5
「ライアン君、頭を下げて!」
小さく、しかし、たしかに聞こえるように夫人がライアンに声をかけた。
しかし、ライアンは「でも、だって」ともごもごと話していたが、意を決したように言葉をはっきりと紡いだ。
「ソフィア、だよな?」
「ライアン、……っ」
アンジェが悲鳴のようであり、切実にこれ以上口を開くな、と心から願った言葉もライアンには届かない。
周囲の令嬢もぎょっとして口を閉ざす中、ソフィアは扇子をパチン、と閉じた。
その音が嫌に響いたのは気のせいではない。
「ええそうよライアン。黙っていてごめんなさいね。私実は公爵令嬢なの」
「パ、パン屋のおじさんたちは…?」
「私が公爵令嬢だと理解した上でお世話になっていた方々です。そしてあなたの父親も、私の身の上をご存じです。といっても打ち明けたのは、公爵家へ戻る日の当日ですが」
「は、………親父も、おじさんたちも………みんなして俺を騙していたってわけか」
「騙していたわけではありませんよ。"貴族であることを言わずに生活する" そして"受け入れる側も、他言無用で生活する" それがルールですので、それに従ったまでです」
「はは………バカバカしい!そんなの、俺にだけは打ち明けてくれればよかったじゃないか。だって俺とソフィア、お前は恋人同士だったんだから」
そういったライアンに、今度は周囲がどよめいた。
もちろん、それはアンジェの両親も、だ。
「たしかに、あなたとは恋人同士でしたが、それでも打ち明けないのがルールです」
「じゃあ、俺とは最初から遊びだったってわけか。ははっ!なるほど!お貴族様様だな!」
平民だからってバカにしやがって、ふざけんなよ、と笑うライアンにソフィアは動じることなく、頬に手を当ててため息をついた。
その姿、動作、全てが洗練されており、ライアンは一瞬で口を閉じた程だ。
「困ったお方。お気の毒な程勘違いされていらっしゃるので、少々訂正させていただきますね」
その少し憂う表情でさえ、周囲がほぅ…と感心してしまうもの。
それはまさに、"公爵令嬢"だ。
「まず第一に。もしあのままあなたと恋人のまま公爵家へ戻ることになっていた場合、私は公爵家を出ることになっていました。公爵家令嬢であることを隠したまま、あなたと結婚することも私の両親は許可してくれていたので」
「は?」
「我がレオニダス公爵家には優秀な弟がいますし。それに身分を隠したまま婚姻したとしても、親子の縁が消えることはありません。平民として生きていく道も許していただいていた、ということですね」
ソフィアは口をぽかんと開けたまま黙るライアンを見ながら続けた。
「また、俺とのことは遊びだった、と仰った件ですが。それは私の台詞ではなくて?貴族と一緒になるから別れてくれ、とあなたが突然言い出したのですよ」
「……だ、だってそれは!ソフィアが貴族だって知らなかったんだから仕方ないじゃないか!」
「先ほども申し上げましたが、貴族だと言わないことがルールですもの。言うはずがありませんわ」
「俺だって……!ソフィアが貴族だと分かっていたら別れることはしなかったさ!あのまま結婚していたら、俺も公爵家の一員だったってことだろう?」
「………」
だから、貴族だと言わないことがルールだと言ってるだろうが!
それについさっき、身分を隠したまま平民として婚姻を結ぶことも許可を得ていたと言っていただろうが!
という周りの思いが一致したところで、4つの笑い声が響いた。
「ははっ、…ごほん。ぷ、はは!」
「ふふふ!ぷっ、ふふふふ!」
「くくっ、ぐ、ははっくくく!」
「笑うなよ…っくく……っぷ!」
再び、ソフィアはバッと扇子を広げて表情を硬くしてそちらを見る。
周りがそのソフィアの視線を遮らないようにそそくさと道をあけると、そこにはこの国の王子2人と王女1人。そしてこの国で最も高位な貴族であるレオニダス公爵家の嫡男が必死で笑いをこらえている姿があった。
言わずもがな、ソフィアの親族親戚だ。
周囲はもちろん頭を下げるが、ソフィアは下げない。それが許される関係だからだ。
「いや、すまないソフィア」
「だって姉さまの男性を見る目がなさすぎなんですもの」
ライアンは頭を下げながら唐突に理解した。
彼らは王子と王女だ。会場に到着する前、アンジェの母親が言っていた。
公爵令嬢は王家と親戚関係にある。つまり、従兄妹だ。
俺は―――どうしてソフィアと別れてしまったのだろう
あのまま恋人でいて結婚でもしていれば、俺の人生はもっとバラ色だったに違いないのに。
そうライアンは思ってソフィアをちらりと見たが、いつの間にかライアンの視線の先には美しい、ソフィアに似た美男子がいた。町でもこんな美しい男はいない。
「君、姉上と結婚していたら公爵家の一員になれていたかもしれない、なんて馬鹿げた妄想はやめなよ」
「―――」
「あのまま姉と君が結婚していても、公爵家が全力で守るのは姉のことだけだよ。子が出来れば、姉と子を。でも君は別。身分を隠して婚姻するんだから当然だろう。まあ君が貴族籍関係なく、姉のことを幸せにすることを絶対に怠らないような男なら話は違っていたけれど、君はその舞台にも上がれなかった。自覚あるよね?」
言われて、ライアンはがっくりと肩を落とした。
現実を、唐突に思い知らされた気分だった。
話からしてこの男はソフィアの弟だろう。
