3、遁走
放課後。
その日の帰り道は俺一人だった。
どうやら洋は別に用事があるみたいで、俺は海辺の堤防沿いの道を歩いて帰ることにした。
この地域は一応観光地だ。
海を眺めると海の反対岸の陸が見え、そこにはたくさんの風力発電のプロペラが回っている。
この地域は入り組んだ湾に面した山間の場所だ。
内海に面しているので波も低く、泳ぐのに適している。
また、近くには島もいくつかあり、一応昔は人がよく来ていたらしい。ただその繁栄もバブルと共に弾け、今は少し廃れている。
歩いていると少し大きい島が見えてくる。
立結島。
リゾート都市を掲げる玉郡市の観光名所。
島には橋が繋がっており、その陸地側には公園や日本庭園が整備されている。
昭和初期には人が沢山来ていたのだろう名残のある古い雑居ビルが近年の没落ぶりが伺える。
最近市が民間と共に再開発を指導しており、少しだけ活気が戻りつつあるらしい。
そんな中、公園の芝生では気持ちよさそうに横になってる人がいた。
主要な観光地ではあるが平日ということもあり、人影はまばらだ。
初夏の気持ち良い風に当てられて、自分も自然と芝生に座り、そのまま寝転んでいた。
上を見上げればこの地方に古くから伝わる桜の木が、ちょうど良い木陰を作っていた。
「信じられないぐらいデカいな」
その木の幹は直径で1mはゆうに超えてる。
地元では御神樹と言われているが、特別に冊がしてある訳でもない。立て札がある訳でも、しめ縄が付いているわけでもない。
ただの古い大樹。
でも、この老樹には神様が宿るとか死者が蘇るとか、逆に冥界への扉だとか、とにかくいわく付きの木だった。
「そんな話、誰が信じるかっての」
思えば、この時にこんなことを呟いたのが悪かったのかもしれない。
良く知りもしないただの大きな樹に畏敬の気持ちなんてこれっぽっちも持っていなかったんだ。
後になって思う。
多分、この木が全ての始まりだったんだと。
…。
あれ。
身体を半身起こす。
昼過ぎ、芝生に寝転んだ状態でいつの間にか寝てしまったらしい。
初夏と言えど、日が暮れれば少し冷える。
辺りは既に宵の口と言ったところだ
まばらだった人は既に全くいなくなり、目の前にある明かりが灯った立結島への橋が妙に明るく見えた。
「流石にヤバいな」
このままでは妹に怒られる。
今日は俺が晩ご飯の当番だった。
また「はぁ!?昼寝してたら夜になってた?冗談は顔と成績だけにしてよね!」とかどやされるんだろうなぁ。
今からダッシュで帰れば、飯の時間には間に合う。冷蔵庫のあり物で野菜炒めでも作ればいいだろう。
そうと決まれば、こんな所で寝転んでる場合では無い。
身体を起こし、そのまま立ち上がる。
「…なんだ」
どこか違和感を覚える。
あまりにも人が少な過ぎる。
いや、少なすぎるというか…全くいない。
「今日祭りかなんかあったか」
いくら田舎の観光地といえど、流石に人が全く居ないってことは滅多にない。
人がいないっていうか…。
車もいない。
いや、路上駐車などの車はあるが動いている車が見当たらない。
いつもだったらそれなりの交通量があるはずの大通り側も全く気配を感じない。
「通行止め…なんて話聞いてないが…」
とにかくこの場所にいることが恐ろしかった。少しでも早く家に向かいたい。
海沿いの道を少し戻る。
海側には立結島に架かる橋が見える。
いつもは夜にも人が渡っているが今日は一人もいない。
綺麗に橋が照らされているのがここまで不気味だとは思わなかった。
「っ、人!?」
家に向かう交差点の手前、堤防の上に一人の痩せたおじいさんが片膝を立てて座っていた。
黒いタキシードにハットを被った老人。まるで、この不気味な世界を創造した張本人のような、そんな不安がよぎる。
「…あの」
一瞬戸惑ったが、今の自分の現状を知る手がかりがあると考え、話しかける。
「繋がっただろう?」
…何を言っているか分からない。
だが恐らく、いや、確実にこの現象に関与している。
深呼吸をし、息を整える。
「…何が繋がったんですか」
しゃがれた声で話す老人は身なりも相まって酷く不気味に見える。
いや、老人と言ったがそれさえも分からない。まだそれほど歳をとっていないようにも見える。
とにかくその全てが異様だった。
「僕はね、この時を待ちわびていたんだ。どう思うかね。やれ無理だの、やれ老いぼれだの。やれイカれてるだの。あぁ気分が良い。最高の気分だ」
何を…言ってるのだろうか。
話が…通じてない。いや、聞いていない。まるで俺のことが見えていないかのような、独り言のような、そんな話し方。
全身の神経が悪いものを察知している。
早くここから逃げろ。
根源的な危険そのものがすぐそこに押し寄せているような感覚。
「これはね、始まりなんだ。まだ始まり。始まりの記憶さ。まだ第一歩に過ぎない。やっと逢える」
これは会話じゃない。そして独り言でもない。
うわ言のように呟くそれはまるで呪詛のように紡がれる。
「ッつっ」
突然に腕を掴まれる。
決して肉体的に痛かった訳では無い。だがパニックになり、声が漏れる。
「何するんだっ!」
「僕はね?間違っていない、間違っていないよ」
さっきまでこちらを見向きもしなかったのに突然と僕の目を捉えながら叫び出す。
何を言っているんだこいつは。
狂った人形のように老人が喋り続ける。
「世界の崩壊が始まるね、もう止まらない、ははははは。壊す?違う!違う違う逆だよ、蘇るのさ」
怖い怖い怖い怖い怖い。
まともでは無い。
身体が完全に危機を察している。
何に?この今にも折れそうな老人に?
