 アズリも、そこまで気にしてた訳じゃないみたいで、首を傾げるだけで特に追求はしてこなかった。

 あぶない、あぶない。

 ばれたら、家族みんなから怒られちゃう。

 みんな、本気で怒ると怖いからなぁ。

 思い出すだけで、背中が寒くなった。


 ***


 健康診断も無事に終わって、晩ご飯はキノコのホワイトソースがかかったオムライスだった。

 昨日も思ったけど、アズリは料理が上手だ。母様にも負けてないかもしれない。

 わたしもちょっとだけ料理はできるけど、アズリは包丁が危ないからと、させてくれないの。

 今、わたしがアズリより先にお風呂に入ってるのも、彼女が洗い物をしてる間に入るように言われたから。

 温かいお湯が心地いいけど、なんだかアズリに頼って生活してるみたいで、すこし後ろめたい。

 湯けむりの中、熱くなってきた足を湯船から投げ出すと、ちゃらり、と鎖が鳴った。

 そういえば、こっちは健康診断の時に外さなかったな。

 わたしの足首には、透き通った空色の宝石が連なったアンクレットが、お湯を滴らせて光っている。

 これは、兄様がプレゼントしてくれたもので。

 見ていると、空を思い出す。兄様みたいに、わたしをいつも見守ってくれている大きな青空を。

《海鳥は連れてくる 新しい季節 嵐の季節》

 手のひらをお湯から出して。

 こぼれ落ちる滴は、雨のよう。

 小さく、魔法を奏でて。

 落ちた滴が、宙に浮かぶ。

 それから、湯船の水面が波立って。

 お湯にひたった髪の毛がざわめく。

《それは 逆巻く風の音 海を削り 荒波を起こす》

 淡くエメラルドに波が逆巻いて。

 お湯を揺らし、小さな嵐。

 波しぶきに弾かれたお湯が、宙に浮かぶ水玉を増やしていって。

 風にさらされて、もてあそばれる。

《それは 篠突く雨の音 海を叩き 高波を起こす》

 波に代わって、お湯を叩くのは、浮かんでいた水滴。

 それは雨粒になって、リズミカルに魔法を奏でる。

 落ちるたびに、波に揺らいで、また空へ。

《それは 引裂く雷の音 海を砕き 怖波を起こす》

 右手を高く掲げて、暗く夜色の波をこすり合わせる。

 宙に浮かんだ水蒸気と湯気と滴が静電気を溜めていって。

 ――あれ? 雷が、どこに落ちるの?

「うにゃあ!?」

 行き場を失った雷は、わたしの入ってる湯船に直撃して。

 心臓が跳ね上がって、おかしな衝撃が胸の中からたたき付けられた。

 うまく息ができなくなって。

 手足もきかずに、わたしはお湯の中に沈んでいく。

 温かいお湯が、口から入ってきてのどに押し寄せてきて。

 自分がどうなってるのかも、よくわからない。

「セア、なにしているの、あなた!?」

 どこか遠くで、アズリの声がしたと思ったら。

 わたしはお風呂場から、抱き上げられてた。

 足ふきのタオルの上で、アズリに背中をさすられてるころになってやっと、意識がはっきりしてくる。

「ほら、お湯を吐き出しなさい」

「えふっ――あふっ、あぁっ」

 のどの奥にたまっていたお湯を、がんばってはき出して。

 それから、空気を一生けんめい吸い込んだ。

 大きく、不規則な呼吸を何回が繰り返して。

 やっと息が整ってくる。

 でも手足のしびれはまだ取れなくて。

 心臓も胸の中で暴れ回ってる。

 まともに動けないわたしの体をアズリが拭いてくれて、パジャマも着せてくれた。

「とりあえず、セア、座りなさい。正座」

 アズリの声がピリピリしてる。

「せ、せいざってなに?」

 始めて聞いた単語に戸惑うわたしに、アズリはひざをたたんで足の上におしりを乗せて座るように言った。

「え? 床にすわるの? いたくない?」

「そうよ。いいから早くしなさい」

 氷のように固く冷たいアズリの声音に、わたしはさからうことなんてできなかった。

 言われた通り、正座をまねしてみるけど、やっぱり足に体重がかかって痛い。

 アズリは、ベッドの上に腰かけて、わたしを見降ろしている。その視線はいつも以上に鋭くて、心臓がどきどきする。

「それで、お風呂場で何をしていたのかしら」

「えと、えっと……魔法を、奏でてました」

 ごく自然に敬語が出てくる。それくらい、アズリが怖い。

 ううん、言葉の響きは、とっても優しいんだよ。でもね、雰囲気っていうか、声の裏側っていうか、そういうのが、空気を張りつめてるの。

 できるなら、今すぐここから逃げ出したいけど。そんなことをしたら、後がこわすぎる。

「そうなの。どんな魔法を奏でていたの」

「あの、そのね、アズリ――」

「どの法目を奏でていたのか、はっきり言いなさい、セア」

 言い訳なんて、許されるはずもなくて。

 わたしはもう観念して、正直に話そうと決めた。

「えっと、大洋交響曲第一番の第二法章を」

「へぇ。どこまでかしら」

「あの、その、海鳥さんが連れてくるところ」

「何をかしら」

 あぅ、あぅ。

 どうしよう、ぜったいにおこられるよぉ。

 こわいけど、今のアズリも十分こわいし。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

「ねぇ、セア。海鳥は何を連れてきたの」

 行き場をすでになくしていたわたしの思考を追いつめるように、アズリの質問が浴びせられる。

 始めから、逃げ場なんてなかったんだ……。

「えっと、風がね、吹くのよ」

「そうね。嵐の風よね」

「それからね、雨が降るよね?」

「ええ、激しい雨が降るわね」

「それで、かみ、なり、が――」

 もうそれ以上は、怖くて言葉に出来ない。

 アズリはわたしを見降ろしたまま、黙ってて。

 晴れ渡った海のように、静かだけど、なんだか遠くにとても大きくて重そうな暗雲が見える気がして。その雲は真っ黒なんだけど、時おり稲光が走って、視界に白を焼きつけるの。