家族から、お前が姉と結婚していたとしてもお前のことなど知らないと言われたのだ。
最低なことをしたという自覚と後悔がじわじわとライアンの身体に浸透していく。
父親の長年の夢だったあの店をオープンさせたのはソフィアだってことは、ずっと見ていたから知らないわけがなかった。
自分の親のために必死に頑張ってくれた恋人だったのに、ソフィアを裏切ったのは間違いなく自分だ。
ライアンは小さい頃から親交のある自分ではなく、新参者だったソフィアが周りから頼られるのが嫌だった。父親をはじめ近所の人たちも、みんなソフィアを頼った。
自分が何もできないのだと認めたくなかっただけだったんだ。
そんなちっぽけな自尊心から、こんなことになってしまったのだ、と。
ライアンは今更ながらも自覚したのだ。
「さ、ソフィア姉さま。父上と母上も話を聞きたがってるから行くよ」
第二王子がさらりとソフィアの手をとった。
ソフィアは少し振り返り、何かすがるような目でこちらを見ているライアンではなく、真っ青になっているアンジェの家族に声をかけた。
「リンクドール伯爵令嬢、あの事業のことは頼みましたよ。私はあなたの商才を評価しています」
「は、はい!ありがとうございます」
「それから彼の家のことも、きちんとご両親にも話して真摯に謝罪をすること。
――そして、リンクドール伯爵。彼を貴族籍に入れるのであれば、教育は必須ではなくて?」
ソフィアはライアンのことを言っている。
ライアンもそれが分かって、顔をカッと赤らめた。
反対に、リンクドール伯爵の顔色は真っ青だ。
「このままではリンクドール伯爵令嬢の足枷にしかなりません。彼女には事業を維持することを頼みました。その邪魔になるような行動しかとれないのであれば、早々に縁を切りなさい」
「早急に対応いたします……」
ライアンは体を震わせた。それが、後悔からなのか、怒りからなのか、最早分からない。
何かを言おうと口は開くものの、何も言えないライアン。
ソフィアはそんなライアンを視界にも入れず、優雅に微笑んで「ごきげんよう」と言って国王夫妻の元へ第二王子のエスコートで行ってしまった。
そのあとに続くと思っていた王女殿下は、ライアンに歩みを進め、言った。
「あなた、最後までソフィア姉さまに謝罪の言葉を言わなかったわね」
「っ、」
「言っておくけど、"また今度"は通用しないわよ。姉さまは公爵令嬢に戻ったんだもの。姉さまより下位の貴族であるあなたは姉さまに話しかけてはいけない、これが貴族の常識」
そんなことを言っても、自分が話しかければソフィアは応えてくれるだろう。そう甘く考えているライアンの思考を読んでか、王女殿下は付け加えた。
「そのルールを破ればリンクドール伯爵家が社交界から消える。それが貴族であり、社交界を率いるレオニダス公爵家令嬢、ソフィア姉さまの影響力の大きさなのよ。あなた、そのソフィア姉さまを裏切ったのよ。社交界にいる貴族全員を敵に回したと思っていいわ」
「ぁ、いや………俺は、そんなつもりはなくて…」
ぼそぼそとつぶやくライアンに王女殿下はまたため息をついた。
「本当に甘いわねえ、あなた。よくて?ソフィア姉さまは貴族令嬢の中でも王家と血の繋がりのある最高位貴族の令嬢よ。王家と血の繋がりがある、即ち王女である私と同じく国のために他国に嫁ぐ可能性もあるの。王家に何かあれば代わって政を行うこともある。そんな家だから、あなたが姉さまと結婚したところで、あなたが公爵家に名を連ねることは残念ながらできないし、公爵家に足を踏み入れることもできないわ。姉さまは普通の貴族とは違うの」
王女殿下の話を、ライアンは何か夢物語を聞いているような心地で聞いていた。
――ソフィアは、そんなにすごい女性だったのか…。それなのに俺はソフィアを裏切ってしまったのか。
きちんと謝って、ソフィアの気持ちに寄り添わなくては…。
そんな思いを抱いたライアンだが、王女殿下はその思いを粉々に粉砕する。
「そんな貴族の令嬢に何かあってはいけないでしょう?だから、王家からも公爵家からも姉さまを陰ながら守る者がいたのよ。3年間ずっとね。もちろん、あなたのことも調査させていただいてるわ。すべてね」
「―――ず、…とて……ぇ、?」
「ずっとはずっとよ。あなたが姉さまに近づいてきた時点であなたのことも調べたし、注視され続けてきたのよ」
ライアンは青ざめる。
自分がソフィアに近づいたきっかけも知っているのか?誰が最初にソフィアと恋人になれるかで賭けたんだ。恋人になれたらすぐに別れるつもりだったが、ソフィアが慣れてなさすぎて面倒を見ていたらずっと続いていた……もしかして、ソフィアと体の関係になりたかったが拒否されてカッとなって手を上げたとき、止められた大柄な男たちはもしや…?いやそれよりも、貴族になるからと賭博で借金を抱えていることも全部…?それはまずい。知られるのはまずい。
どれだ?どれを知られているのだ
そうパニックになっているライアンに、王女殿下はため息をついた。
「すべて把握しているわよ。もちろん、王家も公爵家もソフィア姉さまもご存じよ。もう二度と姉さまに関われると思わないでね」
そういってソフィアの元へ歩いていく王女殿下にライアンは縋ろうとしてやめた。
"住む世界が違う"
まさにこれを叩きつけられた気分だった。