25:レオノーラの嫉妬
ルーテシアとの関所を越えると、それまで整然と敷かれていた石畳は、山道のぬかるんだ道へと姿を変えた。馬車の車輪が泥に取られ、進みも遅くなる。
馬車嫌いのアビエルは、護衛たちと同じマントを羽織り、レオノーラの隣で馬を駆っていた。皇族としての公式な外遊には紋章入りの馬車がつきものだが、正直、レオノーラも馬車は苦手だ。
必要な荷を馬に括りつけて走れば、道が悪くとも日数は半分で済むのに――そう思ってしまう。
レオノーラ自身、これまで数えるほどしか馬車に乗った記憶はない。昔、教会へ向かうとき、厩舎長の奥さんのメイベルさんと馬車に乗った――粗末ではあったが、一応屋根があった。けれど中は想像以上に狭く暗く、結局帰りは御者台に座って帰ったことを、今でもよく覚えている。
「山越えに思いのほか時間がかかりそうです。陽が落ちる前に、宿へ着けると良いのですが」
そう告げると、アビエルも険しい表情で前方の道を見つめた。
「予想以上に道が悪いな。ルーテシア側からも商人が通っていると聞いていたが、このあたりまで整備の手は回らないのだろう」
戦の影が残る土地では、道を整える余裕などないのだろう。ようやく森が開けた頃、夕陽が地平に傾きはじめていた。北の空は陽が落ちるのも早い。急がねば、闇に包まれる前に宿に辿り着けなくなる。
レオノーラは御者に進行速度の調整を頼み、護衛の最後尾まで馬を走らせた。森が近く、野生動物や盗賊の危険が残っていることを伝える。とくに夕暮れ時は、獣たちが動き出す時間帯だ。
「アビエル様、こちらの護衛の指揮官はどなたですか?本来であれば、先ほどのような申し出も、その方を通すべきでした」
「リーダーはガスパルだが、実際の指示は私が出している。レオニーの判断で問題ない」
また、ガスパル。レオノーラの眉間がわずかに寄る。
「アビエル様は、ずいぶんと彼を重用のようですね。私が帝都にいた頃には、見かけなかった方かと」
どこか腑に落ちずに問いかけると、アビエルはちらりとこちらを見て、急に口元を緩めた。
「……やきもちか? 私がガスパルばかり気にかけているから」
――は?そんなつもりじゃないのに。そう思うのに、頬が熱を帯びてしまう。
「そ、そんなことではありません。あまりに頼りなくて、その、つい……」
拗ねたように馬の速度を上げるも、アビエルがすぐに並びかける。
「心配しなくても、ガスパルとはレオニーとするようなことはしない」
その口元には、またもや悪戯っぽい笑み。ほんとうにこの人は――時々、こうして、さりげなくイヤらしいことを言って意地悪なのだ。
「……おっしゃっている意味がわかりません」
ムッとした表情で再び距離を取ろうとするが、アビエルは笑みを深め距離を縮める。
「やきもちか……嬉しいものだな。ガスパル相手というのが、いかにもレオニーらしいが」
違う。純粋に護衛としての危機管理だ。そう自分に言い聞かせながらも、火照った顔は隠せなかった。
「……宿へ先ぶれに向かいます」
抑えた声でそう言うと、アビエルは相変わらず満面の笑みで、手綱を締めて走り出した。
「よし。一緒に行こう」
皇太子が自ら先触れとは前代未聞なのだが....。後ろの馬車の隊列が慌ててついてこようとしているのが感じられる。御者に先ぶれに出る、と一言伝え、アビエルの背を追った。――困った方だ、本当に。そう思いながら、思わず微笑がこぼれる。
宿に到着した頃には、あたりはすっかり薄闇に包まれていた。ルーテシア側から派遣された世話人が、すでに部屋の用意を整えていた。
「皇太子と従者の部屋を、続き部屋で隣同士に」
アビエルはルーテシア語で世話人に告げると、またレオノーラに意味ありげな視線を向けてきた。
食堂で一息つき、喉を潤していると、馬車が到着したという知らせが入った。レオノーラは馬の世話を手伝いに出て、その後、皆で夕食をとり、それぞれ部屋へ散っていった。
「部屋で湯を使いたい。頼んでくれるか?」
アビエルが世話人にそう伝え、レオノーラに目配せする。
「お前は、私の護衛だからな」
続き部屋となった部屋の仕切り扉を開け、荷物を置く。まったく……策士アビエルの術中に嵌まっている気がしてならない。
「それでは、部屋の前で任務についています」
癪なので、扉を閉めようとしたところ、壁とアビエルの体に挟まれた。
「ここに一晩中立つのか? それもいいが……この姿、誰かに見られたら、少し困るな」
そう言いながら、頬の横に肘をつき、レオノーラを囲い込むようにした。
「アビエル……」
名を呟いた刹那、唇が重なった。ゆっくりと、深く、互いの呼吸を確かめるような口づけ。その時、階段から使用人の声が聞こえてきた。
慌ててアビエルの胸を叩き、隣室へ逃げ込んだ。
しばらくして、隣の扉がそっと開き、アビエルが現れる。
「もう大丈夫。誰も来る気配はない」
そう言って、彼は自然な仕草でレオノーラの腰に手を添え、自分の部屋へと促した。その手の温もりに抗う理由もなく、レオノーラは静かに従う。
向かい合い、彼の腕の中で唇を重ねた。ささやかな口づけだったはずが、触れ合うたびに、胸の奥で何かがほどけていく。
「こんなふうでは、護衛にならないわ」
そう苦笑混じりに呟くと、アビエルは唇を離さず囁く。
「一瞬たりとも離れない。これ以上の護衛があるか?」
彼の声は低く、どこか甘やかで、理性の最後の糸をそっと手放すような響きをしていた。
やがて、湯桶の準備が整い、ふたりは肩を並べて湯の中へと身を沈めた。アビエルが泡立てた石鹸でレオノーラの髪を洗い始めると、指先が髪の間を通り抜けるたび、こそばゆくも心地よい感覚に包まれた。
バラの香りがほんのりと立ちのぼる。
「では、次は私があなたの髪を」
そう言って向き直ったレオノーラは、そっとアビエルの髪に水をかけ、石鹸を泡立てる。その手元を見ていたはずの彼の視線が、いつしかレオノーラの表情へと移る。目が合った瞬間、ふたりは自然に微笑み合い、再びそっと唇を重ねた。
触れ合う指先、――湯気に包まれた空間に、言葉よりも確かな想いが漂う。
「……ここで夢中になってしまったら、湯桶が先に音を上げそうだな」
そう言って笑ったアビエルに、レオノーラも思わず笑い声がこぼれる。
湯から上がると、アビエルが彼女の髪を優しく拭き、肩を抱いて寝台へと導いた。お互いの体を包む布の感触と、夜の静けさ。言葉少なに寄り添いながら、ふたりは長い旅の疲れを分かち合うように、やがてそのままそっとシーツの中へ身を委ねた。
夜は更けてゆく。
月明かりだけが、静かにふたりの時間を見守っていた。
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