 雷は虎の姿をもつ創世神ボルティックの雄叫びで、それだけで弱い心を打ちのめしていく。

「あはは」

 耐えきれなくなってわたしが笑うと。

 ぶつん、と。

 アズリの中でなにかが切れる音がはっきりと聞こえた。

「あなた、バカじゃないの!? あんな狭いお風呂場で雷なんて発生させたらどうなるかくらい、わからないの!」

 わたしの雷より、アズリの雷の方が断然こわいっ。

 真正面から狙いを定めて、感情がわたしに向かって走ってくる。

 その衝撃に、心臓がまた跳ね上がって。

 壊れてしまうんじゃないかって、本気で思った。

「下手をしたら、死んでしまうかもしれなかったのよ! 分かっているの!?」

 立ち上がったアズリが迫ってくるのが、怖くて。

 わたしはもう正座をしていられなくなって、体を後ろに引きずった。

「ご、ごめんなさいっ」

「謝って済む話じゃないでしょうが!」

 アズリが、わたしのほっぺを引き伸ばす。

 でも、そんなアズリの顔も泣きそうになってて。

「あなた、いい加減にしなさいよ! 自分勝手に思いのまま行動して! 後先も考えないで! どれだけ心配していると思っているの? そんな、周りにいる人間のことも考えられないあなたが、あなたが首席だなんて――!」

 アズリの言葉が途切れるのと一緒に、わたしのほっぺをはさむ指の力がひときわ強くなって。

 ちぎれるんじゃないかって思うくらい、痛かったけど。

 そんなことよりも、アズリがこぼした涙に触れた手が、焼けるように熱くて。なのに、突き刺すように冷たくて。


 かなしい。


 その感情が、わたしの心を飲み込んで。

 アズリの手が、力を失って、わたしのほっぺたから、離れた。

「ごめんなさい、痛かったわよね」

 アズリはうつむいたまま、そうつぶやいて。

 そのまま、わたしの顔を見ないで、アズリのベッドに上がっていった。

「私、もう寝るわね」

 ピシャリ、とベッドにつるされたカーテンが閉められて。

「アズリ――?」

 わたしは、なにもできないままに、その様子を見上げてた。

 わたしの手に落ちた涙を、そっとなでて。

 どうしようもなく、苦しくなる。

「ごめんなさい、ごめんなさい! ごめんなさい、アズリっ!」

 わたしはそれでも、感情のままに叫ぶことしかできなかった。


 ***


 ゆううつな気分のまま、明日は今日になっていて。

 授業は、わたしの気持ちなんて気にしてくれない。

 たくさんいる生徒のために、進んでいく。

「つまり、属性とは、マナの状態を十六に分類したものなんだ。わかったかー?」

 教壇に立つライル先生の声も、どこか遠くて。

 自分の手で書いている黒板を写した文字も、意味をなさない線の集合体にしか見えない。

 それでも、どんなに頭が働かなくても、わたしの手は勝手に動いてくれる。ちゃんと勉強をしないと、母様に怒られてしまうから。

「例えば、炎の属性とは、マナのエネルギーを増加させる魔法のことを指し、逆に氷の属性とは、マナのエネルギーを減少させる魔法のことを指す」

 属性、魔法の色。

 でも、属性が違くても、同じ現象を起こすこともできる。

 違くても、同じになれるんだ。

「さらに、属性は階層状になっているんだ。マナの状態を維持する聖属性、マナの状態を変化させる魔属性、マナの状態を普遍にする光属性、マナの状態を局在させる闇属性の四つは、クロスと呼ばれていてだな」

 ライル先生のていねいな解説も、今のわたしの耳は追いかけようとしてくれない。

 他の子が質問して、ライル先生がそれに答えて。

 わたしがなにもしなくたって、授業は順調だった。

「光はマナの変化や維持を広げていくんだ。逆に闇はマナの変化や維持をごく一部分だけで行う」

 授業の内容は頭に入ってこなくて。

 でも、十六個の属性なら、きちんと理解できてるから。

 クロスは四交属性っても呼ばれてて、聖と魔、光と闇が向かいあって十字を作るの。どんな魔法でも、その十字で作れたどこかに、マナの状態が乗ってくれる。

「クロスは下位段階属性を左右しない。残りの十二の属性は、聖にも魔にも、光にも闇にも、それぞれ属しているんだ。だが、天海地のレルムは違う」

 ライル先生の板書を追って、ノートばかり進んでいく。

 クロスの十字を書いて、レルムの領域を丸に三分割していく。領域を三つ作るからレルムで、三領属性っても呼ばれてる。

「レルムはそれぞれ三つずつ属性を含んでいるんだ。天のレルムには、雷、風、炎。海のレルムには、癒、水、氷。地のレルムには、晶、土、金。この九つはレルムの中で円を作り、隣り合った属性に変化していくので、サークルと呼ばれる」

