1:プロローグ
レオノーラは城壁塔から、山の向こうの青白い空を見つめた。夜が明ける。もうすぐ交代の時間だ。厚く着込んだ外套と、二重につけた分厚い手袋。鼻から下を覆った防寒具の隙間から、なおも冷気が染み込んでくるように感じる。
この土地へ来て、もうしばらくになるが、この寒さには一向に慣れない。夜の警備の後は、足の指の二本や三本は軽く死んでいるのではないかと毎回思わされる。
「レオ、交代だ 」
ゴードンが、背中の銃剣をガチャガチャと揺らしながら階段を上がってくる。最後の上り口で手を引っ張って上げてやる。
「昨夜は何も異常はなかったわ。さすがにこう寒いと誰も悪さをしようとも思わないわね 」
そう言って、お疲れ、とゴードンがさっき入ってきた入り口に体を捩じ込んで城壁の内壁に沿った階段を降りていく。
ここトルネア辺境伯領は、帝国の西の国境沿いにあり、連なる山脈の向こうには西側にルーテシア、北にゴルネアという国を有する。この二国は争いが絶えず、そのせいで辺境領は、常に不法な入国者や略奪者に目を光らせていなければならなかった。
階段を下りきって、小さな扉を開けると、すっかり明るくなり始めた朝の雪深い林が見えた。ザクザクと雪を踏んで石壁に沿って歩き、馬のいる場所まで来る。
「お疲れ、おまえも寒かったね 」
石壁の窪みに造られた簡易的な厩舎の中で、馬服をかけられ白い息を吐く馬に声をかける。応えるように馬がいななく。馬服をかけたままの馬にまたがり、厩舎から出て雪深い木立を歩く。ゴードンが来る時に踏みした足跡がすでに雪で埋まり始めていた。同じところを辿るように、警備の詰め所のある城門の方へ向かう。
レオノーラがこのトルネア辺境伯領に来て、もう五年になる。辺境警備隊に配属され、領内の見回りや城壁塔からの監視を主な仕事としている。
最初の冬は、この雪に驚いて、この寒さの中で夜間の警備など自殺行為だと思った。ある夜など、城壁塔の内塀が雪で埋まり、どこが塔の端になるのかわからなくて危うく転落するところだった。
木立を抜けると、遠くに城門が見え、その端に壁に突き出た煙突から白い湯気が吐き出されている詰め所があった。
馬を止めて顔を上げると、雪の奥で黄色い輪を作りながら滲み輝く太陽が見えた。これからまだまだ降りそうだ。顔を上げると長いまつ毛に雪が積もった。顔を振って雪を落とし、ずり落ちた防寒具を引き上げて再び詰め所へと向かう。
「おはよう、アーウィン、ゲオルグ。何か、あったかい物ある?」
詰め所の大きな分厚い扉を押し開けて、中から力一杯押して閉める。そうして詰め所で暖をとっている同僚に声をかけた。
「お疲れ、レオ。ほら、ホットワインだ 」
大きな木のマグにたっぷりと入ったホットワインを手渡された。手袋を外し、防寒具を首まで下げてそれを啜る。一気に口元が暖かくなり、鼻水を誘う。
「ありがとう。あぁ、生き返る。やだ、鼻水出てきちゃった 」
ずるずるとワインを啜り、ズルズルと鼻水を啜った。頬と鼻の頭を赤くして、大きな外套に体を包んだレオノーラを見てゲオルグが笑う。
「ははは、うちの坊主みてぇだな。鼻水がワインに入っちまいそうだぞ 」
「塩気が入ってちょうどいいわよ 」
笑うゲオルグに微笑みながら、近くにある椅子に腰掛けた。
「ゲオルグの息子さんは、もう幾つになった?」
「今度の春で上がちょうど十歳だな。下が七つになる。上の坊主が、この春から、剣を振りに領主館の訓練所に行くって張り切ってるよ 」
ここに来たときに、ゲオルグの奥さんにはとても世話になった。その時にエプロンの裾にへばりついて恥ずかしげに見ていた子がもう十歳とは。よその子の成長は早い。