…違う。
この老人も怖いが、もっと根源的な恐怖から逃げろと体が悲鳴を上げている。
鳥肌が止まらず、寒気が体を襲い、全身の毛が逆立つ。
身の毛もよだつとはまさにこういうことを言うのだろう。
「…なんだよあれ」
唖然とする俺の目の前で初夏の芝が、漆黒の空が、島の深緑が、紺碧の海が…ドロリとした赤に染っていく。
色が、世界の色が塗り替えられていく。
海はどす黒いべったりとした朱色に染まり、空は滲んだ血のような色に切り替わる。
人の生理的な不快感を催す色。
「意味わかんねぇ…」
俺は老人の手を無理やり引き離し、すぐさま走り出す。
頭では理解できない尋常じゃない何かが起きている。
目的がある訳でもなく、とにかく走った。
家へ、家の方へ。
家へと向かう交差点を曲がったその瞬間、突如、空からドロリとした赤い液体がゆっくりと垂れてきた。
落ちてきた朱が形を帯び、アスファルトの地面を覆った。
スライムのような無形の赤黒いモノ。
手足のように触手を伸ばす、異形のモノ。
ただの赤い塊が動いている状況が、化け物が出てくるよりも遥かに恐ろしかった。
「なんなんだよ…、なんなんだ!」
叫んでもしょうがない。頭ではわかっているが感情が言うことをきかない。
とにかく、走る。
異形の化け物から離れるように、この悪夢から逃げるように。
「くっ」
家に通じる道は既に先程の赤いスライムが覆っていた。
既に街の中はほぼ覆い尽くされている。
「っはぁ、道を変えるしかねぇか」
家には渚がいる。安否が気になったがそもそも渚は家にいるのか?
なぜ街に人がいないのか。
なぜ空が赤いのか。
なぜ俺なのか。
無我夢中で走り抜けると、海沿いの公園へと戻ってきていた。
「はぁはぁ…、ッここは…」
何故かこの辺りは先程の異形が少ない。
「とはいえ、すぐ後ろには来てる…か」
周りは囲まれ既に海に繋がる道しか残ってない。
その先には陸から橋がかかる立結島とその立結島に鎮座する八乙女神社がある。
幼なじみの実家。
数年前から顔を見てない幼なじみ。
…既にこの世にいない親友。
まさか自らアイツの家に向かうことになるなんてな。
立結島は周りを海に囲まれていて島へ渡れば、逃げることが出来ない。
ただ…、なぜだかそれが正しい気がして、俺は橋の方へと足を進めた。
綺麗に照らされた橋が島へと続いている。
「なんでこの辺りはあの化け物がいないんだ…」
まるでこの辺りだけ何かに守られるようにあの化物が入ってこない。
既に街中を走り回ってクタクタになっていた俺はゆっくりと歩きながら橋を渡る。
辺りが真っ赤に染まる中、白いタイルと街灯に照らされた手すりがやたらと白く映える。
ずずっ。
真ん中ほど渡り終えた時に地を這うような音がしてハッとする。
「…しまった、海か!!」
海の中から先程の化け物が触手を伸ばしてきていた。
「クソッ」
先を塞がれる前に走り抜ける。
橋の終わりには大きい鳥居がある。
そこを通り抜けた時に不思議な音が聞こえた。
しゃん。
…鈴の音だ。
昔よく聞いた音…神社の神事で使う神楽鈴。
「考えてる暇じゃねぇな…」
島に入ると正面には直ぐに階段がある。
その両脇には千本幟と呼ばれる願い事を書いた旗が立てられている。
島にある八乙女神社は弁財天という神を信仰している。
この地域に水に関わる神事があるのは、弁財天…正しくは市杵島姫命という神が水の神様だからだ。
ここでは、この水の神が不浄を洗い流してくれるということから様々なご利益があると考えられているらしい。
なんでも不浄を寄せ付けない島で、対岸と1キロも離れていないこの島は年中温暖な気候で対岸とは気温や植生などが全く異なると聞く。
「昔話だけど意外と覚えてるもんだな」
かつてドヤ顔で話してくれた親友はもう居ない。
「こんな出来事がなかったら鼻で笑い飛ばしてたな…」
急いで階段を登っていく。
階段を登り終わると既に下は異形で覆い尽くされていた。
「…不浄を洗い流すんじゃなかったのかよ」
動作は街中よりは遅いものの確実に俺の方へと移動してきていた。
神社の境内に着く。
境内はそんなに広くない。目の前には本殿があり、その奥には島の後方へと続く道がある。
正直ここまで来たがほぼお手上げだ。
既に疲労困憊で足は震えておぼつかなかった。
「くっ!」
その調子で走っていたので石畳に躓く。
すぐ後ろには異形の怪物は迫ってきていた。