30:レオノーラの杞憂
夜会が終わり、アビエルが部屋へ戻る際、レオノーラは護衛と付き添いをガスパルと侍従頭のルイスに任せ、自身は湯とお茶を頼むために食堂へと向かった。
どうすれば、この妙な空気を変えられるだろうか。
歩きながら、頭の中はそのことでいっぱいだった。自分の振る舞いのせいで、アビエルが積み重ねてきた準備に水を差してしまったのではないか——そう思うと、落ち着かず、足取りばかりが早くなる。
部屋へ戻ると、ガスパルが扉の前に立っていた。
「ガスパルさん、ルイスさんは中に?」
「はい……おられる、はずです」
歯切れの悪い返事だったが、ガスパルにしては上出来な方だ。
扉をノックし、中からの返事を待って入室する。アビエルはルイスに手伝わせて、儀礼服から着替えているところだった。
「レオニー、遅いから心配した。ルイス、あとは彼女に任せて——」
そう言いかけたアビエルの言葉を、レオノーラは静かに遮った。声は少し強めに、けれど礼を失さぬよう慎重に。
「殿下、今夜は明日の会談に備えて、資料の整理を進めておきたいのです。本日はこれにて下がらせていただけますか」
アビエルは、シャツのボタンにかけていた手を止め、不審そうにこちらを見る。目を細め、言葉の真意を測るような視線だった。
「資料の整理……確かに、今日新たに加わった部分もあったな。私も確認したい。ここで見せてもらっても構わないか?」
「はい。少し整えてから、あらためてお持ちします」
一礼して部屋を出ようとしたところで、侍女たちが湯桶を運んできた。扉を大きく開けて彼女たちを中に通し、そのまま隣室へと向かう。
机に向かい、会談内容の追加・修正部分や道路整備に関する予算案の再確認に取り掛かった。作業を進めながら、アビエルとの距離感について考える。
——寂しいけれど、分をわきまえた態度を取らなくては。
この数日、彼のそばにいられることが嬉しくて、どこか浮かれていた気がする。こんな自分では、彼の足を引っ張ってしまうだけだ。
必要な資料をまとめ、要所にルーテシア語の訳を添えて準備を整える。再びアビエルの部屋へと向かい、扉の前に立つガスパルに尋ねた。
「夜間の護衛の交代は、もう決まっていますか?」
「いえ、まだ……」
その返答に頷き、後ほどルイスに相談して、護衛を選定してもらおうと心に決めた。
部屋では、ルイスが儀礼服の手入れを終え、靴を磨いていた。
「殿下、資料をお持ちしました」
テーブルに書類を置き、ルイスにも声をかける。
「ルイスさん、今夜は私を護衛任務から外していただきたく思います。明日の会議までにこちらの資料を整理させていただきたいので」
その言葉に、アビエルの顔が曇る。ルイスは軽く頷いて答えた。
「承知しました。適任者を選び、後ほど参ります」
ルイスが部屋を出ていくと、アビエルが抑えた声で尋ねてきた。
「……今夜は、ここでは過ごさないということか?」
レオノーラはなるべく柔らかい声で、冷たさが伝わらぬよう慎重に言葉を選んだ。
「はい。少し疲れましたので、今夜は隣の部屋で作業をした後、休ませていただこうと思います。申し訳ありません。では、こちらの数字をご確認いただけますか?」
書類を机に広げながら、できれば、このまま何事もなく流してくれれば——そう願いながら様子をうかがう。アビエルはしばらく無言だったが、やがて資料に目を落とし、淡々と確認を始めた。
レオノーラは心の中でそっと息をつく。
そして、確認が終わると書類をまとめ、机の端に置いた。
「それでは、おやすみなさいませ」
レオノーラは小さく微笑み、静かに頭を下げた。アビエルはしばらくその表情を見つめていたが、やがて感情のない声でひとことだけ返した。
「ゆっくり休むといい」