 わたしの属性は、海。

 アズリの属性も、海。

 同じだけど、わたしたちは、やっぱり違う。

 同じなのに、違くて、わからなくて、怖くなる。

 大好きなのに、手が届かない。

 見えているのに、見えていない。

 海の属性は、繁栄と共生。

 分かり合う属性。

 分かち合う属性。

 けれど、わたしは、アズリのなにもわからない。

 わからないのは、こわくて、不安になる。

「じゃ、今日の授業はここまで。アズリ、号令を。……アズリ?」

 アズリはチャイムにも気づかず、ライル先生の呼びかけにも、すぐには答えられなかった。

「あ、すみません」

 ぎこちなく動くアズリを、ライル先生は見ていて。

 それから、クラス全体を見回した。

「みんな、親元から離れて、環境が変わって疲れてるのかな。ムリはしないでいいから、少しずつ慣れていこうな」

 ライル先生はそう言い残して、教室を出ていった。

 慣れていかないといけないんだ。

 ぎこちないままじゃ、いけない。

 それは、わかっているけど。わかっている、つもりだけど。

 でも、どうすればいいの?

 わたしが、注意すればいいの?

 アズリに、わかってもらえばいいの?

 どっちが、変わればいいの?

 先生たちは、そんなこと、教えてくれない。

 今、一番知りたいことなのに。

 だれも、教えてくれないの。

 それとも、だれも知らないの?

 最後の古文も、気づいたら終わっていて。

 ホームルームの後、わたしが帰る準備ができた時にはもう、教室にアズリはいなかった。

 ていうか、アズリだけじゃなくて、だれもいない。

 かなり長い時間、ぼーっとしていたみたい。

「セア、まだ残ってたのか?」

「あ、ライル先生」

 カバンを机の上に乗せたまま、なんだか帰る気になれなかったわたしを、見回りにきたのか、ライル先生が見つけてくれた。

 ライル先生の青い瞳が、わたしを見つめている。

「大丈夫か?」

 ライル先生の一言は、よくわからなくて。

 それでも、涙が落ちてきた。

 ライル先生は、そんなわたしになにも言わないでいてくれて。

 わたしの頭を、優しくなでてくれた。

 わたしを包んでくれる、大きな手のひら。

 なんだか、兄様を思い出す。

 優しい兄様。わたしが泣いていてたら、すぐに見つけてくれて、先生みたいに黙ってなでてくれるの。

 それから、大丈夫だよって、言ってくれるの。

 きっと、セアなら、セアがずっと相手を想っていたら、大丈夫だよって。

 そう、なぐさめてくれるの。

「アズリと、何かあったのか?」

 ライル先生の問いかけは、とてもおだやかで。

 あの公園の風を、思い出す。

 アズリと始めてあって、一緒に魔法を奏でたあの時を。

 わたしが小さくうなずくと。

 ライル先生は、しゃがんで、目線をわたしに合わせてくれた。

「大丈夫だ。セアがちゃんと、アズリのことを考えていれば、ちゃんと分かり合って、解決できる。諦めたら、いけないぞ」

 その言葉は、兄様と同じで。

 わたしの胸に、小さな、ほんの小さな勇気がともる。

「だいじょうぶ、なんですか?」

 ライル先生は、立ちあがって。

 わたしのとなりの席に、腰かけた。

 青い瞳はずっと、わたしから、そらされることはなくて。

 ライル先生は、おだやか笑顔を見せている。それは、どこかなつかしいものを見ているかのよう。

「いいか、セア。お前達くらいの年齢はな、楽しいとか、悲しいとか、感情に振り回されるんだ。当たり前なんだよ。そして、素晴らしいことなんだ」

「周りに迷惑をかけるのにですか?」

 アズリを心配させて、エアルスにあきれられて、ライル先生にこうして時間をムダにだせて、そんなのがいいだなんて、思えない。

 わたしが、きっと悪いんだ。

「ああ、忘れるな。その感情はお前だけのもので、なにものにも代えがたい。誰も、お前の代わりにはなれないんだ。それは素晴らしいことなんだよ、セア。いろんな人間が、いろんなことを想う。だから、自分と違う人間の気持ちを、みんな、想像しなくちゃならない。そうやって、相手の気持ちを想うことで、心は成長していくんだ。大人になるって、相手の気持ちをちゃんと想像できるってことなんだよ。分かり合えるってことなんだ。そのためには、先生とセアは、違わないといけないし、セアとアズリが違うのも、当たり前なんだよ」

 ライル先生の言葉は夕焼けに染まる教室に染み込んでいく。

 一歩、一歩、レンガ道でおなじ色だけをたどるように。踏み外さないように注意深く、わたしに言葉をかけてくれる。

「同じ人間には、同じ魔法しか奏でられない。違う人間だから、魔法は色鮮やかになるんだ」

 違うことは、あたりまえで。

 違うことは、素晴らしいことで。

 違うことは、けして悪いことじゃない。

「セア、お前がこれから間違えるとしたらだ。相手を分かろうとしないこと、そして相手に分かってもらおうとしないことだ。怖がって、相手を避けることだ。それから、言葉にしないことだ。想っているだけでは、セアの想いは伝わらないんだ」

 ――言葉にする。

 でも、言葉にしたって、聞いてもらえなかった。

 わたしの大事な想いは、言葉にできない。

 わたしは、言葉にできるほど、頭がよくない。

「セア、先生にちゃんと教えてくれないか? 今、セアはどう想っているんだ? 黙っていられたら、分からないんだよ。先生も、神様にはなれないんだ」

 ライル先生に言われてやっと、わたしは自分がなにも話していないのに気づく。

 ずっと黙ったまま、涙をこぼしていただけだったんだ。

 いつも、そうだったんだ。

 でも、聞いてくれるの?

