26:ルーテシア外交3
宿を出る朝、アビエルの強い意志により、「王都の門前で馬車に乗る」という折衷案で侍従頭との話がまとまった。
「まったく馬車なんて……荷は全部馬にくくりつけて走れば、日数も半分で済むものを」
不満げに呟くその横顔を見て、レオノーラはふと前日の自分を思い出し、噴き出してしまった。
「いっそ、馬の後ろに皇室の紋を刈り込んでしまえば、形式的にも問題ないのでは?」
そう冗談めかして言えば、アビエルは「おまえはやはり天才だな」と朗らかに笑った。
昼過ぎ、城郭の姿が遠くに見えはじめた。石造りの堅牢な構えの城は、どこかトルネア領のそれを思わせる。
角塔が等間隔にそびえ、鋸壁がその間を繋いでいる。約束通り門前で馬車へ乗り換える際、アビエルが大きくため息をついた。
王都ルーテシアは素朴な佇まいで、帝都やホールセンのような華美さはない。城壁の外では、家畜を放牧する領民の姿や農地が広がり、さらに中へ進むと石畳の通りと共に商人や市民の賑わいが広がっていく。最奥の城は堀と水路に守られ、跳ね橋の向こう、小高い丘の上に凛と構えていた。
馬車が広場に停まると、世話人たちが駆け寄る。レオノーラは自らの馬を従者に託し、通訳としてアビエルに寄り添った。石造りの外観とは裏腹に、城の内装は煌びやかで、皇太子の訪問にあたり、帝国とルーテシア双方の紋が掲げられていた。
謁見の間へ通されると、玉座にはルーテシア王が控えていた。
「グルティア帝国の皇太子、アビエル=ランドルフ=グリアロフ。賢王ボーデルアン陛下に謁見の栄を賜り、恐悦至極にございます」
アビエルが跪いて挨拶を述べると、王は白い口髭を撫でながら朗らかに応じた。
「殿下、立派になられましたな。あなたのご活躍はこの地にも届いておりますぞ」
王の隣には、王太子ウィレムと、その妃ビアンカの姿があった。アビエルは彼らに言葉をかけ、王太子妃には丁寧に手を取って礼を述べた。
その後、まずは部屋へ案内するという王太子と、並び歩くアビエルにつき従う。少し後ろをついて歩くビアンカ妃と目が合い、微笑むと、彼女は頬を赤らめた。――そういえば、こんな反応は久しぶりだった。
「こちらが貴賓室になります。従者の方も隣室をご用意しております。晩餐までごゆっくりお過ごしください」
部屋に通され、ようやく一息つき、レオノーラはアビエルの礼装を準備するため荷を開けた。
「通訳に護衛に侍従まで務めるとは、レオニーは万能だな」
茶化すように言って、アビエルがテーブルの果物をつまみむ。気に入ったのか、お!という顔をした後、レオノーラにも食べさせようそれを摘まんで近づいてきたが、ブラシで制した。
「服が汚れます。ところで……ルーテシアの王妃様は、お姿が見えませんでしたが?」
「王妃はいるが、体調が優れないらしい。……とはいえ、王太子の婚儀にも姿を見せなかったからな。そもそも王太子は王妃の子ではないから」
「それほど長く“公務を避ける”というのも……」
言葉を濁しつつも疑問を口にしたところで、侍女たちが湯桶を運んでくる。「湯あみを手伝います」という侍女たちに、アビエルは「優秀な侍従がいるから」と言って下がらせ、さっさと上着を脱ぎ始める。
「ちょっ……なにをしているんですか」
レオノーラが制止する間もなく、有無を言わさず服を脱がされそうになり、遮ると「湯あみの手伝いがなければ晩餐に出られない」と当然のように返され、結局、並んで湯に浸かる羽目になった。
全部、脱がなくても湯あみの手伝いはできたのでは......
ニヤニヤと嬉しそうなアビエルの表情を見ながら、少し腑に落ちない。
アビエルの髪を洗いながら、レオノーラは思った。帝国の皇帝と皇后は、やはり真摯で誠実だと。個人の感情で職務を放棄することなど一度もなかった。
「帝国は、主君に恵まれた国ですね。誇りに思います」
その言葉に、アビエルが目を伏せ、静かに答える。
「父も母も……いつも国のことを第一に考えている。だからこそ、自分もそうあるべきだと思ってきた」
「アビエルはすでに、その思いを体現しているじゃないですか」
そう言って髪の泡を流していると、アビエルが、曖昧な笑みを浮かべて呟いた。
「でもな…私は、帝国が崩れてしまえばいいと、そう願い続けている不届き者だからな」
その言葉の陰に、レオノーラは胸を突かれる。アビエルの心を思い笑って返した。
「では、それを支えている私もたいした不届き者でしょうね」
その言葉に、アビエルが体を引き寄せようとするのを、制して、湯から上がるよう促した。
「支度をしないと。遅れてしまいます」
レオノーラはガウンを羽織り、自らの髪をまとめ上げた。そして、アビエルの髪を丁寧に拭き、櫛で整え、礼服をトルソーに掛け、タイピンやクラバットを用意する。
袖を通すアビエルを手伝いながら、髪やクラバットの結びを整える。
「完璧です。殿下にふさわしい仕上がりになりましたよ」
鏡越しに映る美しい皇太子の姿に、レオノーラは誇らしげに微笑む。けれど、その表情を見つめたアビエルが突然唇を重ねてくる。
「そんな眼で見られたら……晩餐会などどうでもよくなってしまうな」
彼の囁きと、引き寄せる手に、レオノーラの心が揺れる。何度も唇を奪われ、着ていたガウンの前がはだけた。
その時、扉の向こうから、控えめなノック音が響いた。
「殿下、晩餐会の準備が整いました」
城の侍従の声が現実を呼び戻す。レオノーラは、自分の姿に驚愕し、恐ろしい速さで自分の身支度を終えた。
その様子を見ていたアビエルは、どこか愉しげに肩をすくめる。
レオノーラは――まったく、と心で呟きながらも、胸の内にかすかな余韻が灯り続けていた。