「レオはこの後、今日は終わりか?」
アーウィンが声をかけた。筋骨逞しいアーウィンは、ちょっと見、怖い顔立ちだが、よく喋り、よく冗談を言う陽気な人だ。
「昨日の外回りからの夜間警備だったから、今日はこれで終わり。ここで昼まで火の番をしてから、午後の人と交代して寮に帰るわ。ゲオルグとアーウィンは?」
「俺らも今日はこれで終わりだよ。いいよ、俺が昼まで火の番するからおまえら帰っていいぞ 」
アーウィンがそう言って、薪をポンポンと暖炉に放り込んだ。
「そんなの悪いわよ。私は別に待つ人がいるわけじゃないし、アーウィンもゲオルグも家で家族が待ってるじゃない。私が残るわ 」
さぁさぁ帰って!というように二人を追い立てると、いつも悪いなぁ・・・・と言って、アーウィンは懐に隠し持っていた干し肉を、ゲオルグは干したいちじくをレオノーラの外套のポケットに押し込んだ。二人とも、ここに残って火の番をすることになったらワインのおつまみにするつもりだったものだ。
二人が出ていくと、レオノーラは分厚い外套を脱いで、毛皮でできたモコモコのブーツカバーを外し、ブーツを脱いだ。寒いとはいえ、ずっとブーツを履いていると中が汗で湿る。それが冷たくなると凍傷を引き起こす。靴下も脱いで素足を暖炉の方へ投げ出して、凍った指をニギニギと動かしてほぐす。何本かダメになったかと思ったが、指はちゃんと残っていたようだ。
向かい合わせの椅子に足を投げ出して、ほぅっと一息つく。足首の空色の石のついたチェーンが揺れた。外では雪が降り続いているのだろう。薄明るい窓の外からは何の音もしない。およそ一日半、まったく眠っていないのに、眠気はやってこない。
辺境伯領で仕事をし始めて、学院で習ったことの半分も実戦では発揮できないものだと思い知らされた。
何度目かの領内の見回りの時に、家に押し入った野盗と出会くわし、家人を守るために初めて人を切った。人の体を切り裂くのは、当然ながら鍛錬や試合とはまったく違う。
その時は、人の命と自分の命を守るために気持ちが張り詰めていたので、必死だったが、終わって宿舎に帰ってきたら、野盗とはいえ人の命を奪ったことに震えが来て、布団にくるまって泣いてしまった。翌朝、警備隊の隊長に、顔色が悪いことを指摘され、叱咤の言葉をかけられた。
『昨日、初めて人を切ったんだな。初めての時は。皆ショックを受ける。その時に相手を切らない選択肢があったか?人が人を切るのを仕方ないとは、思わない。だがな、ヘバンテス。自分の良心に揺さぶられて判断を誤れば、失われるべきじゃない命が失われる。野盗のように、人の命を奪おうとするものは、命を奪われることも覚悟しなきゃいけないんだ 』
その後、レオノーラは、今日までに5人の命を奪った人殺しになった。落ち込むし、辛いのは変わらないが、震えながら布団の中で泣くことは無くなった。人の命を奪おうとするものは、奪われることも覚悟しないといけない。それは自分にも返ってくる言葉だと思った。
ぼんやりと暖炉の火を眺めながら物思いに耽っていると、午後からの交代がやってきた。再び、ブーツや外套をモコモコと身につけて、重い扉の外に出る。雪はいつの間にか止んでいた。
建物の裏に回って城門と詰め所の間にある馬小屋から馬を出し、再び雪道を進む。途中で盛大にお腹が鳴った。そういえばもらった干し肉もいちじくも食べなかったな。外套のポケットに入ったままのそれを外からポンポンと確かめる。自分の体が生きようと頑張っているようで、よしよし健康だ、と少し気持ちが軽くなった。
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