 わたしを、受け止めてくれるの?

 こわいの。

 勇気を出して、言葉にした想いが、拒絶されたらと思うと、ものすごく、こわいの。

 でも、このまま胸の中に閉じ込めたままでも、つらいの。

 もう、はき出したいの。

 苦しみから、逃げ出したいの。

「わたし、アズリと仲良くしたいです」

「そうだな」

 わたしの声は、涙に濡れてひどく聞き取りにくいはずなのに。

 ライル先生はちゃんと聞きとってくれた。

 ちゃんと、受け止めてくれたんだ。

「でも、こわくて――わたしは、自分の気持ちなんて、言葉にできなくて、カン違いされそうで、だったら、黙っていたくて」

「なるほどな」

「どうせ、どうせ、わたしの気持ちなんて、間違ってるって、そう言われるんです。わかってなんか、もらえないんです。だれかの気持ちを変えることなんて、できないんです」

「それは、違うよ、セア」

 ライル先生の声の調子は全く変わっていないのに。

 でも、そこに、大きな力を感じた。

 はっきりと、わたしを否定したんだ。

「セアの言葉は、ちゃんと先生に届いている。確かに、セアは言葉を考えるのが、得意じゃないかもしれない。拙くて、言いたいことをちゃんと言えないかもしれない。それでも、聴こうと思えば、ちゃんと理解できる。セアの言葉が届かないのは、セアが一生懸命に歩み寄っているのに、相手が近づいてくれないからだ。そして、アズリはそんな子じゃない」

「わたしは、わるくないんですか?」

 その質問に、ライル先生はすこしだけ困ったように笑った。

「悪いとか、悪くないとかじゃないんだよ、セア。セアがうまく気持ちを言い表せないのも、ただの事実。それから、今までセアが話してきた相手に理解力がなかったのも、ただの事実。そこに悪いとか、悪くないとか、決めつけちゃいけないんだ。そんなことを考えるなら、次はどうすれば気持ちを伝えられるかを、考えなくちゃいけないんだ」

 よく、わからなくなってきた。

 ライル先生が言ってることは、どういうことなの?

 けっきょく、わたしはどう思うのが、正解なの?

 どこをどう直せば、アズリはまた笑ってくれるの?

「わたしは、なにをすればいいんですか?」

「自分の気持ちを伝える努力と、相手の気持ちを知る努力をすればいいんだ。話し合うことが大切なんだよ」

「気持ちが伝わらなくてもですか?」

「やってみないと、分からないじゃないか」

 息が苦しくなってくる。

 胸が張り裂けそう。

 頭の中がぐちゃぐちゃしてきて。

 ただひとつだけ、はっきりしてるのは、アズリは間違ってないっていうこと。

 だったら――。

「先生、わたしがわるいんだよ! みんな、わたしがいつも間違ってるって言ってたんだから、わたしにはなにもできないって言ってたんだから、ぜったい、わたしが間違ってるはずなんだよ!」

 そうだ。

 母様も、兄様も、エアルスも、アズリも、わたしはなにもできない子だって言ってたんだから。わたしが間違っていないと、わたしの大切な人たちが間違ってることになるんだ。

 そんなはずはないの。

 みんな、わたしより、頭もいいし、ちゃんと考えているし、大人なんだし。だから、わたしはおかしいんだ。

 わたしが、ダメだから、うまくいかないんだ。

「セア、決めつけちゃいけないんだ」

 ライル先生が言ってることも、わかるけど。

 わかるんだけど。

 わかっちゃ、いけないんだ。

 それをわかったら、わたしはバカだから、今度は周りのせいにしてしまう。大好きな人たちをわるく思うなんて、いや!

 わたしはカバンを手に取って。

 教室から出ていった。

 ライル先生が追い付けないように、後ろ手に閉めたドアは凍結させて。

 全速力で、走って。

 玄関を出て。

 校庭を抜けて。

 ――なんで、こんなこともできないの――

 ――セアにはまだできないから、止めておきな――

 ――お前、ほんと、どうしようもねぇなぁ――

 ――どうなるかくらい、わからないの――

 耳の奥で、言葉がこだまする。

 わかってるよ、わかってるから。

 なんとか、その声を止めたくて、耳を何度もひっかく。でも、痛くなるだけで、声はぜんぜん止んでくれない。

 わかってるの、わたしがダメなことくらい。

 本当はなにもしないほうがいいんでしょ?

