表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー

水飲み鳥

作者: 菱屋千里

 冷たい。


 彼女の手が私の頭に置かれた瞬間、全身が震えた。後ろ手に回された手首の結束バンドが、皮膚に食い込んでいる。


 ――信じてもらえるなら、何でもする。


 そう思ったのは本当だった。でも、まさかこんなことになるなんて。


「潜って」


 彼女の声は穏やかだった。愛撫の後のような、甘い響きさえ含んでいる。私は深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに空気を詰め込んで、そして――


 水面が顔を覆う。最初に感じるのは、冷たさが顔の皮膚を刺す感覚。髪が顔の前で揺らめいて、茶色い髪の毛が海藻のように漂う。視界がゆらゆらと歪む。


 静寂。


 水の中は恐ろしいほど静かだった。聞こえるのは、自分の鼻から漏れる小さな泡の音だけ。ぽこり、ぽこりと、少しずつ空気が逃げていく。


 ――これで彼女の気が済むのなら。


 よくあることだ。私が悪かった。黙って出かけたりして。でも、少し我慢すれば、また優しい彼女に戻るはず。


 肺が痛い。空気を求めて、体の内側から何かが押し上げてくる。限界だ。体が勝手に動く。肩が跳ね、腰がよじれ、足が浴槽の底を蹴る。


 だめ、だめ――


 急に空気。


 引き上げられた瞬間、世界中の音が耳に飛び込んできた。激しい咳。水を吐く。息を吸おうとして、また咳き込む。


「もう一度」


 まだ呼吸が整っていない。肺が空気を求めて必死に動いているのに、彼女はもう私の頭を押さえている。


「待っ――」


 再び水の中へ。


 今度は最初から苦しい。さっきの咳がまだ治まっていない。髪がまた顔の前で揺れる。さっきよりも激しく、私の動きに合わせて乱れて踊る。


 静けさの中で、泡の音が早くなる。ぽこぽこぽこ。


 ――「友達」と会ってきただけ。


 黙って出かけた。心配させたくなかった。それに、不機嫌になる彼女をなだめるのも面倒だった。そんな気持ちが、今は後悔に変わる。


 ――私だけのものでしょう?


 いつも聞かれていた言葉。うん、と答えるのが日課だった。


 もう限界。でも今度は体が動かない。冷たい水が流れ込む。咳き込もうとして、さらに水が入ってくる。どんどん、どんどん。止められない。


 引き上げ。


 激しい嘔吐。水と一緒に胃の中のものまで出てくる。呼吸ができない。咳と嘔吐が交互に来て、息を吸う暇がない。


「もう一度」


 もう体が動かない。水の中で、ただ髪だけが力なく揺れている。


 ――二人きりで過ごそう。


 別荘に誘われた時は嬉しかった。最近ぎくしゃくしていた関係が、元に戻ると思った。車の中で手を握られて、ああ、やっぱり彼女は私を愛してくれているんだと。


 ベッドの中で、彼女は優しかった。いつもより丁寧に、まるで壊れ物を扱うように私に触れた。仲直りできた。そう思って、汗ばんだ体を寄せ合っていた。


「シャワー浴びてくる?」


 彼女の提案に頷いて立ち上がった時、「ちょっと待って」と呼び止められた。振り返ると、彼女が結束バンドを持っている。


「今日は特別だから」


 前にも何度かあった。ベッドでの遊びの延長。そう思って、私は手を後ろに回した。締まっていく感触とともに、手首が固定される。


 浴室に入って、初めて気づいた。浴槽に水が張ってある。冷たい水が、なみなみと。


 今はその水の底。静寂。自分の心臓の音さえ、遠くなっていく。


 彼女の手が、髪を優しく撫でているのが分かる。水の中でも、その愛撫は続いている。まるで子供をあやすように、恋人を慈しむように。


 引き上げ。


 もう吐く力もない。ただ水が口から流れ出ていく。息が吸えない。小刻みに肺が動くだけで、ひゅうひゅうと変な音だけが漏れる。


 彼女が私の顎をそっと持ち上げた。優しい微笑み。初めて「好き」と言われた時と同じ、あの美しい笑顔。


「私のために死んで?」


 答える間もなく、彼女の手がまた私の頭を押さえた。水に沈む。


 もう何も感じなかった。痛みも、苦しさも、恐怖も、すべてが水に溶けていく。


 最後の泡が唇から離れていく。ぽこり、と。命が逃げていく音。


「私が幸せにしてあげる」と言ってくれた。その約束は、きっと今も守られているのだろう。彼女のやり方で。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
久しぶりにやっべぇーの来ましたね(^^; やっべぇー内容なのに、なんか読んでしまう文章力と、出来事自体は水飲み鳥をしているだけなのに、引き付けられてしまう構成力が流石です。 私自身にこういう癖は無…
………っ…!(無言のガクブル)
怖いよ(/_;) リアルだよ(/_;) 水飲み鳥の平和なのんびりしたイメージとの対比が心を蝕むよ。・゜・(ノ∀`)・゜・。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