29:ルーテシア外交6
広間では、皇太子の姿にルーテシアの王女たちや貴族の令嬢が色めき立っていた。アビエルはルーテシア語に堪能であり、公式な場以外での会話には通訳の必要がない。
レオノーラは、視線の先に彼の姿を捉えながら、ただ静かに護衛としての任に徹していた。
自分以外の帝国から来た護衛たちは、ルーテシアの兵に導かれ、あらかじめ決められた場所へと配置されている。
ボーデルアン王には、4人の妃と9人の王女、4人の王子がいるという。すでに年長の王女たちは他家へ嫁いでおり、今、アビエルと年齢が釣り合うのは、第2妃の娘・カリーナ王女、そして第4妃の娘のロゼリン王女とテノーラ王女だった。
ホールの入口に立ち、背筋を伸ばしたまま全体を見渡していると、カリーナ王女とアビエルが踊り始めた。王女は、年の頃が15か16だったはず。彼を見上げる眼差しには、純粋な憧れが色濃く滲んでいる。その後もアビエルは次々と王女たちと舞い、さらには妃たちとも優雅に踊った。
学院時代、列をなして彼に手を差し出した少女たちの姿を思い出し、あの時の経験がこうした場で生かされているなと、レオノーラは静かに見つめていた。
ふと、視線を上げると、ホールの向こう、テラスの出入り口のあたりで、昨夜の晩餐会で顔を合わせたウィンスレット王子と目が合った。彼は小さく頬を染めて目を逸らした。周囲に視線を巡らせると、幾つかの視線が自分に注がれていることに気づき、レオノーラはわずかに眉を寄せた。
——なぜだろう。特別な装いはしていないはずなのに。
身につけているのは、辺境の騎士団に支給される正式な軍服だ。帝国のものとは少し形が異なるが、礼を欠くようなものではない。
ふと、皇太子の寵愛を受けていると噂されているのだろうか。そんな想像が胸を過ぎり、レオノーラの口元から柔らかな笑みが消える。一度気になり始めた視線は針のように痛く、胸をざわつかせた。
◇◇◇
アビエルと想いを通わせるようになってからというもの、レオノーラは、かつての凛々しさに加えて、どこか艶を纏うようになっていた。少年と見紛われた時代はすでに遠く、今では誰の目にも麗しき麗人として映る。
引き締まった腰、長く伸びる脚、白磁のような肌に、漆黒の髪が背に流れている。神話に登場する軍神の像のように、堂々とした立ち姿でホールの片隅に立つその姿は、知らず注目を集めていた。
噂好きな貴族たちは、通訳もこなすその才知と気品に目を見張り、「さすがは皇太子付きの騎士」と囁いている。
だが、当の本人にその自覚はない。
◇◇◇
レオノーラは、視線を避けようと、そっと後方へ下がり、幕の陰に身を寄せた。
ひととおり挨拶を終えたアビエルが、ホールを出てくる。グラスを手にして、あまりに奥まった場所にレオノーラが佇んでいることに気づき、怪訝な表情を浮かべた。
「どうしてこんな奥にいるんだ?」
「ちゃんと殿下を見ておりますから……お気になさらず」
そう答えた矢先、ウィンスレット王子が二人に近づいてきた。
「殿下、この度はようこそルーテシアへ。最終日には砕氷船をご覧になると伺っております。私は海軍の任を預かっておりますので、殿下をご案内させていただきます」
ウィンスレット王子はアビエルと同年代で、第2王妃の息子。兄の王太子とよく似た整った顔立ちだった。
「それは光栄です。砕氷船には以前から興味がありまして。可能であれば、その技術を帝国にも導入したいと考えております。当然、有償でのご相談になるかとは思いますが」
王子が少し首を傾げた。
「ですが、帝国には冬に閉ざされる港がないと伺っています。技術を、何にお使いになるのですか?」
「その件については、ぜひ現地で直接、お話させていただきたい」
皇太子としての完璧な笑みを浮かべながら、アビエルが受け流す。
「この度の訪問では、学ぶことが多く、王家の皆様には深く感謝しております。明日は午後から貴国の教会を拝見する予定で、カリーナ王女にもご同行いただけると伺い、楽しみにしております」
その言葉に、ウィンスレットは表情を和らげ、レオノーラに目を向けた。
「帝国には、本当に美しい方がいらっしゃるのですね。私の妹たちなど、影が薄くなってしまうほどです」
耳を赤らめながらのその視線に、レオノーラは(やはり怪しまれている……)と内心で身構えた。アビエルは「大丈夫」と言っていたが、やはり気を抜いてはいけなかった。息を詰めるようにして二人の会話の「空気」になろうと努める。
「王女様方は皆、優雅で聡明でいらっしゃいました。王家の宝とお呼びするに相応しい方々ばかりです」
アビエルの賛辞にウィンスレットが微笑み、ようやく本題に入った。
「ところで、こちらの騎士の方は大変にルーテシア語が堪能で……。その制服、トルネア辺境伯領のものと見受けられますが、辺境にご縁がある方なのでしょうか?」
王子はレオノーラの方を向き、控えめにアビエルの反応をうかがう。レオノーラは視線を落とし、表情を変えぬまま静かに構える。
「彼女は、私の信頼する従者です。現在は辺境で要職を担ってもらっていますが、近いうちに再び帝都へ戻って任務についてもらう予定です」
「そうですか……。兄から、殿下の優秀な従者の方がルーテシア文化に関心を持っておられると聞きました。もしよろしければ、私から彼女へ何かご紹介できればと思いまして」
ウィンスレットは耳まで赤くしながら、真っ直ぐにレオノーラを見つめている。思わずアビエルに助けを求める視線を向けると、彼はわずかに口元を引きつらせながらも、笑みを崩さず応じた。
「ありがたいお申し出です。彼女は探究心が強く、きっと喜ぶでしょう。砕氷船をご案内いただく折には、ぜひ細かなお話を聞かせていただけますと幸いです。なあ、レオニー?」
促されて、レオノーラは王子の方を向き、深く頭を下げ、かしこまって答えた。
「光栄です。何卒、ご教示のほどお願い申し上げます」
従者が王族に声をかけられるなど前代未聞。——やはり油断しすぎたのだ。どうすればこの空気を払拭できるか、頭の中で策を巡らせながら、ひたすら礼儀正しく振る舞うしかなかった。
「そんなにかしこまらないでください。お噂の方とお話できて嬉しく思います。また船をご覧になるときに、ぜひゆっくりと」
王子は困ったように微笑むと、丁寧に辞して去っていった。
アビエルから空のグラスを受け取ったレオノーラは、静かに息を吐いた。
「……困りましたね」
そう呟くと、アビエルも苦々しい声で返した。
「まったくだな」
そして彼は、再び完璧な微笑を浮かべながら、社交の海へと歩を進めていった。
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