 だったら、わたしになにかをさせようとしないでよ。

 なにもしないよ。もう、なんにもしないから、そしたら、迷惑もかけないんだから。

 なにもしないでいるのを、ゆるしてよ。

 逃げるように、がむしゃらに走って。

 でも、なにから逃げたいのかもわからなくて。

 暗い山道では、足元も見えなくて。

 そうでなくても、周りに注意なんか払っていなかったから、わたしは足を踏み外して。

 そのまま、斜面を転げ落ちた。

 むき出しの石や木の枝に体をひっかけて。

 全身ボロボロで、ドロドロになって。

 見上げれば、とても登れそうになくて。

 足もひねったみたいで、じんじんと熱さと痛さが足首をつついてくる。痛くて、苦しくて、汚くて。

 すごくみじめな気持ちになる。死んでしまいたいくらいに、みじめな気持ちに――。

 ここは、どこ?

 ひとりは、やだよ。

「母様? 兄様! エアルス! アズリ……」

 呼んだって、だれも来てくれない。

 だれも来てくれないんだ。

 わたしみたいな、だめな子を探しに来てくれやしないんだ。

 いやだよ。

 だれか、だれか、見つけてよぉ。

 あふれ出る涙を手で拭っても、視界はゆがんだままで。

 熱っぱい息をはくたびに、体温が奪われていくよう。

 でも、ここでずっと泣いていれば、もうだれの迷惑にもならないのかな?

 もう、だれにも、だめだ、なんて言われなくてすむのかな?

 そしたら、みんな幸せになれるのかな……?

「何、下らないことを考えてやがる」

 じゃり、と地面を踏みしめる音がして。

 振り返ったら、エアルスが不機嫌そうな顔をしてた。

「なんで、エアルス――?」

「お前が泣いて、オレが気づかない訳がないだろうが。ふざけんな」

 そうじゃなくて。

 エアルスなら、たしかに、すぐに気づくだろうけど。

 なんで、わたしがいる場所がわかったの?

「お前、感情のままに魔力振りまいてんだよ。マナの軌跡を見りゃ、すぐに見つけられるっつの」

 ああ、またやってしまったんだ。

 感情のままに行動するなんて、いけないことなのに。

「ごめん、ちゃんと、感情、抑えられるように、がんばるから」

 だから、怒らないで。

 もう、だれかを怒らせるのは、いやなの。

 わたしのために、だれかにそんな、いやな気持ちになってほしくないの。

「ああ? ふざけんな、お前に感情なんかコントロールされてたまるか」

「え?」

 今、わたしはなにを言われたんだろう?

 感情をコントロールするな?

 なにを言ってるの、エアルスは?

 みんなの迷惑になるんだよ?

 それはとても、とっても、わるいことでしょ?

「お前が泣かないとか、有りえねぇんだよ。それで下手に感情を抑えられたら、オレが見付けられねぇだろうが。それで今度はこそこそ独りで泣こうってか?」

 エアルスが、近づいてくる。

 いやだ、来ないで。

 わたしは、地面の砂を握ってエアルスに投げつけるけど。

 エアルスはそんなのお構いなしで。

「来ないでよ! エアルスなんてキライよ!」

 キライ。

 みんな、キライ。

 大っキライ。

 大キライだから、離れてよ。

 わたしのそばに来ないでよ。

 もう、だれかがわたしのせいで、苦しんだり、悲しんだりするのは、いやなんだから!

 エアルスなら、聞こえているんでしょ?

 大っキライなのよ!

「だから、なんだよ。関係ねぇよ。オレはお前が大切で、お前は独りで泣いたら、どうせ壊れていくだけだから、そばにいるんだ」

 エアルスの声が、届く。

 地面からじかに伝わるみたいに。

 言葉だけじゃないぬくもりが、じんわりと伝わってくるんだ。

「お前に嫌われたくらいで、オレが傷付くとか、思ってんのか。オレはな、自分なんてどうでもいいんだよ。オレは、何より、誰より、お前が大事なんだよ、セア」

 エアルスは、わたしの体を軽々と持ち上げて。

 空気を踏みしめて、元の道へと戻っていく。

 エアルスに踏みしめられた空気は、エアルスの髪みたいに赤茶色に輝いて、揺るぎない大地に一瞬だけ変わる。

 迷わず自分の道を歩けるエアルスが使う、地の魔術は、いつだって落ちついて、安定してる。けして、踏み外したり、薄らいだりしない。

 ぜったいの自信が、エアルスの魔術を高めてる。

「なんで?」

 なんで、わたしなんかが大事なの?

 なんにもできないのに。

 迷惑をかけてばっかりなのに。

「お前が、オレの半身だから、オレは救われたんだ。オレはお前じゃなきゃ、自分を許せなかった。だから、お前には、お前のままでいてほしいんだよ」

 そういうエアルスの顔は、どこか悲しげで、それでいて、誇らしげで。

 また、泣きたくなった。

「泣きたいなら、泣け。それがお前だろ。そういうお前だから、苦しいとか、悲しいとか、よくわかって、他人の感情にも共感できる、優しいお前だから、誰かを救えるんだよ」

 そう言われたら、泣くしかないじゃないの。

 もう、今日はたくさん泣いてるのに。

「お前、すげぇんだよ。自分じゃ分かってないのかもしれないけどな。他人の感情が入ってくるのって、怖くて仕方ないんだ。自分の感情が、自分のなのか、他人のなのか、分からんなくなって、自分を信じられなくなる。自分を見失っちまう。だから、オレは受け入れられなかった。でも、お前は他人の悲しみも自分のことみたいに泣くし、他人の悩みも自分のことみたいに頭抱えるし。でも、それで心が軽くなるんだ。独りじゃないって、感じられるから。でも、お前が感情を抑えたら、他人の心も分からなくなる。それじゃ、お前のいいところがなくなっちまうんだよ」