メモ書きをした予備の資料を抱え、隣室に戻る。洗面の水で身体を拭き、髪を整え、寝衣をまとってシーツにくるまった。しかし、隣室の広々とした寝台の、半分にも満たないこの寝床が、今夜はやけに広く、頼りなく感じられた。
——ほんの数日で、こんなにも変わってしまうなんて。
甘い時間に心を委ねすぎていた自分が、少し恨めしい。どうして、こんな状況になってしまったのか。考えれば考えるほど眠れず、ただ寝返りばかりを繰り返す。
うとうとしていたのか、それすらも曖昧なまま、やがて窓の外が白み始めた。
◇◇◇
朝の支度を終え、食堂へと降りる。湯気がもうもうと立ち込め、パンの香ばしい香りとスープの匂いが食欲を刺激する。厨房の者に「皇太子殿下の朝食を」と伝えたついでに、自分の分のパンとスープも受け取り、トレーを手に階上へ戻った。
ノックの後、返事を受けて部屋に入ると、アビエルはすでに身支度を整え、ソファで書類に目を通していた。
「おはようございます。ご準備、早いですね。今、お茶を淹れますね」
テーブルにトレーを置き、静かに支度を始める。アビエルはしばし黙ったままレオノーラを見つめていたが、やがて抑えた声で問いかけた。
「……昨夜は、よく眠れたか?」
ためらうような口調に、レオノーラは少し迷いながらも、正直に答えた。
「……いえ、寝返りばかりで、あまり眠れませんでした」
アビエルは、どこか戸惑ったような顔で視線をそらした。
「一人で眠りたいときは、そう言えばいい。ずっと一緒では疲れるだろうし」
そう言いながらも、その表情は読み取れない。
レオノーラは、昨夜の寝台の中で悶々と悩んだ時間を思い出す。
どうして、彼に直接相談しなかったのか。今思えば、話してしまえばすぐに解けた悩みだったかもしれない。学院時代、何かに悩んだときはいつも彼に知恵を借りたではないか。
「はい。おかげで少し冷静になれました。……実は、昨日の夜会で、皆さまの視線が気になって仕方なくて……」
ためらいながらも、昨夜のことを素直に打ち明けた。
アビエルは黙って話を聞いていたが、最後まで耳を傾けた後、なぜか不機嫌になり、「なるほど」とひとこと呟くと黙り込んでしまった。
「私は……どう振る舞えばよかったのでしょうか」
レオノーラの問いに、アビエルはこちらをしばらく見つめたあと、低い声で答えた。
「……今後、夜会のときは、私のそばにいなくていい。他の護衛と交代して、外の警備に回るか、部屋で待機すればいい。あの程度の会話なら、私ひとりで十分にこなせる」
「わかりました。他の護衛と調整して、本日の会談内容を整理しつつ、待機するようにいたします」
大きく息をついて、アビエルに向かって微笑む。
「やっぱり、相談してよかったです。……一人でなんとかしようとしたのが、そもそもの間違いでした。外交の邪魔になるのではと焦ってしまって……」
アビエルは眉をひそめ、フォークを皿に置いて、やや強い口調で言った。
「そうだな。どうして、昨夜のうちに話さないんだ。……今後は、困ったときはすぐに相談しろ」
「……はい。肝に銘じます」
ようやく本音を伝えられたことで、胸が少し軽くなった。とはいえ、アビエルの機嫌が悪くなってしまったのは明らかで、そっと彼の様子をうかがう。
「……今日の午後の視察ですが、やはり、私も外させていただいた方が……?」
「通訳なしでどうやって公式視察を進める。大丈夫だ。そういう問題じゃない」
大きく息をついた彼は、レオノーラをまっすぐに見据える。
「これは、外交とは別の問題だ。……だから、気にするな」
そう言って、再び書類に目を落とし、皿に手を伸ばした。
なぜアビエルがこんなにも不機嫌なのか、理由がわからず胸がざわつく。でも、今はこれ以上、問いただせる空気ではなかった。
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