18:辺境の日々4
皇太子の提案により、山越えルートの終着点に、春から夏のあいだ限定で警備の詰め所が設けられることになった。
それは、隣国から山を越えて逃れてくる人々が村に直接入り込まぬよう防ぐと同時に、流れてきた者たちに保護の手を差し伸べるための措置だった。
保護活動は領主館だけでなく、教会でも行われることになった。当初は「信仰が穢される」との声もあったが、司教自らが「保護は教会の務めである」と語り、特に子ども連れの流入者に限定した受け入れが始まると、少しずつ理解の輪が広がっていった。
さらには、皇室からの勅命により、流入者を帝国領内の未開拓地へ移送し、開拓に参加することで定住を認める制度が打ち出された。
土地を耕し、作物が育つまでには時間がかかる。けれど、自らの土地を得て、この地で生きていけるという希望は、彼らの心を支えた。実際、この夏、レオノーラたちが受け入れた流入者の数は、前年の倍以上にのぼった。
そして、ゴルネアからの流入者の増加は、国交そのものにも影響を及ぼした。
これまで帝国側からの申し立てに対し沈黙を貫いていたゴルネアの中央政府が、初めて書簡を送ってきたのだ。「戦線を離脱した兵士は脱走罪に問われるべきであり、帝国は彼らの保護をやめ、直ちに送還せよ」と。
脱走兵の急増は、戦況の悪化を物語っていた。脱走罪は重罪であり、それが意味するものは重い。
帝国はこれに対し、これまでの犯罪行為や流入者への対応に対する賠償を要求。ゴルネアはついに、話し合いに応じる意思を示した。
季節は巡り、短い夏が過ぎると、辺境には再び冬の気配が近づいてきた。レオノーラにとって、ここで迎える五度目の冬だった。
複数回にわたる交渉の末、翌春には隣国・クレイン辺境伯領で、ゴルネアの特使を招いた会談が予定されていた。ベリテア伯爵のほか、皇太子であるアビエルも帝国の代表として出席することが決まっている。
その日、レオノーラは雪の森を馬で抜け、詰め所へと向かっていた。空は厚い雪雲に覆われ、視界の先には何も見えない。アビエルは、ゴルネアとの国交回復に加え、ゴルネアとルーテシアの休戦の道を探っている。辺境領が隣国の問題に翻弄される現状を変えようとしているのだ。
彼はまた、未開拓地の開墾や、ルーテシアからホールセンへと続く幹線道路の整備といった、国内改革にも意欲を燃やしている。そのひとつひとつが、彼の描く未来へと着実に歩みを進めていた。
――本当は、その未来を近くで支えたい。
けれど今はまだ、その時ではない。空を見上げると、雪がまつ毛に積もる。レオノーラはそっと顔を横に振り、防寒具を鼻まで引き上げた。春になれば、アビエルにまた会えるかもしれない。その思いだけが、胸の奥をほのかにあたためた。
◇◇◇
昼食を取っていると、官舎の食堂に領主館の侍従が現れた。
「ベリテア伯爵が、お呼びです」
食事を急いで終え、制服を整えて執務室に向かうと、伯爵は穏やかな表情で告げた。
「ヘバンテス。次の春、ゴルネアとの会談で、通訳を頼みたい。教会で流入民と領民との橋渡しをしてくれた働きの件もあるが、何より皇室から推薦があった。あなたが最も適任だと」
「私でよろしければ、喜んでお受けします」
レオノーラがそう答えると、伯爵はさらに続けた。
「通訳として随行させるには、警備隊所属では、いささか不十分だ。そこで、君を辺境騎士団所属に任命しよう。役目は変わらないが、立場というのは必要だからね」
こうしてレオノーラは、その冬、ほんのわずかではあるが、自分の立場を取り戻すこととなった。
◇◇◇
春。会談が近づくにつれ、領主館は準備に追われていた。
会談は、クレイン領とゴルネアの国境近く、コートナムの町で行われる。招かれるのはゴルネアの特使一行。クレイン領では流入する農民も多く、戦線から遠いため脱走兵の姿は少ないが、30年前の戦争の記憶はなお根強く残っていた。
ベリテア伯爵一行は、会談の二日前にクレイン領へと到着。トルネア領とはまた異なる空気。石造りの要塞のような城が、春にもかかわらず深い雪の中に佇んでいた。
現在の領主は、ゴドリックの父、ベルトルド=ヨーアン=クレイン。自身も戦火をくぐり抜けた男だ。敵国への複雑な思いはあったが、皇太子との会談を経て、息子に平和な領地を託したいと願っていた。
その夜、レオノーラは晩餐の席でドミニクと再会した。
「レオさん、お久しぶりです」
ドミニクは、背丈も肩幅も広がり、表情に落ち着きを増していた。
「ずいぶん背が伸びましたね。お元気そうで何よりです」
「はい。今は兄と共に領主の補佐をしています。まさかこんな形でお会いできるなんて……」
「こちらこそ。隣領といえど、訪問する機会はなかなかないですから。こちらは、雪がまだ多く残っているのですね」
「ええ。国境の山の雪は、年中解けません。氷柱の女神の話、覚えていますか?」
「もちろんです。解けない氷柱も、この風景なら納得ですね」
「あなたに似ているとお伝えした女神像、もし時間があれば、ご案内したいです」
頬を赤らめたドミニクの姿に、どこか昔の面影を見つけて、レオノーラは思わず微笑んだ。
「通訳としての任務次第ですが、見られると嬉しいですね」
「会談が順調にいけば、ぜひ……。レオさん、以前よりずっと美しくなられました。お話ししているだけで、胸が高鳴ります」
思わぬ言葉に、レオノーラは一瞬息を呑んだ。
「そんなふうに言っていただいたのは初めてです。年を重ねるのも、悪くないものですね」
少し照れたように微笑むレオノーラ。その様子を、遠くの席から複雑な想いで見つめている目に、彼女は気づいていなかった。
◇◇◇
その夜、アビエルもクレイン領へと到着していた。
本当はすぐにでもレオノーラに会いたかったが、国家を挙げた交渉の場であり、警備は厳重、自由な時間はほとんどなく、重ねて、会談前の打ち合わせも山のように控えていた。
そんな中、晩餐で遠くの席にレオノーラとドミニクの姿を見つけ、渦巻く感情を抑えきれなくなっていた。
ドミニクは誠実な青年だ。彼がレオノーラを想う気持ちに偽りはないだろう。そして、もし彼女がその想いを受け入れたとしたら――誰からも祝福される、穏やかな未来が待っているに違いない。
自分には、その幸せを与えることはできない。
それどころか、今だって彼女の人生を縛り、影を落としているではないか――。
「ところで、殿下。ゴルネア側の折衷案についてですが、経済状況は予想以上に深刻のようです」
ゴドリックの報告に、アビエルは思考を切り替えようと努めた。しかし、心に巣食った苦い感情は、簡単には拭い去れなかった。
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