 エアルスにしては、長くて、とらえどころのない、その言葉だけど。

 わたしの心に染み込んで、優しさになった。

 エアルスがわたしを想っている感情が、暖かくて、くすぐったくて、愛おしい。

 あたりは風もなく、虫の音も遠い静寂の中で。

 空に落ちているような、不思議な感覚になる。

 ふと、思い出したのは、夏のアローネ海のこと。嵐が訪れて海は荒れて、けれど、その後に訪れる凪はとてもおだやかで平和なひととき。

《風は凪ぎ 雲は散る》

 わたしの紡ぐ詠唱を、エアルスは黙って聞いて。

 静かさに波立たない海が混ざり合ってく。

《舞い降りるは静寂 音はなく 空は高く 海を包む》

 ただ黙って、そこにいてくれる。

 なにも言わずに、そこにいてくれる。

 そして優しく包み込んで、悲しみから守ってくれる。

《海鳥は連れてきた 愛しき母を撫でる雄々しき父を 繁栄をもたらす女王に寄り添う全てを見降ろしたる皇帝を》

 エアルスは、兄様と違って天の属性を持っていないけど。

 いつも上から目線だから、あんまり変わらないよね。

 凪はどこまでもおだやかに。波ひとつゆれずに、白い月を映しこむ。

《海鳥は連れてくる 新しい季節》

 嵐を迎えて、海は凪いで、新しい季節はけんめいに変化を受け入れようとしてる。

《海鳥は連れてくる 旅立っていったもの》

 別れてしまった人とも、また出逢えるの。

 一度離れても、想い続ければ、運命がまた引き合わせてくれる。

《海鳥は連れてくる 偉大なる運命》

 それは出逢い。

 それは再会。

 遠い昔に別れた魂が、生まれ落ちたこの世界で、愛を交わす。

《海鳥は飛び去って 波はいつまでも揺らいでいる》

 どんなに悲しくても。

 どんなにうれしくても。

 だれがそこにいても。

 だれがそこにいなくても。

 海はずっとそこにある。波は寄せて返して。凪は静かにおだやかに。時に感情をはげしく、さけびを上げて。時に平静を満たして、波ひとつ立てず。

 けれど、どちらも深い愛情が宿ってて。

 だいすき。

 さっきの、だいきらいっていうの、ウソだから。

 ウソに、しておいて?

「ねぇ、エアルス。エアルスは一番になりたいって思う?」

「一番? 成績のことか?」

「うん、そう」

 エアルスは一瞬だけまぶたを閉じて。

 歩くたび、エアルスの跳ねた髪が踊る。

 そういえばわたし、抱きかかえられたままだ。

 きゅっと、わたしはエアルスにかけた腕に力をこめる。

 もっと近くで、エアルスを感じたかったから。

「オレはそんなものはどうでもいいが、それにこだわる奴がいても不思議じゃねぇよ。それが、ただの見栄なのか、プライドの高さなのか、バカだから他のことが見えてないのかは、それぞれだろうが」

