水飲み鳥
冷たい。
彼女の手が私の頭に置かれた瞬間、全身が震えた。後ろ手に回された手首の結束バンドが、皮膚に食い込んでいる。
――信じてもらえるなら、何でもする。
そう思ったのは本当だった。でも、まさかこんなことになるなんて。
「潜って」
彼女の声は穏やかだった。愛撫の後のような、甘い響きさえ含んでいる。私は深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに空気を詰め込んで、そして――
水面が顔を覆う。最初に感じるのは、冷たさが顔の皮膚を刺す感覚。髪が顔の前で揺らめいて、茶色い髪の毛が海藻のように漂う。視界がゆらゆらと歪む。
静寂。
水の中は恐ろしいほど静かだった。聞こえるのは、自分の鼻から漏れる小さな泡の音だけ。ぽこり、ぽこりと、少しずつ空気が逃げていく。
――これで彼女の気が済むのなら。
よくあることだ。私が悪かった。黙って出かけたりして。でも、少し我慢すれば、また優しい彼女に戻るはず。
肺が痛い。空気を求めて、体の内側から何かが押し上げてくる。限界だ。体が勝手に動く。肩が跳ね、腰がよじれ、足が浴槽の底を蹴る。
だめ、だめ――
急に空気。
引き上げられた瞬間、世界中の音が耳に飛び込んできた。激しい咳。水を吐く。息を吸おうとして、また咳き込む。
「もう一度」
まだ呼吸が整っていない。肺が空気を求めて必死に動いているのに、彼女はもう私の頭を押さえている。
「待っ――」
再び水の中へ。
今度は最初から苦しい。さっきの咳がまだ治まっていない。髪がまた顔の前で揺れる。さっきよりも激しく、私の動きに合わせて乱れて踊る。
静けさの中で、泡の音が早くなる。ぽこぽこぽこ。
――「友達」と会ってきただけ。
黙って出かけた。心配させたくなかった。それに、不機嫌になる彼女をなだめるのも面倒だった。そんな気持ちが、今は後悔に変わる。
――私だけのものでしょう?
いつも聞かれていた言葉。うん、と答えるのが日課だった。
もう限界。でも今度は体が動かない。冷たい水が流れ込む。咳き込もうとして、さらに水が入ってくる。どんどん、どんどん。止められない。
引き上げ。
激しい嘔吐。水と一緒に胃の中のものまで出てくる。呼吸ができない。咳と嘔吐が交互に来て、息を吸う暇がない。
「もう一度」
もう体が動かない。水の中で、ただ髪だけが力なく揺れている。
――二人きりで過ごそう。
別荘に誘われた時は嬉しかった。最近ぎくしゃくしていた関係が、元に戻ると思った。車の中で手を握られて、ああ、やっぱり彼女は私を愛してくれているんだと。
ベッドの中で、彼女は優しかった。いつもより丁寧に、まるで壊れ物を扱うように私に触れた。仲直りできた。そう思って、汗ばんだ体を寄せ合っていた。
「シャワー浴びてくる?」
彼女の提案に頷いて立ち上がった時、「ちょっと待って」と呼び止められた。振り返ると、彼女が結束バンドを持っている。
「今日は特別だから」
前にも何度かあった。ベッドでの遊びの延長。そう思って、私は手を後ろに回した。締まっていく感触とともに、手首が固定される。
浴室に入って、初めて気づいた。浴槽に水が張ってある。冷たい水が、なみなみと。
今はその水の底。静寂。自分の心臓の音さえ、遠くなっていく。
彼女の手が、髪を優しく撫でているのが分かる。水の中でも、その愛撫は続いている。まるで子供をあやすように、恋人を慈しむように。
引き上げ。
もう吐く力もない。ただ水が口から流れ出ていく。息が吸えない。小刻みに肺が動くだけで、ひゅうひゅうと変な音だけが漏れる。
彼女が私の顎をそっと持ち上げた。優しい微笑み。初めて「好き」と言われた時と同じ、あの美しい笑顔。
「私のために死んで?」
答える間もなく、彼女の手がまた私の頭を押さえた。水に沈む。
もう何も感じなかった。痛みも、苦しさも、恐怖も、すべてが水に溶けていく。
最後の泡が唇から離れていく。ぽこり、と。命が逃げていく音。
「私が幸せにしてあげる」と言ってくれた。その約束は、きっと今も守られているのだろう。彼女のやり方で。