 アズリは、そんな子じゃない。

 アズリがあれだけ執着するなら、もっと違う意味があるはずなんだ。

 アズリにとって、とても大切で重要で、すべてをかけないといけないような、深い理由があるはずなんだ。

「ああ、それから、理由ならもう一つ思い付くか」

「なに?」

 エアルスが思いついた考えなら、答えに近づけるかもしれない。

 わたしはそっと、頭をエアルスの胸に寄せて、耳をかたむける。

「自分の価値としてだ。一番優秀ならば、多くの人間に認められる。それに自分の位置を定義しやすく、自信が持てる。他に何も持っていない人間なら、拘るだろうな」

「アズリは、いいところたくさんあるよ」

 いくらエアルスでも、アズリをけなすなんて許せない。

 でも、エアルスはまっすぐににらむわたしを、鼻で笑った。

「さっきまで、自分なんて何も出来ないって泣いてた奴に言える言葉かよ」

「え?」

「優秀な人間は自分の価値が分からず、愚鈍な奴は他人の価値が分からないっていうことだ」

 エアルスの言葉を理解する前に、もう寮に着いていて。

 エアルスは受け付けのお姉さんに話をすると、またわたしに歩み寄ってくる。

「お前のルームメイトが迎えに来てくれるってよ。じゃあな」

「もう行っちゃうの、エアルス?」

 さみしいよ。

 まだ、平気になったわけじゃないんだよ。

 わたしの手は、勝手にエアルスの服のすそを握りしめてた。

「メシ作ってる途中だったんだよ。ウチのルームメイトもうるさいからな」

 それなら、しかたないかな。

 これ以上、他人に迷惑をかけちゃいけない。

 こわばる指に意識を向けて、ゆっくりと解いていく。

 早くエアルスを解放してあげないといけないのはわかってるのに。わたしの指は、かたくなにそれをこばんでしまうの。

 そういえば、教室のドアも凍らせちゃったし、ライル先生にも謝らないと。

 そんなことを考えていたら、エアルスがわたしの前髪に指をからめて、くるりと回した。

「じゃ、またな。遊びにくる時は連絡しろ」

「うん。わかったよ」

 名残惜しいけど、エアルスの手をなでて、別れを告げる。

 だいじょうぶ。わたしたちの魂は、いつだってつながっているんだから。いつでもエアルスは、ここにいてくれる。

 エアルスが指をからめた前髪に、わたしも指をからめて。

 目に見えない絆を感じて、心が和んでく。

「セア!」

 エアルスと入れかわりになるように、アズリが駆けつけてくれて。

 ぎゅって、力強く抱きしめられた。

 ちょっとくるしいよ、アズリ。

「また、あなたは何をしたのよ?」

 土で汚れた顔を指でこすられて。

 わたしからはがれた泥が、アズリの指を黒くする。

「アズリ、指汚れるよ」

「いいから。足、くじいているんですって?」

 アズリは、わたしの足首のはれを、ひとなですると。

 またわたしの体が宙に浮かんだ。

「あ、アズリ? 重いよっ」

「むしろ、軽すぎるわ。嫉妬しちゃう」

 アズリはわたしを抱えても、しっかりとした足取りで歩きだす。

 わたしは、すこしでも軽くなるかなって思って、体を小さくまるめて。

 アズリの胸に顔をうずめると、草原みたいなさわやかな香りがした。

 胸いっぱいに吸い込みたくなるくらいに、ステキな香りが、わたしの心をさわさわとなでつける。

「また、泣いていたのね。私のせい、よね」

 違うの。

 そうじゃないの。

 そんな、悲しそうな声を出さないで。

「あのね、アズリ。ごめんなさい、それから、アズリに心配してもらって、うれしかったよ。でもね、 あの、バカだと嫌われるんじゃないかって、こわくって、それで」

「もう、いいから。危ないことだけはしないって、それだけ約束して。それで、許してあげるから」

「うん。約束、するよ」

 もうアズリを悲しませたくないから。

 だから、わたしは、ちゃんと伝えるって決めたんだ。

「あのね、アズリ」

「何、セア?」

 エレベータの外で景色が落ちていくのを見ながら、わたしはアズリに声をかける。

「わたし、一番なんていらない。アズリがなればいいと思う」

 夜はもう、世界を飲み込んでいて。

 空では星が歌ってる。

 心を広げれば、だれだって、どこへだって行ける。

 わたしには一番は必要ない。

 どこまでも想える感情があればいいんだ。

 だから、一番を必要としてるアズリに、一番が輝けばいい。

 そうなったら、わたしもすごくうれしい。

 それで、みんな幸せでしょ?

「セア、それでも、周りはあなたの才能を手離さないわ。あなたの気持ちなんて関係なく――。だから、私はあなたを超えるの」

 エレベータが上がりきって。

 地面はずっと下のほう。

 暗闇がすべてを飲みこんでしまってる。

 アズリの声は、その底に沈むように重くて。

「それには、どうしたって、あなたを蹴落とさないといけないのよ。でも、好きになればなるほど、それが辛くなって、これ以上好きになることが怖くなったのよ」

 アズリは目の前の光景を引きはがすように振り返って、わたしたちの部屋へと向かう。

 足取りが重いのは、わたしを抱えてるからじゃなくて。

 アズリがはき出してる想いの重さのせい。

 ゆっくりとこぼされるその言葉が空気をゆらして消えるみたいに、アズリの胸の中からなくなってくれたらいいのに。

「私は卑怯者だわ。あなたを傷付けるのは怖かったけれど、それ以上にあなたを傷付けて自分が傷付くのが怖かった。だから、傷付けてしまうかもしれないと分かった途端に、突け放そうとして、それでも、居心地のいいあなたの隣にいたいと思ってしまった。その中途半端さが、あなたを余計に傷付けたんだわ」

「わたしは、アズリに嫌われるのだけが、こわいよ。だけど、それ以外なら全然へいきだよ」

 一緒にいられればいいの。

 一緒にご飯を食べて、勉強できて、遊んで、笑っていられたら、それでいいの。

 そうできないのが、こわいの。

 部屋に入ったら、アズリはわたしの体をベッドに横たえてくれて。

 手のひらをわたしの足首に当てる。

《傷つく者に癒しの慈しみを 神が望むは平和の世界》

 おだやかな詠唱が響けば、じんわりと、温かさが伝わってきて。

 アズリの魔法に、痛みが引いていく。

「あのね、セア。私、あなたを超えて一番になって、そしたら、あなたといることが、怖くなくなる気がするの。本当は、こんなことになっても固執するなんて、いけないのも、分かっているんだけど、でも、ちゃんと自分で言ったことをやり遂げないと、勇気が持てないの」

 そういうアズリは今にも泣きそうで。

 アズリが辛いと思っているのが、わたしにはどうしようもなく辛い。

 わたしが、アズリを待っていてあげればいいんだ。

 信じて、待っていれば、アズリはきっとわたしを見つけ出してくれる。

「うん、わかった。待ってる。待っていればいいんだよね?」

「ええ、すぐに追い着いて――いいえ、追い越してみせるわ」

 わたしはアズリに強く抱きしめられて。

 泥だらけの制服が、アズリを汚してしまうのが、すごく申しわけなかった。


 ***


 次の日、わたしは怒られるのを覚悟して、職員室に行ったんだけど。

「お、セア、どうした? 質問か?」

 いやいや、ライル先生、なんでそんなのんきな話題を振るんですか?

「あの、昨日のことを謝りにきたんですけど……」

「ああ、そっちか。じゃ、生徒指導室に行こうか」

 ああ、やっぱり怒られるんだ。

 生徒指導室の鍵を取るライル先生に、わたしはうつむきながら着いていく。

 ライル先生はそんなわたしを見て、すこし笑ってる。

「別に叱る訳じゃないぞ。職員室は他の先生がいるから話しにくいだろう」

 となりの生徒指導室に行くには、一度廊下に出なくてはいけなくて。

 そこで待っていたアズリが、わたしを見つけて駆けよってきた。

「セア、大丈夫なの?」

 不安そうなアズリの表情に胸がしめつけられる。

「先生を悪者みたいに扱わないでくれよ」

 ライル先生は困ったように笑っていて。

 このままだと、かわいそうに思えてきた。ライル先生は、優しい先生だもの。

「うん、だいじょうぶだよ。お話するだけだって」

 アズリは、ほっと胸をなでおろして。

「それじゃ、待っているわね」

「うん」

 わたしはライル先生に続いて、生徒指導室に入った。

 こじんまりとした部屋の中には、向かいあった机とイスだけしかなくて。きっとふだんは使われてないんだろうな。

 とても無機質な雰囲気の部屋だった。

「まぁ、座ってくれ。アズリとは、うまくやれていけそうだな」

「はい」

 ライル先生にすすめられるままに、わたしは向かいの席に座る。

「あの、昨日はほんとうに、すみませんでした。あんな、取り乱してしまって。それに、教室のドアも……」

「ん? ドアのことなら気にしなくていいぞ。いいか、セア。人の心は常に穏やかな訳じゃない。天気が変わるように、晴れている時もあれば、嵐の時だってある。心に嵐が来ている時にやってしまったことはな、自分で反省するべきだが、他人が責めていいものじゃないんだ。だって、心に嵐が吹くってことは、その人に何かがあったってことだ。それを分かってない人間には、何も言う権利はないんだよ」

「先生は、怒ってないんですか?」

 わたしにあんなことをされて、ライル先生の心はおだやかでいるんだろうか?

 わたしは、わたしのことを必死に考えてくれたライル先生の手を振り払って、逃げ出したのに。

「先生は、セアとアズリが仲良くなれそうで嬉しいぞ。その結果が、先生の言葉じゃなくて、他の誰かや、例えば二人の話し合いで導かれたものであっても、いいんだ。どんな道筋を辿ったっていいんだ。先生が望んでいるのは、お前達生徒の幸せと成長なんだから」

 ライル先生は、にっこりと笑って。

 ライル先生はいつも、そうやって笑顔を見せてくれてたんだ。

「それで、一応聞いておきたいんだけど、何が原因だったんだ? 話しにくいなら、無理に話さなくてもいいんだけど」

 ライル先生の気づかいに、わたしは首を振った。

 先生には、ちゃんと話さないといけないと思う。

「わたしが、考えなしであぶないことしたからです。もう、そういうことしないって約束したから、だいじょうぶです」

「そうか。それはよかった」

 ライル先生は満足そうに、ひとつうなずいて。

 そうだ、あのことを、ライル先生に言ったら、なんとかしてくれるかもしれない。

「あの、ライル先生」

「ん、どうした?」

「わたし、一番とか、いらないです」

 わたしがそう言った途端に、ライル先生の表情が哀しげに曇る。

 あれ、わたし、そんな心配されるようなこと言ったかな。

 でも、ちゃんと説明すれば、ライル先生だからわかってくれるはずだ。

「わたし、順番とかつけられるの、きらいです。そんなので、だれの代わりになるとか、ならないとか、そういうふうに見られるの、いやです。わたしは、わたしだから。だから、一番なんていらないんです」

「セア、お前は間違っている」

 え?

 間違ってる?

 なにが?

 ライル先生の真剣な表情は、雷のようにわたしを撃って。

 その言葉が、これ以上口を開くことを許してくれなかった。

「セア、成績は公平な判断で下されたお前達の評価だ。それはお前自身に与えられるものだ。ただの数字なんかじゃない。セアがどんな人間なのかを、セアを全然知らない人に分かってもらうためにあるんだ」

 雷が落ちた直後のような、静けさ。

 ライル先生が言ったことが、うまく頭に入って来ない。

 ライル先生は、短く息をはいて。

 それから、また柔らかい笑顔を見せてくれる。

「先生の言ってること、今すぐに全部分からなくてもいい。いつか、必ず分かる日はくるさ。ただ。セアがなんて言っても、成績は変えられない。お前がそんなこと言う原因は、アズリだな」

 わたしは、まだなんの反応もできなくて。

 それをライル先生はどう受け取ったのか、話を進めていく。

「あまり生徒のことを話すのはよくないんだが。あのな、セア、アズリの家は学費を払うもの大変なんだ。だから、アズリは優秀生の学費免除に頼らないといけない。あの、学年に五人しか受けられない優等枠だ」

 その優等枠は、成績上位者が受け取りを辞退しても、その後の順位の生徒には与えられない。

 アズリはずっと、好成績を維持していないと、この学園にいられないんだ。

「でもな、学年に五人いるんだよ。一番じゃなくても、変わらないんだ。アズリなら、大丈夫なんだよ。だから、お前がアズリの成績を気にしなくてもいい」

 たしかに、わたしなんかが気にしていいものじゃないのかもしれないけど。

 もうよくわからない。

 わたしは、ライル先生にあいまいなうなずきしか返せなくて。

 この話はそのまま終わってしまったんだ。


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